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2/遠野
V.
1day / October 21(thur.)

───外はすでに闇の帳に包まれている。

 ……そして、夜の闇はじわりと染み込むように廊下にも溢れてきている。

 ロビーの天井に設えられた、明り取りの天窓から差し込む空に輝く星々の灯火は――まるで紗に散りばめられた銀砂のよう。
 点々と壁に設置された間接照明だけが僕らの足元を照らしていて、それによって生まれた影が壁に延び、影と闇の境界がおぼろげに混ざり合う中を僕らは歩いていた。
 当然、さっきまで僕の両脇をキメていた拘束は解かれていて、既に各々自分の足で廊下を進んでいる。
 僕を先導するように──いや、実際先導しているのだけど──翡翠さんと琥珀さんが並び、その後ろを僕がきょろきょろと辺りを見まわしながらついて行く。
 薄ぼんやりとした星明りのもと、ランプに照らされ揺らぐ影法師。
 ぼんやりと灯りの点った長い廊下を、半歩ほど下がりしずしずと、また時に僕の前に立ち歩むメイド服と割烹着の女の子に連れられて。
「……なんか、おとぎの国みたい」
 僕は思わず、そんな感想を洩らす。
「詩姫様、何かおっしゃられましたか?」
 立ち止まって振りかえる翡翠さん。

「いや、ただの独り言。だから気にしないで」
「……………」
 翡翠さんはじっとこちらを見つめたあと、それでは、と一礼して歩き出した。

 先ほどの騒ぎを蒸し返すかのように琥珀さんが素朴な疑問を投げかけたのは、そんな時だった。
「で、翡翠ちゃん。どうしてあんな所で睨み合ってたりしてたの?」
 琥珀さんの言葉に翡翠さんはさっきのコトを思い出したのか、顔を赤らめ、俯きながら呟くような声で先程の騒ぎの根本に流れる命題を答える。
「…………それは、詩姫様が我侭を仰ったからです」
 うん、それは簡潔にして明瞭な答えだ。

────って。アレってワガママだったのか……。

 高々“様付け”を止めて欲しいと言っただけなのに、それを我侭とまで言われるとは。
 いや、でも……確かにさっきのはかなりワガママだったような気もする。
 と、言うか。
 実際自分でもだだっこ戦法だと思ってたし。
 でも、こうまではっきりと言われてしまうと、自分がかなり馬鹿な事を言ってしまったみたいで凄く恥かしい。
 だけど、あれ元はと言えば翡翠さんが“さん”付けを止めて欲しいと言った事から始まった事なんだけどなぁ……。
 なんて、考えていると。

「あらあら、詩姫さま。翡翠ちゃんはこう見えても硬いんですからあんまり我侭言っちゃ駄目ですよー」
 琥珀さんがにこやかにそんな追い討ちをかけてくる。
 琥珀さん。その言い方だと僕が完全に悪者扱いです。──勘弁してください。
「ええと、その……すみません」
 でも、僕はなんだか酷く悪い事をした気分に襲われて頭を下げた。
 すると、琥珀さんは困ったように微笑んでやんわりと言った。
「いえ、私に頭を下げられても……謝るんなら翡翠ちゃんに謝るべきだと思いますよー?」
 確かにその通りだ。
 僕が迷惑をかけたのは翡翠さんにであって、琥珀さんに迷惑をかけたわけじゃない。ここは翡翠さんに謝るべきだ。
「あ……うん。ごめんね、翡翠さん。我侭言っちゃって」
 翡翠さんの方に向き直ってぺこりと頭を下げる。
「──え──。……いえ、私もムキになってしまって申し訳ございませんでした」
 翡翠さんは僕に謝られるとは思っても見なかったのか、ちょっと困った顔で静かに頭を下げてきた。
 けど、顔を上げるとまたさっきのように、表情を動かさない、やや無表情とも取れる顔になって僕を軽く睨みつける。
「ですが、再三言いますけれど私に“さん”付けをする必要はございません」

 う────参った。

 やっぱり、翡翠さんは心の芯からメイドさんらしい。
 でも。
 僕がここでまたなにか反論をすると、きっと──また──さっきの二の舞になるに違いない。
 ん〜。
 ここはもう、諦めてこっちから白旗を揚げるしかないんだろうか?

 あぁん。

 なんて、じっ…と目からビームでも飛んできそうなくらい睨んでくる翡翠さんの視線をまっすぐ受けながら考えていると。
 突然琥珀さんが何か納得したようにぽんと両手を打った。
「あー、なるほど。そこで詩姫さまが交換条件に“様”つけを止めろと言い出してにらみ合いにまで発展したんですねー」
「──え」
「──は」
「いや〜、やっとわかりましたー」
 そう言って、そういうことだったんですねー、とばかりにきゃらきゃら笑いだす琥珀さん。
 そんな突然の琥珀さんの台詞に、僕は驚いて琥珀さんをまじまじと見つめた。
 翡翠さんも驚いた顔で琥珀さんを凝視している。
 だって。その言葉の意味するところ。
 つまり、琥珀さんは改めて聞き出すまでもなく。
 先程の騒ぎの原因を知っていたということになるわけで────
「ええと、琥珀さん?」
「あの、姉さん?」
「はいー?」
 頬に片手を添えて答える琥珀さん。
「いや、そうじゃなくて……」
 僕と翡翠さんがかけた声を聞いているのかいないのか、琥珀さんは眉を寄せてしばらくむむむと考えこむと、さも“いい考えが浮かびましたよー”とでも言うようにもう一度両手を打ち合わせる。
「えーと、じゃあ、こうしましょう!」

(?)

 思わず身を乗り出す僕と翡翠さんに向かって、ニコニコ顔で口を開く。
「わたしは詩姫さまをこれから“詩姫さん”と呼びますから、翡翠ちゃんの事は“翡翠”って呼び捨てにしてください。で、その代わりにわたしの事は“さん”付けのままでいいですので翡翠ちゃんの“様”付けは我慢してもらいますねー?」

 ……。
 …………。
 ………………?

「……はい?」
「……あの、姉さん?」

 遊んでいる子供のようににっこにっこしながら琥珀さんが言った言葉に、僕も翡翠さんも面食らった。

───琥珀さん。
 それ、何か変。
 ッつ〜か、絶対変です、ヘン。

 だって、もともとこれは僕と翡翠さんの問題だというのに、何でそこに琥珀さんの事まで入ってくるのか。わからない
 だと、いうのに。
 琥珀さんは、これで喧嘩両成敗ですー、いいですねーとか言いながらもう話が終わったような顔をしている。
「あの、ちょっと、ちょっとまって琥珀さん! 今のってどういうこと?」
 僕が慌てて琥珀さんを話しに引き戻すと、琥珀さんはあれれ? と不思議そうな顔をする。
「どう言うことって、そう言う事ですよー?」
 あはー、とでもいうような感じであっけらかんと答えて見せる。
 いや、その、そうじやなくて。
「いや、って言うか、今の変。絶対変だよ!」

 僕が騒ぐと、僕の横に立っていた翡翠さんも同意するようにうん、うんと頷いてみせる。
 ……う〜ん。
 なんか、何時の間にか僕 対 翡翠さん の構図は、僕と翡翠さんのタッグ vs. 琥珀さんとの対決、になってきたらしい。
「そうですかー? じゃあ聞きますよー? 翡翠ちゃんは主である詩姫さんに“翡翠さん”と言われるのがメイド的に我慢ならないんですよねー?」
「……ええ、そうです」
 びしっと指を突き付けるように身を乗り出した琥珀さんに対して、翡翠さんは押されるようにやや仰け反りながら頷く。
「で、詩姫さんとしては…ぱっと会っただけの女の子を呼び捨てにしたくない、ということですよねー?」
「う、うん、そうなるね」
 くりんと音がしそうな勢いでこっちに振り向いた琥珀さんに押されて僕も一歩引きつつカクカクと頷く。
「それで、詩姫さんは翡翠ちゃんに“様”で呼ばれるのが嫌で、翡翠ちゃんとしては主人にはやっぱり“様”を付けないとメイド的にダメダメなんですよねー?」
 単に確認をしているだけなのに妙な勢いがある琥珀さんの問いかけに、僕も翡翠さんもただ首を縦に振るしかなかった。
「ですけど、このままでは話は平行線で、詩姫さんと翡翠ちゃんは決して交わることなく日がな一日睨み合いをしてなきゃいけなくなるんですよー。でも、それはわたし的にも困るんですよー。秋葉さまのお世話をしつつ、睨み合ったままの二人を急かしてご飯食べさせたり、仕事とか学校とかに向かわせたり。わたしの仕事が増えちゃいますよー」
 ……あー。
 真面目な論理が出るかと思いきや、琥珀さんは真面目な顔のままいきなりそんな突拍子もないことをのたまわってくれた。
 いくら意見が平行線だからって、一般生活を無視してまで睨み合ってるわけが無いじゃないか……。
「まあ、それは冗談としましても」
 突然琥珀さんがそれはどこかにおいといて、とゼスチャーをして、僕と翡翠さんはかくんとよろけた。
 てっきり僕、本気だと思ってましたよ琥珀さん。
 でも。
 ちっょとまて、詩姫。
 翡翠さんもよろけているって事は?
(────)
 なんか、一瞬、怖い考えになってしまった……。
「でもですねー。実際の所、翡翠ちゃんは雇い主の秋葉さまの命令で詩姫さん付きのメイドになったわけです。夕方の騒ぎを見ても分かりますように、秋葉さまって腐ってますがお固いですから、翡翠ちゃんと詩姫さんが“詩姫ちゃん”“翡翠さん”なんて呼び合ってたら大目玉です。詩姫さん、翡翠ちゃんをそんな目に会わせたいですか?」
「う……」
 それは、確かに──困る。
 結局のところ、翡翠さんに我侭を言っているのは僕の方なので、それで翡翠さんが怒られたとあっては心が痛む。
 いくら僕付きのメイドだからって、雇い主に怒られるほどの迷惑をかけるわけにはいかない。というか、無理強いしてそんな所で迷惑をかけるのは人道に反すると思う。
「ですけど、わたしは秋葉さま付きですから、そこまで厳密にこだわる必要も無いですし。ですから詩姫さん、翡翠ちゃんのことはそのままで我慢してくださいな」
「う、うん。わかったよ琥珀さん。翡翠さんのことはこれから“翡翠”って呼ぶし、“詩姫様”って呼ばれるのも受け入れる」
 琥珀さんの本当に妹を心配した発言に、僕は白旗を揚げる宣言をした。
 ちょっと、どころじゃなく掴み辛いところがあるけれど、琥珀さんっていいひとだなぁ……。
「……姉さん……」
 翡翠さん、じゃなかった、ひすい、ヒスイ、そう翡翠の困ったような心配そうな声に、琥珀さんはいいから、いいからとでも言うようにあはーと笑って手を軽く振ってみせる。

 ……姉妹愛、だなぁ……。

 半ば感動的にそんな光景を見ながら、僕と秋葉もこんな信頼関係が築けるんだろうか、築けるといいなぁ、いや、築ける可能性が無いわけでもない、無きにしも非ずと思った。
 どっちだ、僕。いい加減ハッキリさせて頂きたい。
 まぁ、それはそれとして。
 いつまでもそうしているわけにもいかないので、野暮だと思いつつも翡翠さんに声をかける。
「えっと、じゃあ、翡翠さ…じゃなくて翡翠。これから翡翠って呼び捨てにするよ? いいね?」
「あ……はい、御分かり頂けましたか詩姫様。そうです、これで私を翡翠です」
 僕が問いかけると翡翠、じゃなかった翡翠さん──違う、翡翠はほっとしたような顔をして、恭しく腰を落として礼をする。

──でも。
 多分、どうでもいいことなんだけど。
 その私を翡翠ってイッタイなんなんですか? さっきっからずっと、文法的におかしいデスヨ翡翠サン。

「ええと、翡翠……」
 僕は先程から思っていた素朴な疑問を聞くために口を開…。

「じゃあ、話しも落ちついたところですし──」

 …こうとしたところ。

「──早く詩姫さんをお部屋にご案内しませんと。あんまり時間を食うと、詩姫さんがお風呂に入る時間も無くなっちゃいますからねー」
 僕が素朴な疑問を口に出すよりも早く、琥珀さんが翡翠を急かす。
「そうですね、色々と準備もあることですし。では詩姫様、急ぎましょう」
「あー……うん」
 あ。
 しまった。
 思わず翡翠の言葉に頷いてしまったお蔭で、結局翡翠に問いかけるタイミングを失ってしまった──あぁん、なんて間の悪い。
 でも僕は、まあ、その内聞く機会も文法を直す機会もあるだろうなー、あるといいなーなどと思いながら、歩き出した二人の後について行く。


 時差ボケしそうだな、と思ってしまうほど長い、長い廊下をまた暫くテクテクと歩いていくと──やがて、前を歩く翡翠と琥珀さんが一つの扉の前で足を止め、こちらを振り返って言った。

「こちらが詩姫様のお部屋になります」
「ささ、お入りくださいませー」
 翡翠は鉄製のノブをガチャリと捻ると、扉を開けて僕に先に入るよう促す。
 琥珀さんも翡翠の脇に佇んで、僕が先に入るのを待っているようだった。

「あ…、うん…」

 と、思わず翡翠が開けたドアをノックしそうな自分に気付く。

 ふたりとも気付かなかったみたいだけど。なんかちょっと、バツが悪い。
 じゃあ、改めて。
「……お邪魔します」
 ……。
 ……これから、自分の部屋になる所だというのに“お邪魔します”もなにも無いものだけど――
 何故か、少し躊躇し……次いで、誰かに入室の許しを求めるような自分の言葉にくすりと笑いながらドアをくぐる。
 どうも、初めての場所に入ろうとすると、この言葉が自然と口をついてしまう。
 そういえば。
 弓塚さん家に遊びに行くときも、部屋に上がるのは妙に居心地が悪かったんだよなぁ。
 僕が部屋に入ると、二人も僕について部屋に入ってきて、ぱちんと灯りのスイッチを入れる。

 すると。

 屋敷に電気が通っていることに安堵する間もなく。


「……な……」


──目の前に“どどーん”と積まれた大きな桐の箱が目に入った。


「なんじゃ、こりゃぁ!?」
 それが部屋に入った時の僕の第一声だった。


 割り当てられた──と、いうか、昔の僕自身のだった、らしい──部屋そのものは、僕が漠然と思っていたよりずっと広かった。
 何せ、ちょっとした宴会場並みの広さはある。
 それこそ、もしもここにバス、トイレ、キッチンがついているならこの部屋だけで十分に暮らせそうにも思えるくらい。
 でも、実際に据えつけられているのは壁の暖炉だけで、あと他に目立つものは造り付けの戸棚とちょっとした調度品くらい。
 暖炉とは逆の壁際に置かれたベッドとその脇のナイトテーブル、それとその反対側の壁際に置かれた──これまでの勉強机と比べると、作りが天と地ほども違う立派なアンティーク調の作りの──机、その上には、翡翠が運んだのだろう僕の通学鞄がきちんと置かれている。

 それと、部屋のまんなかに人の身長ほどの高さにまで積まれた、大きなオオキナ桐の箱が、どどーんと。

 で。
 周囲を、というか僕を圧倒するほど異様な存在感を放つ山積みになった桐の箱の脇には、多分積み残りの箱がいくつかと見覚えのあるくたびれたトランク、そして少し厳重な鍵のかかった取っ手付きのハードケースがひとつ、ちょこんと隅の方に置かれている。

「昼前に来た詩姫様のお荷物は全て運び込んであります。詩姫様の荷物をこれだけです。が、足りない物がありましたら御用意致しますので、お申し付け下さい」

 いや。
 足りない所ではない。
 それどころか。
 充分過ぎるくらいだ。
 第一。
 イクラナンデモ。こんな豪勢な桐の箱なんか、僕の記憶に無い。

 だいいち、僕の荷物といえば──
 ──そう、翡翠さんが運んでくれた机の上の通学鞄とその中の教科書や学用品、この眼鏡、今までちょっとした旅行に行く時に使ってきた、昔先生の真似をして買った古い旅行用トランクとその中に適当に選んで入れといた少しの日用品や衣類、それと……あのハードケースの中に収めた僕の大事なコレクション、くらいな筈だ。
 それに。
 よしんばまかり間違って、有間の家から僕の荷物を送られてきていたとしても──僕はもともと、こんな量になるほどの荷物を持っているわけじゃない。有間の家で使っていた衣服や雑貨類を全部入れたとしても、この山積みにされた箱の半分の量にも満たないものだろう。
 ならば、これはなんなのか。
 わからない。
 わからない。
 でも、高く積まれた桐の箱は、長さが丁度僕の背丈くらいで、幅も僕が寝転んだら丁度いい感じに入りそうな大きさだ。

────まさか、これ。
     ……僕の棺桶、とか言わないだろうな。

 いや、待て遠野詩姫。
 それは確かに僕は病弱だ。ある意味いつ死んでもおかしくない状態にあった、それも確かだ。
 でも。
 幾らなんでもそこまで準備万端・用意周到という訳が無いだろう?
 だいたい、棺桶は僕の目線の高さ位まで何個も積み上げられているものじゃないだろう? それに、僕が入るとしてもこの個数は変過ぎる。
 っていうか、見た感じ白木のハコだからっていきなりそんな発想をするのはおかしくないか今の僕?

「────あ、あの、翡翠サン?」

「詩姫、様?」
 僕がぽかんと口を開けながら問いかけると、翡翠はまださん付けをするのですかというような顔になって──僕の様子を見ると訝しげに首を傾げた。
「コレ、ナニ?」
 僕はぎぎっと音がしそうなほどゆっくりと首を巡らして翡翠を見ると、目の前の積まれた箱を指差しながらそう聞いた。
「────箱、ですね」
 見たまんま思ったまんまのえらく清々しい答えが帰って来た。
「細かく言えば桐材を使用して形作られた箱です。大きさから見れば、恐らく長持ち──衣装を入れるものだと存じますが」

 うん。簡潔にして明瞭な答え。
 よろしい、全く以ってメイドさんの鏡だけのことはある。

──ここまで清々しい答えだと、もう何も突っ込むところは無い。

 ……いや、あの。逆に言えばツッコミ所は満載極まりないんだけれど。

「いやっ! そう言うことじゃなくてっ! なんでこんなものがここにあるの? 僕、全く心当たりがないって言うか、こんなの見たことも無いんですけど?」
 僕がそうまくし立てると、翡翠ははて? と首を傾げて考えこむようにじっと僕を見た。
「そう、なのですか? ──詩姫様のお荷物ではないのですか? 何か、有間様のお宅から追加で送られてきたとか──」
「いや、それが、全く、全然、一向に、身に覚えが無い」
 僕がそう言うと、翡翠も不思議そうな顔をして箱を眺めた。
 恐らく翡翠さん、琥珀さんと一緒にこんな大荷物をうんしょ、うんしょと頑張ってここまで運んできたのだろうから、それが僕のもので無いと知った翡翠の胸中は想像に難くない。
 いや、待て。
 マテや、僕。
 さっき翡翠に“さん”付けしないといったの、早速忘れてるって……。

「やー、それはですねー」
 翡翠とふたりして疑問を胸の中に渦巻かせていると、琥珀さんがまるで状況にそぐわないほどに朗らかな声を上げた。
 見ると、琥珀さんはどこか悪戯っ子のような、いや、何か楽しげないたずらをしてみたお姉さんの様に口元に手を添えて意味ありげな含み笑いをしていた。
 この顔を見ると、どうやら琥珀さんは山積みにされた箱とその中身について何か知っているらしい。
 僕たちは固唾を飲んで琥珀さんの言葉を待つ。

「開けてみれば分かりますよー?」

 琥珀さんの口から出た言葉に、僕たちはカクンとズッコケた。
 確かに──そう言われてみれば、そうだ。
 納得できる。
 でも。
 翡翠もそうだけど、どうしてこの二人はそんなにそのまんまな事を大仰に宣言するんだろうか?
 翡翠はまだ素直の範疇に入れられるものだけれど、琥珀さんのはタイミング的に見事なくらいキラーポイントを押さえてくる。
 で。
 更に言えば、琥珀さんはそれが天然なのかわざとなのか、さっぱり判別つかないところがある。全く持って性質が悪い。
 僕はひとつ、ため息をつくと。
 二人に聞くのを早々に諦めて、実際に自分の目で中に何が入っているのかを確かめる事にした。
 箱の蓋に手をかけて力をこめると、蓋はガタンと音を立てて思ったよりも軽く外れる。どうやら特に鍵がかかっていたり釘で打ちつけてあったりはしなかったようだ……まあ、棺桶じゃないんだから当たり前か。
 つーか、棺桶の発想からいいかげん離れろ、僕。
 このままでは埒があかないとおもってちょっと爪先立ちになって、開けた蓋の隙間から中を覗くと────
 その中には。
「………これは……………」
 箱を覗く僕を、固唾を飲んで見守る二人の緊張した雰囲気が伝わってくる。
 僕も緊張しながら目を凝らし──


「…………ヨク、ワカラナイ」


 言った瞬間、後ろで二人がかくんとズッコケたのを感じた。


「……詩姫様、今は夜です。この灯りで隙間から中を覗こうとするのがそもそもの間違いではないでしょうか」
 翡翠の言う通り、この部屋の明かりは確かに暗い。雰囲気なのかどうなのか、ほぼ全ての照明が間接照明だからだ。
 お蔭で、ちょっとやそっとの隙間では中まで光が届かず、結果として箱の中が暗くて見えないのだ。
「あのー、詩姫さん」
「え? なに、琥珀さん?」
「そちらではなくて足元に置いてある箱を開ければ良いんじゃないですかー?」
「え……? あ、うん、それもそうだね」
 琥珀さんがたはー、だめですよ詩姫さんーとかいわんばかりにぺちんと額を叩いて言った言葉にしたがって。
 僕は照れを隠すために慌てて足元に置いてある方の───恐らく、琥珀さんと翡翠ではこれ以上山の上には乗っけ切れなかったのだろう───桐の箱に手を掛けた。
 深く……浅く……

 深呼吸。

(───よし)

 そう、覚悟を決めて箱を開けた途端。
 樟脳の匂いが、ツンと鼻を衝いた。


――え?


「え────これは?」
 箱の中にはきらびやかなナイトドレス。
 この滑らかな手触りは──おそらく上質の絹地だろう。

「何? いったい、なんで──!?」

 僕はそう言うと、そのまま蓋を剥ぎ取り、手が届くところにある
 片端から手当たり次第に箱を開け包みを解いていく。
 振り袖、袴、ドレス……

 さっきの黒絹のイブニングドレスを筆頭に、礼装やらなにやら、何着かの美しい衣装が入っていた。

 しかも。
 ぱっと見たところ、今迄開けた箱に収められていたもの全てが、どれも僕にぴったりなサイズだ。
 こうなると……恐らく、他の箱、あの山積みにされた桐の箱のほうにも同じように衣服が入っているのだろう。
 けど。
 僕はやっぱりこれらの服は見た覚えが無いし、着た記憶もない。
 こんな高そうな服は誕生日のようなトクベツな日ぐらいにしか買って貰えなかったし、僕の事情から誕生日に服を貰った事も無い。
 それに第一。僕が今まで誕生日に貰っていたのはこういう服なんかとはまったく違う──もっと、ベツのモノだ。
 でも。
 有間の両親がこれを送りつけたのでは無いとすると、僕には他にこんな高そうなものを大量に送ってくれるような知り合いはいない。
 フェイクならともかく──いや、一子さんな訳は無い。
 有彦姉には、僕は今日引っ越すなんて事一言も言っていない。第一、あのヒトはふざけてこんなものを送ってくるような人ではない。
 そりゃ昔は着せ替え人形替わりに遊ばれることはあったけど、こういうときに贈って寄越すほど暇人では……。
 ……。
 ない、だろうな?
 ないと思いたい。
 一抹の不安はあるが、基本的にTPOは弁えた人だから。うん──まぁ、ないだろう。
(う──)
 そう考えた途端、嫌な可能性を思いつく。
(なら)
 久我峰 斗波…はどうだ?
 確かに彼は、他人の気も知らずにこんなものを勝手に贈って寄越しそうな奴筆頭候補に挙げられるだろう。と、いうかいかな遠野一族にも、そんな暇人は彼をおいて他にいない。
 だが。
 もし、仮にこの衣類が彼が贈って寄越したものであるならば。
 翡翠が知らぬわけが無い。
 だいたい、ここに山積みにされる以前にそれこそ御引き取り頂くか──秋葉が塩撒いて叩き出すか命令一下ゴミ箱直行か今頃久我峰 斗波ごと暖炉にくべられているような気もする。
 何か、その光景がありありと瞼に浮かぶのが嫌だけど。
(う〜、ん)
 と、そうなると。
 やっぱり、あと可能性として思いつくのは、秋葉────いや、違う。そんな筈は無い。僕には、間違ってもそれだけは無いと断言できる。だいいち、秋葉は……今日まで、それもついさっきまで、僕が女になっていた事実を知らなかった。
 知っててあんな醜態をわざと晒せるのなら、それこそ名優の素質がある。
 でも、秋葉は昔から嘘はつけない性格だった。
 だから、違う。
 でも。
 だと、すると──これはイッタイ、なんなんだ?
 余計にわからない。
 わからない。
 わからない、けど。

「……は〜」

 ……でも、ちょっといいかも。
 幾ら僕でも。元がオトコノコとは言え……もう五年も女の子をやっていると、いいかげん女性の感性が身に付いてくる。
 今までは、実際に着る機会も。
 買いたいとまで思うことも無かった。それは確かだけれど。

(……でも、なー)

 思わず溜め息が出てしまう。
 やっぱりこういう服は、やっぱりオンナノコとして憧れる、なー。

 一番最初にあけた箱のナイトドレスを手にとって、掲げるようにぼんやりと眺めていると。
「───それは、ですねー……」
 そうやって出所不明の衣服に見蕩れている僕に、琥珀さんが静かに口を開いた。
 振り向くと、琥珀さんはまるで懐かしむかのように遠くを見つめながら、ぽそぽそと喋り始めた。
「それは、槙久さまが詩姫さんの誕生日の贈り物にと御用意したものなんですよー」

「────え?」

 僕は一瞬自分の耳を疑った。

「親父が──僕に?」
 あまりに信じられない台詞に聞き返した僕に、琥珀さんはゆっくりと重々しく頷いた。
「ええ。女の娘なら、綺麗な衣装のひとつも欲しい年頃だろうから、と───そう云われて」

 ……。
 ……それは、初耳だ。

「琥珀さん……」
 いや、初耳、どころの騒ぎではない。僕にとって───それはまさに、寝耳に水だ。

───遠野 槙久。

 ……僕、トオノ シキの……父親。
 そして。
 僕を勘当して屋敷から追い出した上に、秋葉──自分の娘にすら、実の兄である僕がこんなになった事──実は女だった事──を死ぬまで伝えなかった奴。
 それどころか、死んだ後も秘密にしておこう、いなかった事にしておこうとした人間が、なんでまた、そんな事を────

「……それって、一体……」
 思わず、そう問い掛ける僕に向け。

「詩姫さんは、誤解なさっているのかもしれませんがー……」
 琥珀さんはゆっくりと、記憶のなかの出来事を幼子に語り聞かせるように、ゆるゆると柔らかく言葉を紡ぐ。
「……槙久さまは、何も好きで詩姫さんを追い出したわけではないんですよ」
(──)
「詩姫さんを追い出したあの時も、他の一族の方に突き上げられて出したぎりぎりの妥協案だったんだそうです」
(────)
「ですから、詩姫さんが有間の家に行ってからもずっと、槙久さまは詩姫さんの事を非常に案じておられました」
(嘘──だ)
 親父の事は良く知っている。故人を良く言おうと努力しているの、ミエミエだよ。
 琥珀さん──
 それ、幾らなんでも、都合良過ぎるよ。


 でも、そんな僕のウツロな冷笑は。

「それこそ、暇があれば──無ければ無理に暇を作ってでも、二週に一度はこっそりと詩姫さんのご様子を見に行かれたくらいに」
「────な──」

 この瞬間、それこそ粉微塵に打ち砕かれた。


「──そんな、事」

 そんな事、聞いていない。
 いや、それ以前に────

 あの体面にだけ拘る、堅苦しい親父が、隠れてそんな事をしていたなんて。

────僕には想像すらできない。


 何か悪い事をする度に怒鳴りつけ、時には殴りつけてきたあの親父が、そんな人情溢れる事をしようとするなんて────
 わからない。
 わからない、わからない。
 わからない、あの親父が何故そんな事をしていたのか――
 そうまでして、僕のことを気に掛けていたのか──
 ホントウニ、ワカラナイ。
「で、ですねー。その箱に入っているのは、全て槙久さまが御自身で選んでは、詩姫さんの誕生日毎、折をみては用意されていた衣装です」
 少なくとも僕の中での親父は、もっと他人のように遠くツメタイ存在で、僕はその疎外感が酷く苦手だった。
 それが、それなのに実は、親ばかのように僕の事を考えていた、だなんて。
 あの親父がそんなことをするなんて──
 信じ、られない。

「いつもいつも用意だけはなさっていたんですけれど、いざ送るとなると、どうしても踏鞴を踏んでしまったようで。毎年毎年一箱ずつ増えていってました。それでも、詩姫さんが成長して着れそうに無くなったものは、有間様の奥様に伺った上で、一々仕立て直しに出されてまで……」

 知らなかった。
 あの遠野 槙久がそんな事をしていたなんて。
 そこまで息子──いや、娘を──思っていてくれたなんて。
 そんなこと。
 全く、知らなかった――。

「笑ってしまいますよねぇ……。何時もは大きな岩のようにどっしりと構えていた槙久様が、毎年いつも、詩姫さんの誕生日が近づくと決まってそわそわしはじめるんですよ。
 それで、ご自身でその大きな箱を車に載せて出掛けて行っては───結局、色々と考えすぎて、有間の御宅の敷居を跨げず夜遅くに意気消沈して帰ってこられるんですよ。
 で、いつも、いつも、帰って来ては何も言わずに自室に篭られ、“敷居を跨いで手渡す勇気が、どうしても持てない。─――子供達を見捨ててまで体面を守らされている私が、今更、どの面下げてシキに会えというのだ”と仰られては独りで荒れて、そのまま遅くまで慣れないお酒を嗜まれて──呷られていた。……それこそ、無理が祟って、酔って潰れてしまうまで」
 琥珀さんは記憶のなかの親父の面影を思い起こすように。
「有間の御宅にその箱を置いて、詩姫さんにたった一言、声をかけてくればいいって……ただ、それだけの事ですのに────」
 くす、と微笑み。
「槙久様は、それすら──出来なかった」

 あの厳しかった親父の裏側には。


「────そう、あの方は」

 そんな事実が隠されていただなんて。

「そんな、臆病な、ひとでした────」


 僕は。
 少しも気付いてすらあげられなかったんだ────

「────親父────」

 気がつくと、僕は桐の箱の横に座りこんで、手にしたドレスをぎゅっと抱き寄せるように胸に抱えていた。
 情けなかった。
 ホントウに、情けなかった。
 親父は本当に僕の事を想ってくれていたというのに、僕は……訳知り顔で自分の中から親父という存在を切り捨てていたのだ。僕を切り捨てたヒトだからと。
 でも、違った。
 本当は、違っていた。
 親父に感じていたあの疎外感は、親父が僕を切り捨てたからではなくて、僕が親父を切り捨てたから産まれた壁だったのだ。そんな自分が作った壁でココロを鎧って、ここまで思ってくれていた人の死に目はおろか別れを惜しむ事すらしなかったなんて。

 罵迦だ。
 ホントウに。


────僕は、罵迦だ────


 今更ながら自分の莫迦さ加減に打ちのめされ、心の中で親父に詫びて。
 僕はドレスを抱えたまま呆然と桐の箱を見つめていた。
 でも──こんな事実を突きつけられたというのに、僕はまだどこか、親父の事をはるか遠い人の様に感じてしまっている。
 こんな話を、事実を聞かされても、僕は。
 涙すら、出てこない。
 長い間に培われた家族の位置関係と言うモノは、そう簡単に覆るものではないらしい。
 でも。
 親父の事を少しづつ思い出しながらこの屋敷で暮らしていれば。
 いつか──なにかの弾みで、泣けるようになるかもしれない。

──今はいない、去った人を偲びながら。


 ドレスを抱き締めたまま呆然と箱を見つめる僕の肩に、そっと暖かい感触が広がった。
 その感触に振り向くと、琥珀さんが子供を見守るような暖かい眼差しで僕を見つめながら、包むように肩を抱いていた。
「……ですから──それは、全部詩姫さんの物です。物が物だけに普段着ることはありませんでしょうが、どうかすべてに袖を通してあげて下さいね」
「………………はい……」
 琥珀さんの言葉にようやくそれだけを返すと、僕はそっと桐の箱に衣装を戻した。
 僕も、琥珀さんも、ずっと俯いていた翡翠も……なにも、喋らなかった。


 部屋に、沈黙が満ちる。


 遠くで、ボーンと時計が鳴った。
 その音で、各々がはっとした様に動き出す。
「────詩姫様、そろそろお風呂にお入りになりませんと。あまりのんびりなさっていると、流石に消灯時間を過ぎてしまいます」
 俯いていた翡翠が顔を上げる。恐らく俯いていた時には浮かべていたであろう悲しみの色は、そこにはもう無かった。
「──うん、そうだね」
 僕は先ほどまでの雰囲気を振り払うかのように勢いをつけて立ちあがると、翡翠ににっこりと微笑んだ。
 と。今の言葉の中に耳慣れないものがあったことに気が付いた。
「って……消灯時間? 門限が早い上に消灯時間なんて」
 まるで修学旅行の自由時間みたいだ。
 そう呟いてみると、なるほど確かに部屋はホテル並みだし規則に煩い秋葉──先生や委員長ではなく妹だけど──もちゃんと居る。
 うん、しっくりくる。これは我ながらいい例えかも知れない。
「はい。消灯時間は夜十時となっております。それを過ぎたら部屋を出歩く事も控えて貰うのが規則になっております」
「ちなみに、門限は正確には七時に正門を閉めて、屋敷の入り口を閉めるのは八時ですからねー」
 翡翠が僕の疑問に答え、琥珀さんが補う。
「出歩いちゃ駄目って……部屋から出るなって事?」
 それはなんというか、厳し過ぎやしないだろうか?
 夜更かしを規制するのはまあ、どこの家でも一度はやっていることだろうけど、部屋から出ちゃいけないなんて、トイレにでも行きたくなったらどうするんだろう?
 幾らホテルと見紛うほどに豪華と言っても、見た所部屋にトイレが付いているわけじゃないし。
 まさか、部屋毎に携帯の────

────莫迦な。

 僕は頭を振って嫌な考えを振り飛ばした。
 そんな、ここは病院じゃないんだから幾らなんでもそんなことはないだろう。
 幾ら出歩いちゃ駄目と言われても、人間の生理現象だけはどうしようもない。
 それに、よくよく考えれば翡翠は控えてもらう、と言っただけで何が何でも出るな、とは言ってない。
「まあ、出ちゃ駄目って言っても、流石にお手洗いとかは仕方ないですよ? 単に、用も無いのにうろつかれると防犯上問題があるってだけの事ですので」
 僕が思ったことが判ったのか、敷地が広過ぎるのも善し悪しですねー、等と言いながら琥珀さんが僕の質問に答えてくれた。
 その上で、ニタァリと笑う琥珀さん。
「でも、そうですね。もし詩姫さんがお倒れになったら……主治医と看護婦を兼ねるわたしが色々と身の回りのお世話をさせて頂きますけれどねー」

────ぐは

 思わず、心情的にナニか吐きそうになった。
 喉に競り上がりかけたソレが芳しくも据えた錆の香りを発していたのは気の所為か。
 ……琥珀さん、それって話の流れから考えて、かなり、というかスゴ〜ク嫌なこと、考えてませんか?
 それは確かに時南医院の朱鷺恵さんには何度も何度もひとつひとつを憶えていられないくらいお世話になりました。
 なりましたけれど、これから毎日だって顔を合わす筈の人にその可能性を示唆されるのは幾らなんでもこっ恥かし過ぎる────
「…………姉さん。あまり莫迦な事を言ってないで下さい」
 あまりの発言に流石に黙っていられなかったのか、翡翠が琥珀さんを嗜める。
 流石メイドの鑑。その上姉妹。
 姉の不穏当な発言を止めるのは慣れた物なんだろう。助か……
「詩姫さまの身の回りの事は、全てこの私が責任を持ってお世話致しますので──」
 ……違った。上回りやがりましたよこのヒト。
「あのー……翡翠……?」
 既に口の端からナニかがはみ出していそうな心境で何とか声をかけると、翡翠は何でしょうとばかりにこちらを見、それから天井を見て、もう一度こちらを見ると言うよく、わからない行動をした後、何かに納得した様にうん、と頷いて口を開いた。
「詩姫様、早くお風呂に入りませんと後がつかえてしまいます。流石に時間も押しておりますのでそろそろお入りになってください」
「あ……え、いや、その……」
 そのあんまりにも何事も無かったのような口調に返す言葉も見つからずにしどろもどろになった僕を、翡翠は押し出すように部屋から追い出す。
「夕方お話に出た大浴場は流石に人手が足りず閉鎖しておりますので、第一浴場をお使い下さい。脱いだ服は脱衣所にある籠に入れておいて頂ければ、詩姫様が御入浴している間に回収して明日洗濯致します。バスタオルと寝巻きはその時にお届けにあがりますからご心配なさらないで下さい。本来は付き添うべきところなのですが、私は少し姉さんにお話がありますので、済みませんがお一人で浴場にお向かいくださいませ」
 そう早口でまくし立て、御願いいたしますとばかりにぺこりと一礼すると翡翠はパタンと扉を閉める。
 ぽつねんと、ひとり寂しく廊下に取り残される僕。

 ……。

 ……取り敢えず、扉が閉じられる寸前に。
“いやぁ〜ん、もぅヒスイちゃんったら、だ・い・た・ん”とか言いながらくねくねと色っぽく身悶えする琥珀さんは──

 ……。
 ……うん。
 やっぱり、そうだ。
 そうだよ、僕はそんなの、見なかったんだ。

 自分の中でさっきの光景を見なかった事にした。あとは言われた通り風呂場に向かおう。

 というか、閉じられた扉の向こうで何が起きているやら……気にならないといえば、嘘になる。
 でも。
 やっぱり。
 恐らく気にしたらナニカ悪い事になる。
 ──うん。
 何がなんだか良くわからなかったけれど、僕はそういう感じで一人納得すると───次の瞬間。
 背中に纏わりつくコワい考えに駆られたように、気付くとついさっき三人で部屋に来た道を今度は一人で走って戻っていっていた。






§







──服を脱ぐ衣擦れの小さい音が、脱衣所の空気に吸いこまれる。

 …………あの大浴場は使われていないと言われたから、流石に普通の家のようなお風呂を想像していたんだけど、なかなかどうして。
 脱衣所だけで結構広かったんだ、これが。

 ここに来て遠野という家の金持ちさが極まったような感じがする。
 部屋自体の広さは大体六畳ほど。床や壁は木張りで、もはやフローリングと言っても差支えがない。天井は湿度を逃す為に吊り型の天井になっていて四方に隙間があり、さらに天井自体の真ん中に大きく穴を開けて、そこに入れ子組みで格子状の木の骨組みを填めこんで網目のような模様が形作られている。
 灯りは全部柔らかい光の間接照明で、そのオレンジ色の光の中に、コレって脱衣所なんだろうかとオモワズ首を捻るような調度品が壁に沿って並んでいる。
 ……脱衣籠が幾つか入っている棚は判るけど、豪華そうな四脚のテーブルだか椅子だか棚だかに乗ったこれまた高そうな壷とかは、何のために置いてあるのかもうさっぱりわからない。


 スカートを落とし、途中引っ掛けた脚でそのまんまひょいっと籠に放り込む。
 我ながら惚れ惚れするほど見事な放物線を描いて、パサッとバスケットを揺らすのを視界の隅に見ながら。
 胸元のリボンを解き、ブラウスの襟からシュルッと引き抜いて。
 ふっ…と、思わず溜息をつく。

───どうも、やはり自分には理解できないセカイのようだ。

 取り敢えず理解できるのは、ここは個人の家だと言うのに、むかし中学の修学旅行で泊まった京都の旅館なんかとは比べ物にならないほどに立派だと言う事くらいだ。
 まあ、確かに大人数が泊まる旅館の方がスペースは広かったけれど、敷地面積から逆算した豪華さはこちらのほうが段違いに上だ。
 なにより、修学旅行の時は有彦率いる覗き軍団を撃退したりしなかったりしていたものだから、それよりは心休まるこちらの方が確実に優雅であるとも言える。


 でも。
 やっぱり、毎日使うとなると……流石に少し、気が引けるかな。

───どうも、やはり自分には理解できないセカイのようだ。


「────────う」
 服を脱ぐ手を止め、ぼんやりとあの時の騒ぎなどを思い返していたら、頭の中に一瞬思いだしたくないというか、忘れてはいけなかった事が浮かび上がる。
「しまった────」

 あの腕と頭。

 修学旅行のとき、お土産がわりに一山幾ら──五百十三円で買ってきた仏像の腕と後でコッソリ拾ったその頭を、有間の家の部屋と床の間とに忘れたままだ。
 うーん。
 どうしよう。
 どうしよう、どうしよう。
 流石に、“アレ”を置きっぱなしにしてきたのはまずい。
 いや、まあ流石に“アレ”からあのことがバレるとは思わないが、何があるのか分からないのが世の中だ。
 シエル先輩から聞くところによると、隠し事と悪事は思わぬ所から漏れると世の中相場が決まっているという。

 う〜ん……どうしよう。

───こんどコッソリ忍び込んで取ってこようかしら。

 で、僕の部屋の暖炉の上あたりに何気なく飾っておく。これ最強。

───いやいや、それなら。
 それくらいならいっそ後生大事に持ってないで証拠隠滅に燃やしてしまうとか。
 たしか、記憶に間違いが無ければこの屋敷の裏手、離れのほうに大きな焼却炉が───


 ん〜。
 なんて、あまりにも莫迦な事を真剣に悩んでたせいで、服を脱ぐ手が止まっていた。
 ん。
 ブラウスのボタンとついでにキツめのホックを外し、袖と一緒に引き抜いて外したブラを丸めて一緒に籠に放り、ショーツに手を掛け脱ごう──

──と、屈んだとき。
 はらりと目の前に流れた髪を除けようとして……自分の髪を纏めていたリボンの存在に気がついた。


「────────あ」

────しまった────


 その瞬間、修学旅行のとき間違って壊し、その後証拠隠滅のためバラシた重要文化財扱いの仏像の事なんか──頭のなかから綺麗さっぱり吹き飛んだ。
 居間で話した時、翡翠が琥珀さんと姉妹かどうか、と言う事だけ聞いて、肝心のリボンの事を話すのすっかり忘れていた。
 確かに、突然テレビや電話や久我峰 斗波なんかに話しが飛びに飛びまくったとはいえ、幾らなんでも当初の目的を忘れてしまったのは痛い、痛すぎる。
 大体、僕がこの屋敷に帰ってこようと思った理由は、それは秋葉の事もあったけど、このリボンを返す為でもあったじゃないか。
 ……僕は。
 僕は。
 僕はホントウにバカだ、トウヘンボクだ。
 でも───
 僕は、確かに、この屋敷に帰って来た。
 今だけが機会じゃない。この屋敷にいる限り、何時でもリボンを返すことはできる──
 まあ、何と言うか感動の──違うな、無様な、でもなく、スラップスティック……う〜、まぁともかくドラマティックな帰還だったりじゃなかったりで大忙しだったんだから、コレ以上イベント続きだったら、僕は圧し掛かる重圧に耐え切れずに倒れてしまうかもしれない。
 それは、ちょっといただけない。
 最近は、調子がいい日が続いているからちょっと忘れがちだけど。
 帰ってきてすぐ倒れるのは、幾ら慢性的に病人だからってあまりにも情けなさ過ぎる。
 それに、さっきの今ので早々に琥珀さんの世話になるのは流石にごめんだ。
(…………)
 ……身にゾワワワ、と悪寒が走る。
 そのあたりに考えが向かうたび。
 なにか……身の危険どころか、テーソーの危機すら感じる。
 僕は、自分の肩を両手で抱き締めつつブンブンと頭を振って、どうにか不毛な考えをどこか遠くに追い払った。
(……ま、まぁ……)
 それならそれで。
 病床に伏した僕が、甲斐甲斐しく看護に励む翡翠にさり気無くリボンを返す、な〜んてドラマティックな展開が待っているかもしれないけれど。 ……ぎゃ〜っ!

(でも、それって────)

 なんか最終話であっけなく死んでしまいそうだから嫌。
 そんな役回りだけは、正直なところごめんこうむりたい。

 だいいち。
 そんな悲劇のヒロイソなんて、僕、嫌だなぁ……

 む〜っ。


───なんか、変な方向に思考が走ってきたな。


 ……うん。
 どうも、というか、やはり、というべきか。
 なんやかやいって、今日一連の出来事で僕も意外と疲れているようだ。
 リボンを返す機会は何時でも訪れる。
 今は、それを確認しただけで十分だ。

 うん。そういうことにしておこう。
 第一。こんな屈んでぱんつ途中までずり落としたまま止まって、半脱ぎの情けない格好のまま自分で自分抱き締めて頭振ったりしゃがみ込んで妙なこと考えててもしょうがないもんな。
 あは、なんてミットモナイ。こりゃ他人様には見せられないね。
 これじゃただのヘンな人だよ、僕。

 そう思った僕は、下着掴んでた手を離しショーツをフローリングの床に落とすと。
 そのまますっくと立ち上がり、片っぽ脚を引き抜いて……その勢いのまんま脱いだ下着を脚の爪先で引っ掛けふたたびうりゃっ! っと脱衣籠に放る。
 そして──ナイス、オン!

 ん〜、よっし! ショーツはあっさり籠の中! 我ながら惚れ惚れするほど見事な放物線!!
 やったね!
 とか、思わずガッツポーズを取ってみたり。

 ……。
 …………。
 ………………なんか、虚しい。
 だいたい、いい歳こいて素っ裸のまま大股開いて爪先に引っ掛けたぱんつ蹴り上げて脱衣籠に放り込むなんて、不精もいいとこ。さっきに輪を掛けて恥ずかしい光景かも。

 む〜っ。

 少しの間、そんなこんなで悩んだ後で。
 服脱ぎっ放しのまま適当にうっちゃっておくのも翡翠に悪いと思い、取り敢えずテキトーに脱ぎ散らかして脱衣籠に放っていた服と下着、そしてリボンをふたたび手に取り、あらためて丁寧に畳んで籠に入れ棚に置いておく。
 でも、そのとき。
 ふと思い立って、リボンを一番上に目立つように置いたのは。
 もしかすると、回収に来た翡翠が見て気がつくかも知れないと無意識に思ったためかもしれない──。
 そんな自分に、思わず口元が緩む。
「これで───よし、と」
 置いた服の代わりに籠に用意されていたタオルを持って、風呂場へのガラス戸をからからと開け──

「うわっ!!」

 純粋に、驚いた。

 脱衣所だけでも金持ち極まってた感じだというのに、風呂場は風呂場で更にゴージャスな雰囲気に満ち充ち溢れていた。
 ……いや、そうは言っても。
 当然風呂場なんだから、勿論そんな無駄な調度品やら有象無象やらがドデかんと置いてある訳ではない。
 シャンプーやらリンスやらボディーソープその他諸々。
 お風呂と聞いて普通に思い浮かべるような、ごくごくありきたりなものが置いてあって……スノコと湯船があるだけだ。
 だがしかし。湯船も壁も、全てが木で作られており、そこかしこから芳しい天然木の薫りが漂ってくる。
 これって、所謂総檜ってやつ?

 床はプラスティックでもタイルでもなくて、純粋に石だ。
 天然の大きな岩を何枚もわざと雑にスライスしてタイル状に敷き詰めてある。
 切り方が雑なのは、多分そこが水場だからで滑らないようにとの配慮であり、これが普通の床だったりしたら、多分磨き抜かれた御影石でも使いたかったに違いない。
 床にはこれまた一目で天然木だと分かる木製のスノコが置いてあって、どうやらその上で体を洗ったりするらしい。
 壁際に片付けられている木製の椅子の横に、これまた木製の手桶が有って。そのくせ壁に据えつけられている現代風のシャワーだけが妙に場違いで。
 その下には────


──────────何故、ケ□ヨン?


 ケ□ヨン、と言うのは……アレだ。
 今はもうお風呂屋さん……銭湯自体殆ど見かけないけど、銭湯に行ったらコーヒー牛乳やフルーツ牛乳──今はそう言わなくなったんだっけ?──ともかく、ソレラと並んで定番中の定番と言われる、あの伝説の洗面器だ。
 黄色いプラスティックで作られた洗面器のまんなかに丸い文字で「 ケ □ ヨ ン 」と書いてあるだけなのだけれど、色々様々な漫画や小説なんかで多用されていて、知らぬものはいないのではないかと思わせるほどに有名なアイテム。そのくせ、実物を見た人間は数えるほどしかいない。
 それも。
 今ではもう作られていないのか、銭湯に行ってもケ□ヨンの洗面器は置いてないところが多いらしい。
 もっともそのお蔭で今では逆に好事家たちの間では高値で取引されることもあると言う、逸品。
 でも、これって。

───────琥珀さんの趣味だろうか。

 う〜ん。
 ……でも。
 僕には、それ意外にちょっと考えられない。
 幾ら遠野が成金ここに極まれりとて、幾らなんでもここまで場の調和を乱すような罵迦丸出しな趣味に走るわけはないだろう(多分)。
 まして、今の当主は秋葉だ。
 ついさっきまでのやりとりで心底思い知らされたように、お嬢様としての教育は行き届いているだろうから……こんな俗物丸出しなチョイスなどするはずがない。
 やはり、ここは素直に琥珀さんの御茶目と考えたほうがしっくり来る。

 でも。
 よく考えると。
 ここは使用人用のお風呂ではなく、家人のための風呂だ。
 (──と、いうことは)
 もしかしたら。

 あの秋葉も、意外とこのケ□ヨンを気に入っているのかもしれない。
 そう思って、洗面器を手にとってしげしげと見直してみる。
 すると、ところどころに傷が入ったり、日に焼けたみたく色落ちしていたりして……よく見ると、結構使い込まれた形跡がある。

「う〜ん……?」

(───と、なると……)
 きっと、秋葉はこれを気に入っている。
 そう考えることが出来る。
 見た目こそ安物だけど、これ、意外と結構可愛いデザインだし。
 年頃のおんなのこなんだから、やっぱり秋葉にもこういうものを楽しむお茶目なところがあるのだろう。

 大体、今迄どんなけったいな育てられ方をしたと言っても、今秋葉と一緒に学校の寄宿舎にいる友達は、いくらお嬢様学校でも多分ふつーの子なんだろうし。

 ……普通、かなぁ。
 なんか心配になってきた……。


 うーん。
 でも、やっぱり。
 なんか、さっきまでの秋葉とギャップがあり過ぎて、ちょっと……想像するのが難しいけど。
 妹の意外と可愛らしいトコロが見えて、お姉ちゃん、ちょっと微笑ましく思ってみたり。
 それに。
 ……コレのおかげで、ちょっとほっとした。
 大体、この屋敷に来てから驚くことがありすぎた。
 特に、いくら遠野の血縁とはいえ、どちらかというと一般家庭だった有間で育った僕には目の毒とも言えるような驚きがことのほか多かったものだから、こういうちょこっとした……俗世間との繋がりが感じられるものが有ると本当にほっとする。

 ……って、いうか。
 もし、これがなかったら。

 例えば明日の朝、ねぼすけな僕が思いっきり寝過ごして翡翠さんが……、じゃ、なかった。そう、“翡翠”、翡翠が僕を起こしに来たりなんかしたら、もう完璧に錯覚していたに違いない。

 で。

 もし仮に、そんなことになったとしたら。
 多分、いや、もう間違いなく。
 僕はここがホントに現代日本なのか疑っていたに違いない。
 いや、まあ、僕が今こうして暮らしているのは、紛れも無く現代日本ではあるのだけれど。
 でも、“これが普通の生活だ”なんて先入観を抱くようになっちゃったりなんかしたら、なんかそれはそれで、ヒトとして大事なものをなくしてしまいそう。

(遠野くんは、ほんと、浮世離れしてますからねー)
(それ、しょ〜がないですよセ、ン、パ、イ! だって遠野クンってば、丘の上のお姫様なんだもん!)

 ……シエル先輩と弓塚さんに寄って集ってからかわれる、自分の姿が脳裏に浮かぶ。

────うぅ。
 ……ほんと、気をつけなきゃ……。

「……くっちゅん」
 思わずくしゃみ。
 ちょっと、冷えたかな?
 どうもクシャミが出きらずにムズムズする鼻をしゅんしゅん言わせつつ。
 裸のまんまケ□ヨンしげしげと見つめて感慨に耽る遠野 詩姫……傍からみてると、スッごく情けないかも。
 なんて、しょうもないことを考えながらシャワーのコックを捻る。
(早いとこ温ったまって──)
 途端にノズルからもうもうと湯気の立つお湯が噴き出してきて、僕の肌を勢い良く打った。
「わ、あちちちち」

 噴き出し始めのお湯の熱さに驚いて、思わず後ろに飛び退る。
 ちなみに、ここのシャワーの温度調節は水とお湯を別々に出して混ぜるなんてアナログな方式ではなく、数字が書かれているコックが別に有って、それで温度を調節する現代風だ。
 それもガス湯沸かし機に点火した時独特のガス臭さも何かが燃えるような音も全然しないから、これは多分、電気温水器なのだろう。
 良くよく見ると、この一角だけつくりが妙に新しい感じがする。
 後付けでちょっと手を入れたとか、そんな感じ。
 ……せっかく総檜なのだから、湯船で手桶にお湯を汲んだほうが雰囲気が出るとは思うけれど、それだと色々と時間が掛かったりなんだりしちゃうから、きっと後付でシャワーを増設したんだろう。
 髪が長いと、手桶からお湯を汲んでいては間に合わないことが多いのはもう骨身にしみて分かってる。長い髪の手入れはシャワーのほうが色々と便利なのだ。
 うん。
 やっぱり、文明の利器って、いぃなぁ……

 部屋の前から走って一階に降りた後。
 お風呂場まで来る道すがら───ただ単なる廊下なんだけどそんな気分がするくらい長い───ここのお風呂って、入るとき、ひょっとしてタスキ掛けした翡翠さん琥珀さんが後ろで薪をくべて沸かしたお湯をせっせと湯船に入れたりなんかするのだろうか、とか、まさか五衛門風呂で茹だつまで煮られるとか、そんな具にもつかないことを考えては怖い考えになって慄いていたんだけど。

 流石に、そこまで時代錯誤ってわけじゃなかったんだ……。

 ……一安心。

 ──まてよ、僕。
 この屋敷を一体なんだと思ってたんだ?
 ここだけタイムスリップしている訳じゃないんだから。

 そんな具にもつかないことを思いつつ、水量のコックを捻る。
 で、温度調節自体は適温になっていたから、暫く手を出したり引っ込めたりして適温に安定するのを待つ。
 でも。
 自分でやっといてなんだけど、これって実際安定してるかどうかはわかんないんだよね。
 何度か手に当ててるうちに手のほうが慣れちゃうから、多少のずれが出てもわかんないし。
 とは言っても、僕はそんなに病的に神経質な訳ではないから、手が慣れた時点で降り注ぐお湯を身体に当てる。
 ああ……良いお湯だなぁ……。
 まだ湯船に漬かったわけじゃないけれど、思わず溜息をつきつつシャワーのお湯を堪能する。
 僕自身あんまり気づいてなかったけれど、かなりの疲れが有ったらしい。
 まあ、思い起こせば気疲れだけは朝から延々としている上に、屋敷についたらついたで泣いたり笑ったり驚いたりと忙しいことこの上なかったから、疲れるなというほうが無理かもしれない。
 っていうか、ここまで精神的負担がかかってよく倒れなかったな、僕。
 もっとも、僕の貧血は精神的なものじゃないから、気疲れしても倒れないときは倒れないんだけど。
 かわりに、どんなに調子が良くても倒れるときは倒れるとも言えるのが難だな。
 あー…もう…結構行儀悪いけど、かるーく身体を流したら湯船に浸かってしまおうかなぁ……。
 シャワーに打たれつつ、そんなことを考えてみる。
 記憶の中の大浴場は、本当に大きなお風呂場だったけど、このお風呂も一般家庭から見れば、かなり広い。
 部屋自体の半分が湯船だけど、その湯船がまた、大人が四人位入ってもまだのびのびと入れそうなのだ。
 有間の家に遊びに来た弓塚さんが、お風呂が広いとしきりに感心していたけれど、ここは面積的には大体その二倍に匹敵するんじゃなかろうか。
 流石にもう子どもじゃないから泳ごうとは思わないけど、縁に頭を乗っけてゆったりと浮かぶくらいは造作も無く出来てしまう。
 有間の家でも足を伸ばすくらいは出来たけれど、流石に浮かぶことなんて出来なかったからなぁ。
 やったらとても気持ちがいいだろうなぁ。
 そう考えたら途端にゆったりと浸かりたくなった。
 うん、身体を洗うのは後に回して、とりあえず浮かぼう。
 浮かんでぼーっと、まったり加減に浸ってみよう。
 よし。
 それ、思い立ったが吉日だ。
 そう思って、とりあえずシャワーを止めると髪をまとめる為に両手で首の後ろを掻き揚げた。

 と。

 カラカラっ──と軽い音と共に、ガラス戸が引き開けられる。

 外から入ってきた涼しい風が、軽く火照った肌の上を優しく撫でていく。

 結構慣れ親しんだ感覚に、僕は大して気にせず、そのまま鼻歌まじりで髪をまとめる作業を続ける。

────なんだかんだで。
 有間の家の一人娘、都古ちゃんは僕に懐いており、僕がお風呂に入っている時に乱入してくることも多々あった。
 で、僕は僕で都古ちゃんの成長が楽しみだったりする。とか言いつつ、その実頬っぺなんかフニフニして、や〜らかい感触を心行くまで楽しんでみたりする訳で。
 昨日もふたりナカヨクお風呂に入ったから、きっと今日も一緒に入る心積もりに違いない。
 にぱっと元気良く「おねぇちゃーん」なんて言いつつ、流石に風呂場だから突進はしないで──────

「もぅ──」
 いつもいつも、のぼせ上がるまで入ってるんだから。
 昨日の今日なんだから、湯当たりしたってボク、知らないぞ?


──────って、ちょっとマテ。


 そのとき。
 ふと、重大なことに気が付いて動きを止めた。

 いいか、遠野詩姫。
 今、僕がいるのはどこだ?

 もう、僕は有間の家にはいない。
 落ち着け。そして、よく考えろ。
 今、僕がいるのは。
 有馬の家じゃなくて遠野、遠野の屋敷だろう────?
“ばさっ”
 何かが落ちる音が、響く。

……ふ、振り向くのが、怖い。

 キュッと胃のあたりが重くなる。
 掌が汗ばみ、呼吸が荒くなる。
 心音が煩わしい。

 詩姫。勇気だ、勇気を振り絞り今メノマエに立ち塞がる現実を直視するんだ!


 恐る恐る。
 振り向くと、そこには──秋葉が立っていた。

「あ──」
「秋葉ぁ」

 お嬢様のたしなみか……タオルで身体の前面を隠した秋葉は、ぽかーんと魂の抜けたような顔をして、そのまんま風呂場に入るでも出るでもなく、ただ、ぽ〜っと突っ立っている。
 その足元に櫛が落ちているのを見ると、さっき落としたのはどうやらこれらしい。

 と、あまりに突然のことでショックだったのか、硬直した所為で秋葉の身体を隠していたタオルがぱさりと落ちる。
 秋葉はそんなことにも気が付かないで、ただただ僕をじーっと凝視していた。
 いや、秋葉が見ていたのは“僕”というより……“僕の一部分”、だ。

 タオルが落ちた所為で、秋葉の身体を隠すものが無くなった途端、僕は秋葉がナニヲ見ているのかこの上も無く理解してしまった。

 あぁ、そうか。
 そういうことかぁ。でもね。
────秋葉ぁ。
 元オトコの僕が言うのもなんだけど、おんなのこはムネじゃない、は〜とだよ、は・ぁ・と。


 僕としては重いだけのこんな荷物よりは、秋葉の軽そうなスタイルのほうが羨ましいんだけど。
 でも。そんなことを言ったら多分……いや、まず間違いなく烈火のごとく怒るだろう。
 と言うのは火を見るよりも明らかだから敢えて口を噤んでおく。
 ……っていうか、一緒にお風呂入ったとき、そのことをオモワズ正直に言ってしまって弓塚さんを怒らせてしまったのはそんなに記憶に古くない。本人も結構気にしてたのか、暫くの間プンスカして口も利いてくれなかったぐらいだ。

 だからね、秋葉。
 おんなのこはムネじゃない、は〜とだよ、は・ぁ・と。
 それ気付かないひと、多いんだけどね〜。

 ……って。
 でも。
 今言うと、なんか白々しいよなぁ…

 ……っていうか、幾ら女の子同士でも、相手の身体をじっくりねっぷりと見るのは流石に失礼だろ、うん。

「えーと、秋葉?」
「……はい?」
「タオル」
「はい……」
「タオル、タオル落ちてるよ」
「あ、はい……」

 秋葉は僕の言葉にぼんやりと頷いたけどそれ以上何をするわけでもなく、ぼんやりと、でもしっかりと、僕の身体を舐めるように下から上までじっくりと見つめている。

 と。僕は秋葉の視線ではたと気がついた。

 よくよく考えると、女の子同士といえども、そりゃあもう、ナニからナ二までばっちりと、それこそ隅から隅まで僕の、というか秋葉とお互いの裸が今まさに人の目の前に晒されているという訳で。
 しかも、その相手は小さい頃から一緒にいた都古ちゃんとか、僕自身も知らなさそうな所まで知ってそうな朱鷺恵さんとか、親しい付き合いの弓塚さん──いや、朱鷺恵さんや弓塚さんに見られるのだって未だに恥ずかしい──ではなく。
 ……秋葉。
 ───秋葉。
 秋葉だよ秋葉!
 イモウトですよイモウト!
 そりゃ確かに秋葉は妹で、八年前は一緒にいたけど、あれから今までまったく顔すらあわせなくって、ある意味他人といってしまっても良いくらい僕は相手の事を知らないわけで。小さい頃に見られてあまつさえオモイッキリ引っ張られてたりしてたのはあくまで男の頃で、秋葉は今の僕の裸なんて、そりゃ見たことなかったわけで。
 あまつさえついさっきまで“あぁん”なやりとりした挙句自爆しまくってたわけで。

 ……それを自覚した途端、全身が火照る。

「き……」
「ご……」

 恥ずかしさが込み上げて来る。
「きゃあああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!」
 あまりの恥ずかしさに、思わず悲鳴が喉から飛び出した。
 顔を真っ赤にしながら思わず両手で胸と股間を隠すと、すとんと降りるようにしゃがんで体全体を何とか秋葉の視線から逃げ出そうと身体をよじる。

「ご……ごめんなさい、ごめんなさい、兄さん! たっ……確かに、あなたはオンナノコのカラダですッ! えぇ間違いなくッ!!!」

 僕の悲鳴で我に帰ったのか、秋葉は、両手で目をふさぐように顔を隠し………って、指の隙間からばっちり覗いてるしっ!!

 そりゃ、僕は視線を受けることは慣れている。

 何でかって言うと、自分ではよく分からないけれど、どうも僕は人の視線を集めてしまうようだ。
 街を歩くたびに男女問わず僕のほうを見て、中にはあからさまにずーっとこっちを見つつすれ違っていく男だって少なくなければ幾ら鈍感な僕だって気になる。
 もっとも、声をかけてくる人はいなかったからそれがどういう種類の視線なのかは未だに判別つきがたいけれど。
 でも、それだってこんなにじっくりと、しかも裸を見られたことなんて無い。
 っていうか、銭湯や温泉なんて殆ど言ったことはないし、修学旅行でも僕の胸の傷を知ってる弓塚さんが色々と計らってくれた御蔭で視線を気にしなくて良かったし。
 だから、こうやって秋葉にじっくりと観察されてしまうと、無性に恥ずかしい。
 恥ずかしいから、他にどうしようもなくて──しゃがみこんでいろいろと両手で隠したまんま、秋葉をう〜〜と見上げるしかなく……。
「あ、秋葉ぁ……見ないでよぅ……」
 僕の言葉にはっと我に返ったのか、秋葉は慌てて後ろを向くと急いで風呂場から立ち去ろうとする。
「す、済みませんでした兄さん! まさか兄さんが入っているとは夢にも思わなくって……! ………え?」
 と。
 後ろ向きのまま誰かに押されるようにまた戻ってくる。
 押されるように、というか振り向いた瞬間にぽんと肩に乗せられた手に確実に押されている。
「ま、ま、ま。秋葉様、折角なんですから家族水入らずでじっくりと裸のお付き合いをいたしましょうー。
 ほらほら〜、詩姫さんもオ・ン・ナ・ノ・コ、女の子同士なんですから、そんな恥ずかしがったりなんかせずにー」
「え? え? え?」
 どんどん秋葉を押しながら、そんなことを言いつつ入ってきた琥珀さん。
 もう既に自分も一緒に入浴準備完了のようで、一糸たりとも纏っていない。
 うわ、琥珀さんすっごく肌のきめ細かそう……羨まし……
 ……って。
 ちょっとまて。
 琥珀さんが風呂場にそんな格好で入ってくるということは。
 それってもう、既に準備万端オールオッケーとか、もうそんな感じじゃない!?
 突然のコトに秋葉は状況の整理がつかないらしく、そんなに強く押されているようにも見えないのに踏鞴を踏みつつされるままにされている。
 流石にこれは予測範囲外の出来事で、僕もぽかーんと琥珀さんを見つめる。
 更にその後ろから、恥ずかしそうにタオルで身体を隠して、そそっと翡翠まで入ってくる。
「ちょ、ちょっと、琥珀! これはどういうことなのか説明なさい! ほら、翡翠も!」
 流石に秋葉は慌てていても一応当主。
 恐らくって言うか、十中八九、というか天地神明にかけて間違いなくすべての元凶で有ろう人を問い詰める。
「……わ、私は、その、止めたのですけれど姉さんが……」
 なんて消え入りそうに答える翡翠。
 でも。
 その御風呂セット片手に入浴準備完了な格好でいっても説得力ないよ、ヒスイ。手に持つ桶に黄色いアヒルちゃんまで居ちゃ尚更。
 ……っていうか、持って来てるってコトは僕も一緒にアヒルちゃんで楽しめって事なんだろうか?
 む〜。
 で、琥珀さんはそんな翡翠を敢えて無視するかのように、にこにこっと笑顔を浮かべて真正面から秋葉の顔を覗き込む。
「説明も何も、詩姫さんに御風呂に入っててもらったんですよー」
「な、なに!?」
「いやですねー、第二浴室の方はちょーっと釜の調子が悪い感じでしたから、それでしたら第一浴室の方でもいいかなーとか思っちゃったりなんかしたりしたわけです。
 ほら、詩姫さんだって御疲れでしょうから、ゆっくりと暖かい御湯に浸かって貰いたいじゃないですか」
「そ、それならそれで先に私に一言あっても……」
 琥珀さんにどこからどう聞いても口車チックにしごくもっともっぽい事を言われてやや押され気味な秋葉。
 いや、気味、と言うより完全に押されている。
「はい。ですけど、わたしも翡翠ちゃんも詩姫さんを御部屋に案内したりしてましたからねー。詩姫様を御風呂場に送った後で、秋葉様にお伝えしようと思ったんですけれど、丁度入れ違ってしまったみたいで。それで、折角ですからこのまま一緒に入ってもらったほうがいいかなーとか思った次第でして。ほら、今から一人ずつ入っていたのでは時間的に問題がありますし」
「そ、そう……まあ、そ、それはそうだけど……」
 当主の威厳もどこへやら。秋葉は完全に琥珀さんに押されっぱなしだ。
 もしかして、秋葉って琥珀さんに弱いのかなぁ……?
 思い返せば琥珀さんは、僕と再会した当初から秋葉の精神的特長を良く分かっていたし。
 恐らく琥珀さんは、僕が屋敷にいない八年の間ずっと秋葉に就いていたのだ。秋葉も色々とお世話になっているだろうし、当主と使用人という立場が関わらなければ、頭が上がらない部分というのもあるかもしれない。
 いや、どちらかというと世話をして貰っている分だけ頭が上がらないというか。
「まあ、流石に詩姫さんが男のままでしたら大問題ですけど、今は詩姫さんだって女の子です。
 ほら見てください!
 全然問題なし!
 のーぷろぶれむでっす!
 御互いじっくり相手に慣れながら歩み寄るのもいいですけれど、こういうイベントが起こってしまった以上、これを御互いのスキンシップに活用しない法があろうか! いえ、ありません! 大体、神代の昔より、日本人のスキンシップといえば宴会か風呂、呑む打つ買うと相場が決まっておりますし!」
───あの、琥珀さん。
 ……拳握り締めてココロからエレクトしているところ、大変申し訳ないのですが。それは……オンナノコには、当てはまらないと思います。
 っていうか、そんな古くから決まっているものでもないと思うのですが。
 大体その頃“風呂”って風習あったっけ?
 流石にここまで来ると秋葉だって、驚くのを通り越して呆れるんじゃ……。
「……そう、そうね。折角なんですからこういうのも良いかも……」
 ……って、完全に飲まれてますよアキハサン?!
 あきはぁ……秋葉ってもしかして、勢いに弱い? っていうか、追い風だと強いのに、向かい風だとあれよあれよと押し流されるタイプですか?
 駄目だぞ、秋葉。言いくるめられたりなんかしちゃ。もっと自分をしっかり持たなきゃ。
 もうなんていうか、ナニガナンダカよくワカラナイ状況の中で、思わず冷静に現実から逃避していると、そっと静かに僕の脇に誰かがよる気配がした。
 いや、誰かと言っても、今、僕の目の前で不思議な空間を形成している秋葉と琥珀さんの他にはあと一人しかいない。
「あの……詩姫様、お騒がせして申し訳ございません……」
 そう言って、僕にぺこりとお辞儀をする翡翠。
 上体を倒した拍子に、傾いた桶の中のアヒルちゃんもカタンと音を立ててお辞儀する。
 持ち主に似て律儀なアヒルちゃんだなぁ。
 ──いや、そりゃ偶然だろうけど。
「あ……いや、いいよ……。なんだか、こうなったら腹をくくるしかないみたいだし……」
 実際、なんかこのまま皆で入浴続行という気配が濃厚になってきてるし。
 っていうか、濃厚どころか決定事項(無理矢理事後承諾)っぽい。
 さっきは流石に慌ててて、思わず悲鳴なんか上げちゃったけど、落ち着いてよくよく考えると皆女性なんだし。まあ、見られて恥ずかしいのはまだあるけど、これから家族になるんだからそんな事言ってちゃ駄目なのかも。
 実際──まだ余所余所しい部分が僕にあるとはいえ──有間の家でも、都古ちゃんが興味本位でか、女になった僕が御風呂に入っているところに乱入してきてから、なんとも気まずいあの雰囲気が徐々に薄らいできたし……。もしかしたら、裸の付き合いって言うのは男女問わず有効なのかもしれない。
 うん、そう思ったら、恥ずかしいなんて言ってる僕がなんか逃げてるような感じがしてきた。

 ピンチじゃなくても、よく見て、モノを考えるってのはやっぱり大事なんだ。

───先生、この教えを僕に教授してくださって感謝します───

 そうと決まったら、落ち着くのも早い。
 翡翠に申し訳なさそうな顔をさせているのも申し訳ないし、ここはバーン、とぉ! 構えておくのが一番なのかも。
「では……御一緒しても構わないのですね?」
 翡翠がやや心配そうな目で僕を覗き込む。
「うん。皆これから家族なんだから、琥珀さんが言うようにこういうのも大事なことかもしれないからね。翡翠が嫌じゃないんだったら、一緒に入ろう」
 まだちょっと恥ずかしいけど、開き直ればこれはある意味皆の輪に溶け込む願っても無いチャンスなのだろう。
 おずおずと聞いてきた翡翠に、僕はにっこり笑って頷いた。
 翡翠は僕に釣られたのか、頬を染めつつ一瞬だけやわらかい笑みを浮かべるとすぐに真面目な顔になり、では、と頭を下げて。
「それならば、失礼致しまして詩姫様の御身体を洗わせて頂きます」
 なんて、食事でも出すかのようにさらっと言った。
「あ、うん、じゃあ……って、えぇっ!!」

がたたん!

 石鹸台が派手な音を立てて倒れる。というか、ひっくり返った。
 勢いで上に乗っていた石鹸やボディーソープ、シャンプー他諸々があたりにぶちまけられる。
 返事をしてから何を言われたのか理解した僕が、しゃがんだ体勢から立ち上がろうとして手を突いたところ、動揺で目測を誤ってしまい石鹸台に体重を乗せてしまったからだ。
「わ、た、たっ!!」
「詩姫様!!」
 思いもかけずしゃがんだまま踏鞴を踏むという珍しい事をしてしまった僕を、翡翠が慌てて支える。
「兄さん?!」
「詩姫さん?!」
 入り口前で言い包められていた秋葉と言い包めていた琥珀さんも、何事かとこちらに寄ってきた。
 二人とも僕の体調が悪くなったのかと思ったのか、なんだか真剣な顔になっている。
 翡翠に助けられながら体勢を整えると、僕は大丈夫、とでも言うように手をひらひらと挙げ、なんでもない事を二人に示す。すると秋葉はほっとしたような、琥珀さんは何処か残念そうな顔になる。
 そして、僕が胸をなでおろした瞬間に。

 ──チッ。

 微かに聴こえる舌打ちの響き。
 ……って、琥珀さん。
 いったいいま、ナニを期待したんですかアナタは!?
「大丈夫ですか、詩姫様?」
「うん……大丈夫、有り難う翡翠」
 琥珀さんの反応に一抹の不安を感じながらもなんとか立ち上がると、助けてくれた翡翠に微笑みかけながらお礼を言う。
「あ……いいえ、当然の事をしたまでです」
 翡翠はどういうわけか頬を染めながら俯と、どこか明後日のほうに目線を外してごにょごにょと口の中で答えた。
 と、俯いた視線が何かを捕らえてしまったらしく、今度は顔ごと横に向く。
 夕方からの短い間に分かった事だけど、どうもこの顔ごと目線を反らすのは、翡翠が何かを誤魔化すときの癖のようだ。
 それも大概にして相手に不都合、というより、自分内での不都合から自分を誤魔化しているような感じがする。
 その体を隠すバスタオルを持った手が、胸の前で何かをカタク決意するかのようにきゅっと握られたところから察するに──恐らく。

────だから翡翠も、ね。
 元男の僕が言うのもなんだけど、女の子は胸じゃないんだよ。胸じゃ。

 なんて失礼な事を考えていると、僕が本当に無事らしいと認識した秋葉がはあ、と溜息をついた。
「まったく、兄さんはそそっかしいんですから。御風呂の中くらい落ち着いて行動してください」
「う、うん、ごめん」
 秋葉の言葉に、思わず謝ってしまう。
 こう言う秋葉を見ていると、先ほど秋葉の事を委員長に例えたのがあながち間違いじゃないような気がする。
「まあまあ、秋葉様。御風呂はゆったりとする場所ですのでここは穏便に」
 横から琥珀さんが口を挟むと、秋葉は元からそんなに怒るつもりも無かったのか、まあ今日は大目に見るといいましたしね、なんてぶつぶつ言いながらも、どうやら矛先を収めてくれたみたいだ。
「でも、詩姫さん?」
「は、はい」
 ところが安心したのも束の間、琥珀さんがえらく真面目な顔をしてこっちをじっと見つめる。
 ああ、流石になんて言うか、琥珀さん的に何か思うところ有ったのかも知れないなぁ。
 実は一番騒がしいのは琥珀さんなのではないかと思うのだけど、やはりそこはそれ、これはこれ。当主付きの御手伝いとして締めるところはビシッとしているのだろう。
 思わずその場に手を膝の上に置いて正座し、ピンと背筋を伸ばし姿勢を正して次の言葉を待つ。
 ところが。
「詩姫さんって凄くスタイルいいですよねぇ〜」
「はい?」
「わたし、羨ましいですよ〜」
「は、はいぃぃ?」
「特に胸なんて凄く触りごこち良さそうで。ちょっと触らせてもらえません?」
「ひ……ひーん!」
 いや、面食らった。
 琥珀さんの言葉には驚かされてばかりだけど、これは本当に不意打ちだ。
 何を言われるかと思ったら、何処からどういう風にそうトブんですか琥珀さん?
 わからない。
 でもほら、秋葉も翡翠も流石に呆れ返って………。
「…………………」
「…………………」
 二人を見ると、呆れ返ったどころか、琥珀さんの言葉に賛同するように僕の体──主に胸──を見ながらうんうんと頷いていた。
 これは。
 どうも……二人とも気になってしょうがなかったらしい。
 琥珀さんがオモイッキリ口にしたので、それが引き金になって…皆、開き直ってしまったようだ。
 これはあれだ。言うなれば。

 裸の王様状態。

 いや、御風呂だから裸でいいんだけど。
 というか、さっきから秋葉を手玉に取ったり翡翠も巻き込んだりしてるの見ると
(琥珀さんって……)
 やっぱり────アジテーターの素質あり?
「こういってはなんですが、わたし、詩姫さんくらい大きくて形のいい胸、見た事ないんですよね〜」
 もぅ、それこそ心底嬉しそうにに〜こにーこしながらにじりにじりと寄って来る琥珀さん。
 何かの武術なのか、僕を捕まえる為に肩の高さに構えられた手がわきわきと動く。
「だ、だからって、その妖しげな手つきはなんですか!」
 にこにこしているのに、
(いや、違う)
 にこにこしているからこそ、“今の琥珀さんにつかまるのは拙い”、そう頭のどこかで警鐘が鳴る。
 今、捕まったら間違いなくお嫁にいけなくなりそうな嫌ァなオーラが琥珀さんからばしばしと飛んでいる。
───いや、今のところ嫁に行く気は無いんだけど。
 ほら、僕元は男の子だし。相手今いないし。
「いやー、特に意味は無いんですけれどねー」
 じりじりと近寄って来る琥珀さんにココロから恐怖を覚えた僕は、座ったまま一歩一歩押されるようにカクカクと後ずさる。
────カツ
 そして、お尻の辺りに硬い木の感触。
 これは、スノコ──すぐ後ろは壁だ。
 もぅ、僕に後退する余地は無い。
 背中に冷たい汗が流れ……慌てて他の二人を見やる。
 ああ、秋葉! 翡翠! おねぇちゃんあーんどごしゅじんさまが、いきなり貞操が危機っぽいですよ?!
 へ、へるぷみー!
 けど、そんな意思を込めた視線を受けても、二人とも助けに回るどころかえらく興味深そうな視線でじっと僕と琥珀さんを見守るだけだ。
 っていうか、二人ともなんとなく、じゃなくてエラく目が血走っているっぽいのは僕の気のせい? 気のせい!? 気のせいといって〜!
 こ、これは。
 ど、どうすれば。
 どうすれば、どうすれば。
 どうすればいいんだろう。
 このまま何故か衆人環視のまま琥珀さんの毒牙にかかって美味しく頂かれることが、僕の末期いや運命だったというのだろうか。
 わからない。
 わからない。わからない。けど。
 このままでいいはずもない。
 っていうか、一度でも琥珀さんに弱みを握られたらそれこそジ、エンド。──人生もう終わりという気がひしひしとする。
 これが弱みかどうかは兎も角、今の目の前の琥珀さんは、蜘蛛だ。
 捕まったらきっと──いや、間違いなく、もう二度と逃げられない。
 そう、蜘蛛の糸に絡げられる、その前に。

──僕は今、自由に向け脱出するのだ。

 数瞬でそう判断した僕は、急いで状況の整理にかかる。

────焦るな。よく見ろ。そして、考えろ。

 このまま琥珀さんに押されて後ろに下がれば壁に退路を断たれるのは明白だ。
 そうなってしまえば、もう、後は無い。
 っていうかもう、そうなりかかってる。
 哀れ、僕は秋葉と翡翠の見ている前で琥珀さんに捕まって、好奇心の名の下に豊満な肉の塊をその白魚のような細い指で好きなように蹂躙されてしまうのだろう。
 更に悪乗りの過ぎる琥珀さんが調子にのってあぁんなとかこぉんなとか形容されるような事にまで発展して、秋葉や翡翠の見ている前で未体験ゾーンにまで突入してしまう事も有り得る可能性も無きにしも非ず。
 いや、まあ、ただされるくらいなら別段未体験でもなんでもないんだけど。どっちかというと見られながらというのがかなり未体験。
 これで琥珀さんが下手に上手だった場合……癖になってしまいそうな────
 っていうか、ふざけているけど琥珀さん、指使いから見て結構良さげな感じだし。
 それはそれでありかも……

────いや、待て、遠野 詩姫。
      おまえは今、そんな桃色な未来から逃避するために必死に思考を巡らしているのだ。違うのか!?

 そんな、このままだと確実に訪れ気なあぁーんな事を必死に反芻しても仕方ない。
 僕は素早く思考を切り替える。
 そう、なんとしてもこの苦境は乗り切らなければいけない。
 後ろは壁。ならば───他はどうか。
 僕のすぐ右では、翡翠がさも興味深げにこれからの成り行きをじっ…と見守っている。
 秋葉の後ろに立っていた琥珀さんが行動に移ったからこんなに考えている余裕があるだけで、これで翡翠が動いてたのだったとしたら、逃げようと思う暇さえなかったに違いない。
 そして左側にはすぐ浴槽がある。
 普通だったら迷わずそっちに逃げるのだけど、それは今回は分が悪い。
 それほど高くは無いとはいえ、浴槽の縁を乗り越えようとしているところで琥珀さんに捕まったら──これはチャンスとそのまんま、泡の御風呂送りにされてしまいかねない。
 なら。
 ここはやはり────
 僕の頭には、もう一つしか選択肢が残っていない。


 そう。
 これは、もう。

────特攻しかあるまい!

 掴みかかって来る琥珀さんの攻撃を側転しつつ紙一重で避け、彼女の後ろに突破するのだ。
 琥珀さんは悪乗りは酷いけれど、逃げてしまえばそれ以上の行動は無いタイプと見た。
 去るものは追わず。
 なら、初手さえ避けてしまえば勝機は掴める────!
 僕がそう覚悟を決めたとき。
「それとですね、詩姫さん」
 落ち着け、詩姫。
 琥珀さんの踏み込みを見極めろ!
「お風呂には眼鏡は外して入るものですよー!」

う──

 確かに普通、風呂には──眼鏡を外して入るものだ。
 でも。
 僕の場合、それは……マズイ!
「さー、詩姫さん。覚悟して下さ──!」
 その一言で動揺した僕が一瞬バランスを崩したのと、それを絶好のチャンスとみた琥珀さんが飛び掛ってきたのは、ほぼ同時だった。
 だが──
「……今だっ!」
「────い?」
 僕を逃がさないようにするためか抱きつくように広げられた琥珀さんの腕を、前転しつつ更に身を沈めてかわす。
 脈絡も無く頭の中で鳴り響くビール会社のCMソング。
 そして僕の頭上を琥珀さんの腕が通り過ぎる!
「──あ、ら────!?」
 必殺の抱きつきを空振って後ろにダイヴし勢い余って宙に舞う琥珀さん!
 それを確認する前に、ぶつからないように半身を捻って一歩前に踏み出し、その勢いのまま体を起こし立ち上がる!

────やった────

 ……完璧だッ!

 完全に攻撃を避けて、琥珀さんの後ろに回り込むことに成功した!
 こう見えても中学校時代には、意外と裏で喧嘩をこなして来た。その経験が今、このとき役にたったみたいだ!
 今、僕は確実にカッチョぃィィ!!
 弓塚さんや先輩にはさんざっぱら受けだ受けだ受けキャラだと言われてきたけれど、僕だってやる時はやる、決めるときはキメるんだ。
 どうだ──!
 先生、僕を見てますか?! 先生! 詩姫は今、やりました、やりましたよ────!!
 そう、そこにはあふれんばかりの笑みを浮かべ思わずガッツポーズを取り全身で喜びをあらわす僕がいた。
(ラヴ、びあ──!)
 と、まぁなんだか一瞬自分が光に包まれたように感じつつ、僕はそのまま琥珀さんから距離を離すべく更に一歩足を前に踏み出した。

───けど、それがいけなかった。

 琥珀さんを避けたことで油断していた僕は、足元に転がるものに全く気がつかないでその上に乗ってしまったのだ。
 瞬間、僕の足が踏み込んだ勢いのままに前に滑る。
「あ────?」
 声を出したときにはもう遅かった。
 その時には既に僕の身体は足を前にして、あお向けになった状態で宙を舞っていた。
「──お、おぉ、お!?」
 例えて言うなら、漫画やアニメで散々笑われてきたバナナの皮で滑ったあの状態。
 状況を理解できない僕の目の端に、僕と一緒に宙を舞うその物体が写った。
 僕が踏んづけた所為で形が酷く崩れているが、かろうじて原形を留めたその白くて四角い物体は。

────まごうことなき、石鹸、だった────

 ああ、そうか──

 琥珀さんに気を取られて忘れていたけど、確かに僕は、ついさっき石鹸台を派手にぶちまけてたっけ。
 その所為で転がっていた石鹸に、僕は思いきり足を乗っけてしまったのだ。
 で、そのまんまいい感じにすってんころりんと転んだ挙句、今こうして宙を舞ってる訳か。
 そんなことも忘れてるなんて。こんな陳腐な光景を自分で演じてるなんて。

 ……あぁん。

 ボクってほんと、ブ・ザ・マ(てへ♪)

────なんて。

 極限まで引き伸ばされた一瞬のなかで、ゲンジツトウヒのあまり愚にも付かないそんなおバカなことを考えていると。
 身構える間もなく、腰から背中にかけて鈍い衝撃に襲われる。
 運が良かったのか、それとも自然に庇ったのか、頭への衝撃は全く無かった。




「───!!」





 それでも、受け身も取れずに思いきり床に叩き付けられた僕の口からは声にならない悲鳴が飛び出して──
「っ〜〜〜〜〜〜!!!」
 床の石にお尻を打ちつけた、その痛みと衝撃のあまり悲鳴も出せずに転げ回った挙句。
「──ヰ!──ゑ!──」
──爪先から頭の天辺まで痺れるようにビンビン伝わる痛さのあまり、脚だけがピクピクと震えているのが自分でもよくわかる。
 僕……やっぱり、カッチョワルイ。
「─────」
「─────」
 勢い余った琥珀さんのルパンダイヴ、及びそれを完全に避け切って勝ちポーズを決めた瞬間転んでおっ広げたままのたうち回る僕。
 他の二人は、あまりといえばあまりな成り行きとその後の急展開に茫然自失していたが。
「し、詩姫様?!」
「ひぎざん?!」
 やっと我に返った翡翠と、振り返って僕の状況を見て取った琥珀さんがそう叫ぶ。
 ちなみに、僕の後ろにあったスノコに激突して琥珀さんの鼻が真っ赤になっているみたいだけど、そんな事を一々確認している余裕もない。
「に、にぃさん?!」
 その声で、丁度ドまん前で僕の痴態を眺めて呆然としていた秋葉も、はっと我に返ると慌てて──って、秋葉! 足元に石鹸とケ□ヨンくん……!!
 そんな僕の叫びをヨソに。
 秋葉は僕に駆け寄ろうとして──
「だ……だいじょうぶでふか兄さ……あぁんッ!」

───滑った。

 琥珀さんに続き、秋葉までも……心配のあまりにか僕に向かってダイビングを敢行したのだ。

 もとい。

 いや──どうやら、秋葉は急いで僕に駆け寄ろうとして……僕が踏んで蹴っ飛ばしてしまった石鹸が、滑りに滑って偶然にも秋葉が踏み出した足の下に丁度収まったようで……。
 その所為で体重移動の途中だった秋葉は、前方不注意で、足が滑った挙句、洗面器を蹴り上げ、そのまま頭から自分が向かっていた方向に倒れる事になったのだ。
「……ひぃいいいいいいいん!!!」
 ……そして。
 ケ□ヨンの洗面器と共に宙を一回転した秋葉が向かっていた方向には、丁度僕が倒れていたわけで────
 ……あぁん。
 でも。
 同じような失敗を二人で立て続けにするなんて。
 やっぱり、ボクタチ、姉妹なんだ……。

 結果──

 そんな安堵を抱く暇も無く。
 僕は。
 風呂場の床に寝ながらにして、妹を。
 秋葉を抱きとめる事になった───

「きゃあ?!」
「うぐうぅっっ!!」

 衝撃に、胸が軋む。

 秋葉の名誉のために言わせてもらえば、秋葉はけして重くは無かった。むしろ、その和装が似合いそうなほっそりとした体型からも想像できるように、どちらかといえば軽い方なんだろう。
 普段なら、女の身体の僕にだって持ち上げられたかもしれない。
 でも。
 流石に持ち上げたりするのと落ちてこられるのは、その位置モーメント……そして、変換された運動エネルギーが加わる分全く違うことになるのだ。
───特に、下敷きになる側にとって。

 で。

がぽごっ!

 またも、いい感じに鈍い音。

「だ、大丈夫ですか、にぃさん!!」
 転倒のショックから立ち直った秋葉が、一緒に仲良く宙を舞ったケ□ヨン君の洗面器を頭に被ったままがばっと身を起こす。
「あうっ! くぅっ!」
 僕は心配する秋葉の声に、思わず悲鳴で答えてしまう。
 別に背中の痛みはどうって事は無かった。
 秋葉の衝撃に骨がいったわけでもない。
 まあ、転んだのと秋葉を受け止めたことで多少の擦り傷は出来ているかもしれないけど、そんなことは問題じゃない。
 というか、秋葉に全く怪我が無かったなら、僕の背中くらい安いものだ。
──とは、言うけれど。
 これは、こればっかりは、そう言うレベルを遥かに超えていた。
「兄さん、兄さん?!」
「ひ、や、あ…っ!」
 秋葉が動転して僕を揺する度、僕の口から何かを訴えるような音質の声が響く。
 ああ、秋葉、秋葉、いまさら正気に戻れとは言わないよ。でも、せめて揺するのだけはやめてぇ…!
「あ、秋葉様っ! どうか落ち着いてください…!」
「こ、これを見て落ち着いていられますか──ッ!」
 流石にこの事態にふざけてる場合では無くなったと見た翡翠が秋葉を宥めるけど、秋葉はそんな翡翠の言葉を一蹴して僕を揺さぶり続ける。
 その度に僕は我慢しようと思う意思とは裏腹に悲鳴をあげてしまう。
 これは僕にとって、まったく思っても見なかった事態だ。反則だ。だから声が出ちゃうのは仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。
 でも、幾らなんでもこの仕打ちは酷い。

────ああ、神様。僕には結局この道しかなかったんですか──?

「秋葉…っ! 手、手ぇっ! 離し……っ!」
「……へ……手?」
 気力を振り絞って叫んだ言葉に、秋葉は自分が掴んでいるものを見る。
「あら〜……」
「…あ、秋葉様……」
 他の二人も、僕が何を言わんとしているのか見て取って、なんとも複雑な声を出す。
「え、え、えぇ……?」
 秋葉がまるで、自分が今まで揺さぶっていたものを確認するかのようにぐにぐにと手を動かす。
「ひゃ…! だから、秋葉、やめ…!」
 急に変わった動きに反応して、僕の身体がびくりと震える。
 そりゃ、確かに秋葉は転んだりして動転してただろう。
 位置的に僕の上になったのも仕方がないし、体を守ろうと腕を前に回してそのまま僕に手をついて起き上がったんだから、そうなってしまったのも、まあ、仕方ないということもできるだろう。
 でも。
 どうしてそんなに執拗に僕の胸握って揺するの、ねじあげるのだけはよして────?
「に、にぃさん、すみません────!!」
「はぅっ!」
 秋葉が、自分が何をしてたかに気がついて、土下座をするように僕の胸に顔を埋めて来る。
 いや、秋葉としては恥ずかしくて顔を隠したつもりなんだろうけど、その、ぎゅっと掴まれたり押し潰されると流石に痛い……。
「こ、これは別に、兄さんの胸の大きさが羨ましいとか、柔らかいのに張りがあっていい感じとかほんと妬ましいとかいっそ私のものにしたいとかそう言うことじゃなくてですね──!」
「ひぃんっ! わかった、分かったから、ぅんっ! 手を離してぇ〜!!」
 僕は秋葉に押さえつけられながら、じたばたと暴れる。
「翡翠ちゃん! 翡翠ちゃんはとりあえず秋葉さまを──!」
「あ、はい。分かりました姉さん!」
 さっき打ち付けた鼻の頭をさすりつつ、あら〜とでも言いたげに光景を眺めていた琥珀さんが、流石にこれ以上は洒落にならないと感じたのか翡翠に指示を出す。
 なんていうか、想像を絶した光景に半ばクチから魂が抜け出ていた翡翠もその声で我に返ったのか……急いで秋葉を僕から引っぺがして脱衣所に連れて行く。
「は〜、詩姫さん、災難でしたねぇ〜」
「うん……」
 僕を助け起こしながら呟いた琥珀さんの言葉に、僕は涙声で頷いた。
 う〜、もう。秋葉に掴まれた左胸、赤く手形がついちゃってるよ。
 でも。
 考えてみると……これって、元はといえば琥珀さんが悪いんじゃ……?
 そうだ。思い返してみると、元々琥珀さんが変なことを言い出した事がコトの発端だし。
 これから家族になる人だけど、いや、逆にだからこそ、びしっと言わなくちゃいけないかもしれない。
 っていうか、毎日これじゃ僕の身が持たないよ……。
 でも、何か文句を言おうとしたけれど、その文句は次に琥珀さんが発した言葉で飲み込まれた。
「ん〜……見たところ傷は出来ていませんねぇ……頭も打っていないみたいですし」
「あ、うん……頭は打ってないよ」
 どうやら琥珀さんは、僕の身体の事を心配してくれているみたいだ。
 そういやこの家での僕の主治医になるって言ってたし……。
 自分の身体は自分がよく分かっているけど、医者にしか分からない事だってあることを僕はずっと昔から知っている。
 とりあえず文句は後に回して、今は琥珀さんに任せる事にした。
 診られる側も協力しなければ、医者だって分かるものが分からなくなってしまう。
 けど。
 ……つつ〜っ。
「詩姫さん、この辺痛くないですか?」
「ひやんっ!」
「あ、いい感じですねー。じゃこっちはどうです?」
「はぅんっ!」
 ううう、触診だってわかってはいるけど、やっぱり耐えられないものは耐えられなくて。ついつい自分でも場違いだと自覚している、甘ったるい悲鳴が口をつく。
 どだい、さっきの今ので触られることに敏感になるなというのが無理だ。
 もう五年にもなるこの身体だけど、未だに慣れないのはこの感覚だ。
 というか、どうも、身体と心のバランスが未だに取れないらしくて一度高まってしまうと落ち着くまでが、これが意外と大変だったりする。
 実は、僕は一度恥を忍んで朱鷺恵さんや弓塚さんに尋ねてみたことがある。
 それで分かったことは、まあ、我慢できない事もあるけど大概は冷静になると醒める──と言った事だ。
 まあ、実際醒めるまではその────最後まで行く事はそれなりに必要だけど、必ずしも、という訳じゃないらしいし、よほど興奮してないとそんなに長くは維持しないとの事。
 ちなみに、男の身体はどうかと思って有彦にも聞いてみたが、要約すれば返ってきた答えはあんまり変わったものじゃなかった。
 話途中でなら実地で試してみるか! などとバカなことを言い出したのでボコったのはまた別な話。
 それはさておき、どうも僕の身体はその辺の調整がやや下手になっているらしくて。
「じゃあ、これは?」
「ふきゅんっ!」
 心的にはもう収まっているはずなのに、身体だけが琥珀さんの指に反応してあられもない声が響く。
 声だけ聞いていると、絶対に変なことしてると思われちゃうよ……。
 ああ、秋葉や翡翠がまだ隣にいるはずなのに、僕、こんな声出しちゃって……。
 と、意識したからかどうかはわからないけれど。
 扉の端からコッソリ顔を覗かせてる二対の瞳と目が合った。
「あ、アキハ! ヒスイ!」
「あら、秋葉さま。そんなにご心配なさらなくても、詩姫さまの骨に異常が出てないか調べてるだけですよ〜」
 僕の声で二人に気付いた琥珀さんが、からっと明るい声で弁明する。
「ええ……」
「その……」
「それは分かっていますけれど……」
「詩姫様の声があまりにも……」
 あからさまに目を逸らしてボソボソとそう言う二人に、僕の頭にかあっと血が上る。
 声を聞かれたのはまあ、不可抗力だけど、さらにそんな姿を見られたなんて……!
 僕はもう、穴に入ってヒキコモリタイ気持ちで一杯だった。
 っていうか、逃げたい。今、すごく逃げたい。この場から逃げ出したい。
「はい、特に異常は無いみたいです。詩姫さま、怪我の功名ですねー」
 よかった。なんともなかったみたい。
 だと、いうのに。
「でも、やはりいいですねぇ、肌の触り具合はいいし、感度もこんなに高いんですからー。
 ……ほんと、うらやましい」
 琥珀さんは仕上げですよといわんがばかりに僕の背筋をつ、つ〜っと指先でなぞり上げた。
「ひっ! やああぁっ!」
 背筋を這い登る指先の、そのぞくぞくした感じに、僕は全精神力を総動員して脱兎のごとく駆け出す。
 目指すは湯船。一番皆から離れている場所。
 もし、窓が開いていたら、僕は迷わずそこから飛び出してたんだろう。
 兎にも角にも、ざぽーんと飛び込むと、大急ぎで隅っこに逃げ込んでぎゅっと身体を丸める。
 ああ、……恥ずかしい。
 もう恥ずかしいなんてものじゃない。
 恥ずかしさに頭の中が真っ白になって、今の自分がどうなって居るのかすら分からなくなったくらいだ。
 その恥ずかしさたるや、かえって身体の感覚を吹き飛ばしてしまうくらいだった。
「……あはー、さすがにやりすぎちゃったですねぇ」
 流石に琥珀さんが大粒の汗をかきながら、お湯に顔を半分まで浸して恨みがましく見つめる僕をどうしたものか、という顔で見ていた。
「姉さん……ですからあれほど悪乗りはするなと」
「あー、翡翠ちゃん。翡翠ちゃんだってノリノリで……」
「う、そ、それは……」
 やれやれ、という感じで琥珀さんを責める翡翠にすかさず反撃する琥珀さん。
 この姉妹の攻防はお互いに一進一退を続けそうだ。
 うう、せきにんのしょざいはどうでもいいです。それよりいまはそっとしといてください、おねがいです。
 ああ、こんどこそ、こんどこそぼくはちいさいアキハにつれられてエイエソに……。
 僕が二人を見ながら自分の殻になんとか閉じこもろうしていると、水音がして水面が揺れた。
 ふと何気なくそちらを見ると、秋葉がそっとこっちに寄って来ているところだった。
「あの……兄さ……もとい、姉さん……」
 秋葉は、なんと言っていいのかわからない、という表情でそっと僕の肩に手を乗せた。
 どうでもいいけどまだ兄さんって言うんだね、秋葉……まあ、会って一日じゃ仕方ないんだけど……。
 しばらく逡巡していた秋葉は、まるで言いづらいことでも言うかのように視線を彷徨わせると──さも言い出しにくいことを切り出すかのように、口を開いた。
「あの、姉さん」
 そして秋葉は思い切ったように僕の手を取り、両手で包み込むと。
 潤んだ瞳で僕を見つめながら重々しく──


「……ねぇさんがどんな人でも、私にとって姉さんは、大切な姉さんですから……」


 うぐは。


 それは──もう、何か吐き出すドコロではない。
 目の前が真っ暗になっていく。
 ああ……秋葉さん。それ、自己嫌悪している今の僕にはクリティカルだよ……。
「あ、姉さん? ねえさん、ねぇさーん──!?」
 ぶくぶくと泡を吐いて沈む僕の頭に、遠くから秋葉の叫ぶ声が響いていた。

──グッバイ、秋葉。また、来世。

 そんな事を本気で思いつつ、僕はゆっくりお湯の底へと沈んでいった……。



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