──── 一人残されて、改めて部屋を見回した。
八年ぶりの家。
八年ぶりの肉親。
────と、考えてから実はまだ戻ってきてから一日も経ってない事に苦笑する。
あの後はまた大騒ぎだったらしく、次に僕が目覚めたときには三人が僕の周りを囲んで心配そうに覗き込んでいるところだった。
僕が目が覚めたことでほっとしたのか、秋葉は泣きそうな顔をしながら、相変わらず心配しているのか文句を言ってるのか、聞いているだけでは一寸判別をつけられないことをまくし立てていた。
結局翡翠と琥珀さんが“まあまあ”と取り持ってくれて、既にお湯からあげられて身体を拭かれていたのでひとまず寝巻きに着替えさせられた。
ちなみに秋葉も寝巻きに着替えていたけど、翡翠さんと琥珀さんはお昼と同じ格好だった。聞いたところ、まだ彼女達には仕事が残っているかららしい。
皆に連行されるように部屋に戻ってから、改めて琥珀さんの簡単な診察を──今度はまともなのをまともに──受け、本当に異常はなさそうだということで秋葉はやっと安心したのか、琥珀さんを伴って部屋に戻っていった。
翡翠は暫く身の回りの世話をしてくれた後、流石に時間が時間だと言う事で“……おやすみなさい”と挨拶をして戻っていった。
そんな翡翠を軽い笑顔で送り出し、一階へと戻っていく後姿に手を振って。
(……)
軽く溜息を吐き、がちゃり、とドアを開けて部屋へと戻った。
部屋の中は、取り敢えず明日の朝必要そうなものだけ急いで取り出しておきました、みたいな、さっきまでの雑然とした印象のまんま。
何一つ変わった所なんてな―――
「…い…って……」
いつの間に……。
「ねこだ……猫が寝とるぅ?」
どこから入ってきたのか、なんてーか真っ黒いにゃんこらしき物体がベッドの片隅でちんまりオハギと化している。
……正しくは、オハギと間違えてしまうぐらい丸まっている。
ごしごし。
さっきまでの騒動で疲れた僕が有りもしない幻覚でも見てるのか、それとも寝惚けているのかとオモワズ目蓋をこすってみたが、それでもまだ猫は消えない。
抜き足差し足忍び足、起こさないように息を殺し足を忍ばせて。
じっ……と、猫を覗き込む。
首輪にちょこっとおリボン結んだ、随分と毛並みの良い感じの黒猫が目を細め──この世の幸せ独り占め、みたいな太平楽な感じでくてーっと横になっている。
撫でてみようかとソッ……と手を伸ばしたら。確かに暖かさと息遣いが伝わってくる。
(……起こすのもなぁ)
そう思い直して、伸ばした手を引っ込める。
……う〜っ。
この子、うちの飼い猫なんだろうか? そんなことはまったく聞いてないし言われてもなかったけれど。
でもここまで身奇麗だと、どうも野良には思えない……。
「……まあ、それはいいとして」
なにがどう、いいのかはともかく。
さて、これは……どうしよう。
ベッドを占領されている以上、遠野詩姫には打つ手がない。
かといって──うぅ〜──これじゃ堂々巡りだよ……。
「―――――――」
何か、暫らく考えてたら、どうこう考えるのも馬鹿らしくなってきた。
この部屋に設えられたベッド。
ただでさえだだっ広いんだから、ちょっとやそっとくらい占領されたところで別にどうって事無いだろう。
ただ単に、僕が隅っこに寝ればいいんだから。
ベッドには洗い立てでお日様に晒されたシーツの匂い、そして傍らにはそりゃもう幸せそうに眠っている見知らぬ猫。
この子が寝転んでいるのも、シーツの感触が気持ち良かったせいもあるんだろう。
もぅお膳立てされたかのようにここまでこれだけの状況が揃っているんだから、こっちも眠っておかないとそりゃあなた、失礼ってものでしょう……?
と、言う訳で。
こういう展開になるのは当然といえば当然。
「ふぁーあ……」
一度のびをしてからそのままベッドに潜り込み、シーツに包まると。
嗚呼、黒猫との幸せなひと時。
耳のふんわりした手触り、肉球のプ二ぷにした柔らかさ、浮いたアバラ骨をなぞる微妙な感触、なにより一緒に何も考えずにぼけーっとしてる時のまったりした幸福感…あぁん、よだれ、よだれ。
(あ〜、にゃんこがいるー)
ある夏の日の昼下がり、有間の家の階段の上にちょこんと座っている綺麗なにゃんこを見て、そのコントラストの美しさにふらふらと猫、ねこーの後を追いかけて追い〜かけて〜いってしまった遠い日、あの夏の頃。
まだちっちゃかったあのころはなぁ〜んにも考えずに猫まっしぐら出来たのに……。
……。
……恐がられるかな。こんな馬鹿なことやってると。
「……うん、寝よ寝よ……」
……しかし。
来たばかりの時は全く、無愛想な他人の家のように感じていたけれど────
ここまで一日皆で大騒ぎをしていると。
(……なんだか……)
もっと昔から、自分がこの騒ぎの中に居たかのように錯覚してしまう。
(……いや)
昔、一緒に居た事は確かなんだけれど──そうでなくて。
これまで、ずっとこんな大騒ぎの日常の中にいたような気がしてしまう。
────でも。
暖炉……サイドテーブル……鏡……。
有間の家で使っていた布団ではなく、広くてふかふかなベッドの上から改めて見る部屋の造作は、確実に僕のこれまでとは何らの馴染みも無くて。
改めて──今更ながら──否応無く、僕が置かれた境遇とこれからのこと、そして八年間という時の流れとその残酷さを感じてしまう。
そして。
────“僕が今、ここにいる”という違和感が正しいのか────
────僕が“今まで、ここにはいなかった”という違和感が正しいのか────
…………それとも…………
どちらが正しいのか、とか、はたしてどちらも正しいのかそれともどちらも間違えているのかなどと胡乱なあたまで考え―――僕自身が言っていることが自分でも何がなにやらサッパリ分からないままに、ベッドの上でゆっくりと目蓋を閉じる。
そして。
「はあ……これから、どうなるのかな、僕……」
目をつむったまま誰に聞かせるでもなくそっと一人呟いて、そのまま意識は緩やかに微睡みに溶けていった。
────ソシテミルユメ。
ソレハムカシ…………
────────あおいそら。
くもひとつもない、
それは、ある晴れた日の、とおいゆめ………………。
その頃、屋敷は大きな遊び場だった。
ふかいふかい、森のようなひろい庭。
たかくおおきい、お城のようなおおきな家。
何日かかっても、何度行っても探険しきれない閉じた箱庭の世界で、僕たちはただ、一心に遊びまわった。
毎日は楽しかった。
年をとるなんて事もしらなかったし、
朝と夜はおんなじように繰り返されるんだって、うたがいもしなかった。
それは、ただ、子犬のようにはしゃぎまわった幼年期。
子猫のようにまどろんだ、たいせつなとき。
僕らはとても気が合って、最高の遊び仲間だった。
振り向けばいつもあきはがいて、手を振ると恥ずかしがって隠れてしまう。
隣を見ればいつもそのこがいて、僕を引っ張る為にきゅっと手を握ってくれる。
振り仰げばいつもあのこがいて、遅れる僕たちを待っていてくれる。
うん、そんなのもいつもどおり。
その頃、屋敷は大きな遊び場だった。
深く、深い森のような広い庭。
高く、高い城のような大きな家。
どれだけかかっても探険しきれない箱庭の閉じた世界で、ボクたちはただ無邪気に遊びまわった。
でも、それもいつかこわれることだったんだ。
いつのまにか、キャラメルのおまけなんて、いらなくなっていた。
永遠なんて、なかったんだ。
だけど、そんなことすら、そのときがくるまで、ぼくはしらなかったんだ。
(ここを出る時、裏庭の木にきてください)
そのこは、息を切らせながらそう言った。
何も思わず、親父の目を盗んで、言われたところに駆け出した。
青い空。
どこまでも落ちていけそうな青い空の下、彼女は一人で待っていた。
空のように青い色の風がその髪を揺らして、そうして初めて、僕は少女が外に出たことを今まで一度も見たことがなかったことを知った。
(……これ、持っていって)
言葉と共に、少女は自分の髪を留めていたリボンをほどいて手渡してくれた。
今思えば餞別だったのだろうけど、なにぶん子供だった自分は、それが何を意味していたのかなんて分かるわけもなかった。
ただ、嬉しく思いはしなかったことだけは覚えている。
……だって、リボンをもらって喜ぶここのつのおとこのこ……そんなこは、普通いない。
だから、そのときのぼくは。
何も言わずに、ただ受け取った。
────そのリボン、お気に入りなの。だから、あとでちゃんと返してね────
だけど、その言葉は嬉しかった。
それだけで、何かが救われた気がした。
ただ“返してね”、と少女はいった。
“帰ってきてね”、と自分には届いた。
それだけで。
――――それだけで。
――――本当に、それだけで、よかった。
誰一人として見送ってはくれなかった、姿さえ見せてくれなかった、最後の日。
今まで一度も話したことがなくっても、彼女がそう言ってくれたのが、彼女だけはそう言ってくれたのが、本当に嬉しかった。
―――けど、きっと返すよ、とは言えなかった。
なぜか、その一言だけは、どうしても僕の口にはのぼらなかった、
(──多分──)
誰も、何も僕には言ってくれなかったけれど。
こんな時にかぎって小利口な自分は、“もう、この屋敷に帰ってこれることはない”って、ココロのどこかで理解して。そしてひとり納得してしまっていたんだろう。
──だから、そのときの僕は。
何も言わず、視線をあわせることもなく。
おんなのこの手から、確かにそのリボンを受け取った。
……交わした言葉は、ただそれだけ。
少女の氷のように凍てつく瞳は、そのときだけは春めいた暖かさを湛え──けど、どこか寂しく、哀しかった。
……でも、そのとき僕は。
その目に見詰められるのが怖くて。
その目を置き去りにする罪悪感に捕らえられるのが怖くて。
全てを投げ出して去っていく、僕の弱さを責められているような気がして。
リボンを受け取ったまま、刻が、凍り付いていた。
そして……どれくらいたったのだろう。
遠くから僕を呼ぶ、声がした。
──魔法は、解けた。
これ幸いに、僕は。
じゃ、時間だから、と逃げるように足早に玄関へと歩いていく。
さっき一瞬だけニンゲンになった少女は、やっぱり人形みたいに立ち尽くしたまま、去り行く自分の姿を見つめていた。
───僕の姿が視界から消えるまで、ずっと。
視界から消えてからも、いつまでも、ずっと───
あおいそら。
くもひとつもない、それは、ある晴れた日の、とおいゆめ────
……そして、まだ、眠っている。
目蓋を閉じていても尚判る、頬に触れる洗い晒したシーツの感触が心地よい。
そこで一時、夢の中でムカシの夢を見ている夢を見る。
────その中で。
────────オ────────ン。
―――波の音のように、引いては寄せる、何かの声が聞こえてくる。
────────オーーーン。
―――なにかの遠吠え────野犬にしては細く、高い。
かといって、犬以外の哭き声とも思えない。
オーーーーン────────。
―――鼓膜に響く。遠くから聞こえてくるのに、まるで目の前のスピーカーから響いてくるような。錯覚。
月にでも吠えているのか。
オ────────────────ン。
―――厭なにおい。嫌な音。
この獣の咆哮は、頭痛を招く。
まるで刺す様に。
まるで締め付けるように。
……脳髄まで、突き通す。
オ──────ン。
―――音は、やまない。
……止む訳もない。
止めさせる事も出来ない。
何故なら、それは────────
「あ……」
オーーーーーーーーーン。
寄せては返す潮騒のように……
オ────────────ン。
「あぁ……」
……耳に染み入るカン高い音。
オ────────────────ン――――――――
「ああーっ!」
「やっかましいわっ!」
自分が発した声で、微睡んでいた意識が引き戻される。
ひとがせっかく良い感じに浸っているっていうのに──。
「なんなんだ、さっきから一体!」
ばさっと布団を跳ね除け、そのまま勢い良く体を起こす──と。
「……あぅ……」
──途端に、目の前が暗くなる。
急に起き上がったから、血が引いて……
(──立ち眩み──)
……な……情けなや。
(──う〜ッ──)
そのまんまベッドの上で胡座かいてアタマを抱え、ほとんど宿酔い並の、キィーンと痛いくらいに響く耳鳴りをどうにかやり過ごす。
そんななかでも。
外からはまだワン、ワン、ワンワーン! と妙に元気一杯なわんこたちの鳴き声が響いてくる。
……うぅ、あの元気さがなんか恨めしい。
――――と。
膝を何かが触れていった。
ざらついた感触と小さな気配。
ああ、さっきの黒猫が膝を舐めていったんだな、とか胡乱なあたまで考えた途端―――
「―――――?」
少しだけ、目が覚めた。
だけどそこに指をやると、舐められたような跡なんてない。
「あれー? ねこー、ねこー……?」
傍らへと視線を向ける。……と、ついさっきまでベッドの片隅で、ちんまりオハギになっていた黒いねこ。
“うにゃっ”とばかりにおなかを見せてシーツの上を転がると、次の瞬間いつのまにか戸口近くまで移動していて。
なぁ〜、とかにゃあ、とかいった鳴き声ひとつもあげぬまま、こちらをちょっと振り返ってみせただけで。
(あ……)
出て、行っちゃった。
それも前足で扉押し開けてさっさと出て行ってしまうあたり、こりゃもう手慣れているって言うか、これまた随分と器用な感じ。
尻尾ふり振り出て行くその子の後姿を見送って、そのまままたベッドに横になる。
でも…なんか…あぁん。
「……なぁんか、可愛げなぁい……」
まったりと朝まで過ごす淡い期待が外されたので、なんとなく布団を被って、ほんのちょっと拗ねてみる。
でも……。
(……あれ?)
あの扉、ねこの力なんかでそんな簡単に開けられるほど軽かった……っけ?
……。
僕……やっぱり、疲れてて寝惚けたのか、起き抜けで寝惚けているんだろうか。
しかし、そうなると。
(いま──)
一体、何時なんだろう?
寝惚けているか確かめる為にも、ちょっと見直してみたい。
ごろりんと寝返りを打つ。
(うっ──)
頭痛。耳鳴り。
オモワズ額を右掌で押さえ
額に右掌を添えたままベッドサイドに左手を伸ばし、設えられたナイトテーブルの上から手探りで眼鏡を取り上げる。
そして。
改めて時計を手に取り、ぼんやりと照らし出された文字盤を見ると……まだ夜の一時を回ったあたりだった。
「────は」
ひー……、じゃなかった、翡翠が去ったのが確か十時過ぎだから、賞味三時間ほどは寝ていられたということか。
───そういえば。
その間に何か、ぼんやりと夢でも見ていたような気がするけど……そんなの、今迄ぼんやりしていた御陰で、綺麗サッパリ忘れてしまった。
いや。
(確か……)
なにか、何故か。
「……むーっ?」
それでも。
ついさっき見ていた日向の夢……それはひどく懐かしい、とても大切で、そしてすっごく大事なことだったような気がする事だけは覚えている。
「むむむ……」
起き脱けでぼんやりする頭にそんな考えが浮かんで離れない。
でも。
(なにか、大切な……)
掬い取った指の隙間から零れ落ちていく、その感覚を逃したくなくて。
首を捻って、必死に思い出そうと努力する。
──でも、肝心のその内容は。
霞みでも掛かったように所々途切れた上、大切なところはすっかり犬の鳴き声に塗り潰されてしまっていて、結局、どんなユメだったのかカケラも思い出せない。
────くもひとつもない、あおいそら。
ある晴れた日の、ちいさなおんなのこのおもかげ────
そんな途切れがちな印象を繋ぎ合わせてみたところで、肝心な内容そのものは、全くといっていい程繋がらない散漫なものになる。
う〜ん。
まるで、伝言を辿った元ネタを当てる連想ゲームみたい。
そんな馬鹿なことを考えている間も。
外からは未だにワンワン、ガルル、と犬の声が聞こえてくる。
でも。
「……むぅ〜っ……」
このままだと、どっちかというと僕の方が唸りたい気にさせられてしまう。
「う〜っ……」
欲求不満で盛りでもついてるのかな〜、僕。
「……」
……違うだろ。
仮に盛りが付いているにしろ、それは“僕”じゃない、“犬”だ。
寝不足か気が高ぶっているのか疲れが溜まり過ぎているのか……なにか、思考の配線がズレているみたい。さっきからドウシヨウモナク脈絡の無い考えが立て続けに浮かんではトウトツに消えていく。
(む〜っ)
これはもう……駄目だ。
うるさくて、気が散ってしょうがない。今思い出すのはキッパリ諦めよう。
本当に大切なことなら、またそのうち何かの切っ掛けでちゃんと思い出すだろうし。
やむなく思考を切り替え、また寝返りを打ち。
布団に包まったまんま、ぼんやりと思いを巡らす。
──そんなこんなで。
身体のほうは、睡眠を求めているのは確か。
眠いのには変わりがないけれど。
それでも気分的には何となく──妙な具合に──目が冴えてしまった僕は、中途半端に、半分、夢の中にいるような気分のまま仰向けになって布団を被り、そのまま胸の上で両手を組んで、ぼ〜っと天井を見上げてみたりなんかする。
(やっぱり──)
知らない天井だ。
つい今朝方……いや、昨日の朝まで。
床に就いた僕が見上げ、見慣れていたものとは全然違う。
こんなところでも、今僕が居るのが、この遠野の屋敷を出てから今日──昨日まで暮らしていた有間の家ではないことを、否応なく教えてくれる。
(都古ちゃん……)
今頃、どうしてるかな。
寂しがって起き出してたりしないだろうか。
天井を眺めてもう僕が居ないことに思いを巡らせてはいないだろうか。
またそひとつ、自分の身の回りのことが変わってしまったことの意味を噛み締めてたり、してないだろうか。
丁度今の僕みたいに。
(もう、いい加減)
都古ちゃんも、そんな子供じゃないんだし。
そんなわけ、ないか。
犬は……まだ、鳴き止まない。
「──それにしても」
窓外の騒ぎはもう、かれこれ小一時間は続いている。
(これ、近所迷惑どころじゃないなぁ)
まったく。
さっきっから、一体何なんだろう?
近所でわんこを沢山放し飼いにでもしているのかな?
(?)
……そこまで来て、また、ふと疑問が沸いた。
(でも、ちょっと待て、待てよ、遠野詩姫)
こんなやかましいわんこを番犬に飼っていそうな家なんか、うちの近所には無かった筈……だよ、な?
落ち着け、そしてよく考えろ。
近所の景色と大体の地勢とを思い浮かべ、いま気になるところを当て嵌めてみる。
吠え立てるような犬を沢山飼っていそうな、そんな家……。
(あったとしても──うち、くらいか)
そうだ、そうだよ。
この近所じゃ、どう考えても遠野家位な筈だよな〜。
でも。
ここにやって来て──じゃなかった。久し振りに帰って来たときにも、来てからもそんなの、見たような覚えなかった……よ、な?
昔番犬を飼っていたような憶えも無いし……それに。
(こんな吠え立てるようなわんこ……)
飼っているなら、すぐにでもわかりそうなものだし?
(む〜っ?)
ますますわからない。
わからない、わからない。
ぼくにはよく、ワカラナイ。
わからない、わからないけど。
──ともかく……このままじゃ、はっきり言って眠ることなんてできそうにないことくらいはよくわかる。
────と、いうのはあくまで普通の人の話。
幾らなんでもたった三時間、夢を見たような浅さで眠って、それで起こされたからって眠れなくなるほど僕はやわな身体はしていない。
いや、逆だ。
僕はたった三時間寝ただけで、目がパッチリと冴えるなんて健康な身体はしていない。
……と、いうわけで……
「さ──さっさと寝よ寝よ」
だいいち。
(そんなことイチイチ気にしてると、お肌にも悪いしね〜)
そうひとりごち、そのままベッドにぱたんと倒れるとアタマからばさりとシーツを被り、じっと目をつぶって外の事をやり過ごす。
こうしてしまえば、結構外の事なんて気にならないもんだ。
犬の遠吠えも、車のエンジン音なんかとかわらない。
わんこも珍走も欲求不満で吠え立てるのには変わりない。
気にしようと思わなければ、大抵の事はそうそう気になるものでもない。
(───それに───)
……今日は、なんだかんだで長い一日だった。
朝からずっと、浮いたり沈んだりの大騒ぎで、身体も心も疲れ切っている。
ココロにヤスリがけされた挙句、僕のこころはいまにもボロ雑巾みたいに擦り切れそうになっていたのだ。
その精神的、肉体的双方に渡る極度の疲労の前に、たかだか雑音ごときに僕の大切な安らぎを妨げるような余地があろうか。
いや、ない!
ましてや、僕の大切な睡眠時間を奪い去る──そのようなことは、断じて許される訳が無い。
と、いうわけで。
「…………今度こそ……おやすみなさい…………」
このまま目をつぶれば、意識は緩やかに眠りに落ちていくはずだ────
けど。
「あ」
そう決心したのも束の間、ちょっとしたことが気になって、僕は自分で被ったシーツを自分でバサリと剥ぐ事になってしまう。

でも。
でも、ね。
やっぱり僕、お布団が恋しいの。
枕ちゃんも、シーツ君も。
みんな、大好きだよ〜。
:
:
:
いつのまにか──またコテッとベッドに横になってる自分に気付く。
:
:
:
あ…あぁん。
(……い、いけない)
─── 一瞬、本気で意識が別なところに飛んでいた。
それも、「微睡んだ」どころか、寝入ってしまっていたみたい。
む〜っ。
いい加減朝夕は涼しくなって来てるんだから、お布団くらい掛けてないと風邪ひいちゃいそう。
それに。
このまんま本格的に寝入ってしまう前に……
「………めがね………」
さっき時計を見るときに、半ば無意識にかけていた眼鏡をすっかり忘れていたのだ。
弓塚さん曰く、基本的に、普段の僕は、一旦寝入ってしまえばひどく寝相のいい──でも寝起きには時たま、スゴク愉快なことになる──部類に入るのだそうだけど、それでも。
(幾らなんでも──)
……眼鏡をかけたまま、寝る事までは出来ない。
というか、眼鏡をかけたまま寝てしまうと、起きた時には鼻の付け根やら耳たぶの上やらに、くっきり赤く眼鏡の跡が残ってしまう。
眼鏡をかけてる人にはわかるだろうけど、アレって結構後まで痛いんだよね……。
ゆっくりとシーツ引っ被ったまま身を起こして、眼鏡を外そうと手を顔の横に伸ばし────
────カタッ────
「ん……?」
オモワズ、手を止める。
(今)
──何か、物音がしたような気がした。
さっきの猫とか外で騒ぎ吠え立てる犬が立てるような音じゃない、これは、間違いなく。
(もっと、別の──)
傍から見れば格好が間抜けっぽいだろうけど、そのまんま……ベッドの上で、息を殺して音の出所を探る。
今の音は────ロビーの方角、だっただろうか。
ずっと盛大に吠え立ててる犬の声でよく聞こえなかったけれど、そっちからだったような気がする。
翡翠に聞いた話では、夜遅くまで琥珀さんと交代しながら屋敷の中を見回るそうだけど……“夜遅くまで”とは言っても、幾らなんでもこんな時間に見回るような事は無いだろう。
と、いうか。
そんなことやっていたら、明らかに労働基準法違反だ。
労働監督基準局のガサ入れがあった場合、ぜ〜ったいに言い逃れ出来ないし、デキッコナイ。
幾ら遠野家が偉大な名家でも、封建時代じゃないんだから。昔ならともかく、今の世の中で使用人に対してそんなことしていたりしたら。
……というか、それ以前にあのふたり。
(就労年齢、とか……本当にだいじょうぶなんだろうか?)
……。
…………。
………………。
(────)
なんか、いつのまにか、怖い、考えになってしまった……。
ま、まぁ……それはともかく。
メイドの鑑然とした翡翠さんと、口は騒がしいけどその実挙動が洗練されているお手伝いさんの琥珀さん。
僕ですら余程の事がなければ音を立てずに済むようなほどのこの屋敷で、あの二人が音を立てるなんて事が、ありえるのだろうか?
(……ない、な)
そんなこと、ないだろうな。
少なくとも、僕には、ないような気がする。
──ならば、今の音は何なのか。
(泥棒……とか?)
ふと、そんな単語が頭の中に浮かび上がる。
「────ハ」
「……まさか、ね」
否定するように軽く頭を振って呟いては見たものの、そう考えてみるとありえない話ではない。
なにせ、この屋敷を構成している物は全て金目の物という、庶民から見ればまったくトンデモナイ事この上ない所なのだ。
恐らくそれなりのセキュリティくらいはあるだろうけど、幾らなんでもその辺の漫画に出てくるような、庭を囲む電磁柵やら縦横無尽に赤外線センサーを張り巡らせた庭やら、侵入者を感知すると窓や廊下に隔壁が降りて来たりとか、そこまで非常識な設備は流石にないだろう。
精々あったところで監視カメラと要所要所にちょっとしたセンサー、それも外壁か屋敷内くらいで。怪しい反応があっても警備会社に連絡が飛んだりするもので。
でも、これまで見た感じそんな感じの機械類も見かけなかったし。
大体、そんな便利な設備があれば、夜も更けた頃になってから、翡翠や琥珀さんがわざわざ見回りなんかしないだろう。
それに確か……そういえば“普通なら機械を使うような所にわざわざ人間をあてがう、それこそ真にリッチメンな金持ちのスタイル”だ、なんて、どっかの小説家さんも言っていたことだし。
並ぶもの無きリッチメンぶりが誰よりも板についていた親父なら、機械になんか金を掛けたりしない様な気がする。
そういえば、親父。機械なんか全然信用していなかったしな……。
今にして思うと。
(親父ってば──)
あんな顔してて、もしかして、機械オンチだったんだろうか?
そんな、どこか微笑ましい思いつきに、ふと口元が綻んでくるのが自覚出来る。
うん。
なんか、親父が好きになれそう。
すくなくとも、嫌いにはなれない。
お風呂前の琥珀さんとのやり取り以来、僕の抱く親父のイメージは、つい今朝方まで抱いていた親父像とは随分と変わっているみたい。
──だが待て、ちょっと待てよ。
だとすると……。
────もしかしてここって、簡単なセキュリティも無いのかも……?
「うむぅ────」
そこまで考えてみて、思わず唸った。
それは盲点かも。
そう言う気の利いた設備が一切“ない”とするならば、この屋敷、もしかすると意外とカモなのかもしれない。
あまつさえ、今は僕と秋葉、翡翠と琥珀さんしかこの屋敷にいない。
(もし仮に……)
これが、いかにも“この僕の手と出来心が悪いんです許してくださいママン!”みたいな、通り魔的に魔が差した、とかいうんじゃなくて……本当に最初っからそのつもりで侵入してあぁんなことやこぉんなことをやっちゃったりなんかしたりする計画的犯行だとすれば、今はまさに鴨ちゃんが葱背負った上に椎茸とシラタキ、出汁コンブに豆腐と一緒に土鍋でお風呂、鼻歌交じりでちゃぱちゃぱ湯船に漬かっている程アレな無用心振りに……
────ガタタッ────
「……」
やっぱり……間違いない。
「…………………」
少し考えて、眼鏡のずれを直し寝巻きの裾を捲り上げると、そっと足音を忍ばせてベッドから抜け出す。
(これで、本当に泥棒だった場合……)
────秋葉達が、危ない。
僕だったら、それこそ昔取った杵柄。
多少の荒事はこなせるだけの自信がある。
それに、沢山の人が動く気配があるわけでもない。
向こうに人手がないのなら、ロビーから音がしたって事は下から動いてくるんだろう。
二階からそっと覗けば危険も多くはないはずだ。
何故か丈が長いパジャマのたてる衣擦れの音に注意しながら、僕は部屋を抜け出してロビーに向かった。
暗い闇の中、窓から差し込むほの白い光だけが廊下を照らしている。
その光の中に姿を晒してしまわないように壁際を用心深く、しかし急いで進んでいく。
広いために光が奥まで届かないのか闇が一段と深くなっているロビーは、ここからでは特に異常は見られない。
廊下の陰になるように、やや身を屈めてそっと階下を伺ってみる。
そこは、ただ静かなロビーだった。
(取り敢えず──)
……異常、なし、かな?
ぱっと見たかんじ、懸念されたようなものは見付らなかったので、ほっと息を付いて緊張を解こうと────
「………………………!」
した、刹那。
視界の端に動く白いものを見つけて僕はまた緊張に体を強張らせた。
(────!)
思わず浅慮にも叫んでしまいそうになったけれど、きゅっと唇を噛み締め、その衝動をぐっ、と堪える。
────今、叫んだところで事態が好転するわけでもなし。
外界から隔離されたようなこの屋敷では、下手をすると却って事態を悪化させてしまうかもしれない。
忍び込んだとき、家人と鉢合わせして追い詰められた泥棒は、破れかぶれになって何をしでかすかわからないというし。
というか、それ以前にアレはまだ泥棒だと決まったわけでもない。
だから、その前に。
ここは相手を確かめてから次どう出るかを決めた方がいい────
手早くそう考えをまとめると、階段の脇に置いてあった飾り棚のところから、ふらふらと西の廊下に消えていった白いもの……輪郭から見るに、アレは、間違いなく人影……を追って、そっと音を立てないように階段を下りる。
確か、聞いた話だと一階の西の方には琥珀さんの部屋が在った筈だ。
アレがもし泥棒かなにかだったとすると、危ないかもしれないのは──
(琥珀さん!?)
そこに思い至り、僕はオモワズ息を呑む。
このまま見失い、なにか取り返しのつかないことになってしまったら目も当てられない。
(──そうだ)
そうだよ、落ち着け詩姫。そしてよく考えろ。
(追いかけるには……)
ここは二階。
下に下り追いかけるなら……階段……踊り場……ロビー……ざっと周りを見回し、とるべき動きを考える。
御誂え向きに、こんなところに手擦りがあるんだし。
(──丁度いいや)
思いついたが吉日。
足音を忍ばせつつ出来るだけ急いでソソソソっと階段を駆け下り、途中の踊り場からは……黒光りするほど磨き抜かれた手擦りに浅く腰掛け、軽く床を蹴って勢いをつけると──手擦りの上をサアーッと、一気にそのまま下まで滑り降りる。
摩擦でお尻のところが少し熱くなるなか、手擦りが途切れかけたところ、端っこの飾りを片手で押しやってそのままひらりとジャンプ! ……着地!
ん〜、よっし! キマッタ!
我ながら惚れ惚れするほど見事な動き!!
遠野詩姫、10:00! やったぁ!
とか、思わずガッツポーズを取ってみたり。
これ、行儀悪いし秋葉や翡翠が見ていたら怒るだろうけど、一度やってみたかったんだよね。誰の目も無いこんなときこそ、使ってやらないことにはモッタイナイ。
で。
抜き足、差し足、忍び足……と。
毛足の長い絨毯が敷き詰められ、足音を吸い込んでくれる分気配を忍ばせるのにあまり気を使わなくて済むのがありがたい。
そのまんまロビーを渡り切った所で伏せ、完全に死角となる隅っこからコッソリと廊下のほうを覗き込む。
気分はもうスネーキングって感じ。
──と。
謎の人物はまだ暗い廊下を何かに流されるようにゆっくりと歩いていくところだった。
窓外から差し込む、おぼろげな月の明かりに照らされて──仄かに浮かび上がるその姿。
長い髪を揺らしながらフワフワとおぼつかない足取りで歩く姿からは、全く存在感というか、生きてるって重みが感じられない。
それはまるで幽鬼の様で、見ている僕の背筋になんともいいようの無い寒気をもたらす。
それを自覚したとたん、思っても見なかった考えが頭の中に浮かんで来てしまう。
(あれって、まさか……)
ほんまもんのゆ、幽霊、とか、そんな感じ!?
────しまった。
こりゃ参ったね。
“幽霊”なんて線は、いままでまったく思いも付かなかったよ。
でも、確か前住んでいた時には、この屋敷で幽霊を見た〜、とか、何か“出る”とか言った類の話はとんと耳に入れたことが無い。
もしかしたら、僕が有間の家に居る間に出るようにでもなったんだろうか。
そう思ったとたん、今までとは質の違う緊張が身体に走る。
幽霊が恐いわけではないし、この手の話は好きとも嫌いとも言えないくせに興味だけはあったりなかったりして、それが嵩じて神秘、神話系の話を読み込んでいつの間にか色々な知識を手に入れていたけれど。
実際にユウレイさんと第三種接近遭遇を体験するのは、流石にはじめてだ。
というか、そんな体験があるひと、滅多に居ない。
(──これは……)
もしかして、僕は今からすごく貴重な体験が出来るんじゃない?!
心臓が早鐘のように血液を送り出す音をこめかみに感じながら、僕はじっと暗闇に目を凝らす。
闇の中でも青白い印象の抜けるような白い手足がおぼろ気に見え、さっき秋葉が着ていた様なネグリジェが風の無い廊下に揺ら揺らと揺れていやが上にも雰囲気を高めてくれ────
……。
……秋葉が揺れて?
揺れない。
秋葉は揺れない。
揺れるはずが無い。
って〜か、揺れたら秋葉じゃない。
……って、おい。
それ以前に。
(さっき秋葉が着ていたみたいな?)
そこまで思考が進んだところで、この家にはずばりあの姿に該当しそうな人物が一人居ることに気がついた。
じぁあ。
(あれって──)
「────あれって、もしかして秋葉?」
自分で口に出してから改めてじっ……と見直すと、その謎の人物は。
「やっぱり、秋葉……」
そう。遠目にはどう見ても、秋葉以外には見えなかった。
オモワズ両手でコシコシ目を擦ってよくよく見直してみても、どうしても秋葉にしか見えない。
うん。
あれは、秋葉だ。
間違いない。
(……やぁ〜)
こりゃ参ったね。どうも僕、考え過ぎてたみたい。
いくらなんでも、自分の妹を幽霊と見間違えるなんてどうかしてる。
なんとなく自分を誤魔化す為に、てへっと舌を出して頭をこつんとやってみる。
……うぅ。
ごめん、ごめんね、秋葉。おねぇちゃんまた秋葉が気にしてること真面目に考えてたよ、許してくれるよ……ね?
(もぅ、しょうがありませんね、姉さんたら……)
流石に本人に「僕、こう考えてた。ごめんね」なんて謝る勇気は無いので、取り敢えず、ココロの秋葉に謝っておく。
でも。
…………なんか、バカみたいだなぁ………。
そう思いながら頭をふって雰囲気を戻すと、今度は秋葉の様子が気になり始めた。
幽霊と見まがったのは僕が考えすぎだったのもあるだろうけど、なんというかやつれた感じが、夕方の頃の自爆はすれども曲がらなさそうな芯が一本通ったしゃんとした雰囲気を払拭してまるで病人のようにも見える。
もしかして、僕と会ったことってそんなに疲れることだったんだろうか?
さっきまでは無理をしてただけで、一人になった途端にその疲れが噴出してきたのかもしれない。
そんなことを考えたけど、思い返せば秋葉は別に無理をしていた様子じゃなかった。
色々と思うところはあったりなかったりしたみたいだけど、秋葉は僕との再会自体はとても嬉しがってくれていたみたいだった。
すると、何か持病でも持っているのだろうか。
それなら、こんな時間にここにいるのも頷ける。
琥珀さんは僕の主治医も勤めるということからも、医学への造詣が深そうだ。
もしも秋葉が持病を持っていて、なにかの弾みで発作が来たとするならば、この屋敷で頼れるのは琥珀さんだけだろう。
恐らく、今まさに秋葉はそんな状況になってて、こんな深夜に琥珀さんのところまでがんばって向かっていたりしているのかもしれない。
だとすると、手を貸した方がいいのかも。
見た目は元気に見えるけど、僕だって恒常的病人だ。発作が起きたときに手を焼いてくれる人がいる有難さは骨身にしみて分かってる。
まして、苦しんでいるのが大事な妹だとするならば、手を貸してやるのが姉としての勤めだと思う。
僕は、廊下の角からでて急いで秋葉の下へ向かって駆け寄ろうと────した途端、秋葉はふらふらとしながらも廊下の向こうの一室に消えていった。
「あうぅ」
なんとなく出鼻を挫かれたように感じて、僕は思わず呻いてしまった。
僕、何にも役立ってないなぁ……結局泥棒でもなかったし。
肩を落としてとほほと部屋に戻ろうとしたとき、ふとあることに気がついた。
「あれ────?」
いま、秋葉が消えていった部屋は、琥珀さんの部屋だったろうか?
わからない。
わからない、わからない。
確かに僕はまだ来たばかりで、この屋敷の構造を分かっているわけでもないし、大体琥珀さんの部屋がこっちの方というアバウトな教えられ方しかされてない。
改築したという話も聞いていないから、古い記憶のそのままだとは思うけれど……その記憶自体があやふやで、はっきりとはしていない。
けれど、秋葉が消えていったところは、少なくとも個人の部屋ではなかった気がする。
あそこは、昼にざっと見ていた感じでは──確か──台所、ではなかっただろうか。
「うーん……?」
もしかすると。
やっぱり、僕っていろいろ考えすぎなのかも。
あそこが台所であったなら、秋葉は単に水を飲みに来ただけなのかも知れないし、ふらふらしてたのも単に寝ぼけてただけだったのかも。
でも、もしも秋葉が本当に気分が悪いんだったら、やっぱり手助けしてあげなきゃ。
それにあそこが台所だったとしたら、さっきの無駄な緊張で喉渇いちゃったから、僕も水くらい飲みたいし。
僕は、部屋へ向けた体を再度反転させると、その台所と思わしきところへ足を運ぶ。
と、部屋の前に来たとき、中から“かちゃり”と何か跳ねたような小さい金属音がして、ついでキィィ、とドアが開くような音が響いてきた。
「? あれ?…………」
何の音だろうと部屋の外から覗き込むと、そこは確かに台所だった。
僕が想像してたような、八十人は入れそうな広い厨房とかではなくて、この屋敷のイメージからは想像もつかないほどこじんまりとした────いや、それでも一般家庭のキッチンよりも一回りは大きいのだけど────ちゃんとした“台所”だった。
電気は何故か点いてなくて、窓や、勝手口と思われる開け放たれた出入り口からのぼんやりとした光だけが、なんとか棚やキッチンテーブルや調理道具等の位置、輪郭が分かる程度に部屋を照らしていた。
「あき、は…………?」
中にいるはずだった秋葉を呼んでみるけれど、返事はない。
開けっ放しの勝手口からゆるく吹き込んだ肌寒い空気が頬を撫でいっただけだ。
「…………外に、行ったのかな?」
わからない。
わからない、わからない。
行き先もわからなければ、こんな時間に外に行くような理由も分からないし、それ以前に僕には考えつかない。
大体、外に行くなら玄関から出ればよい話で、こちら側から出ると屋敷の裏の森のような手入れされてない林くらいしかない筈だ。
夜風に当たるにしても、庭も中庭も玄関からぐるっと回った方が距離的には近い。屋敷から出るにしたって、ここからでは表門も裏門も距離が遠すぎて、やっぱり玄関から出て行ったほうが早い。
どう考えてもあんなぼうとした状態でわざわざこっち側から出て行く理由はない。
(もしかしたら──)
僕がさっきまで考えていたことは案外そう的を外している訳でもなくて、秋葉は何か持病を患っているのかも知れない。僕みたいに肉体的なものじゃなくて、夢遊病とかみたいな精神的な奴を。
考えてみれば、親父が死んだばかりだというのに、秋葉は若いながらも遠野家の当主として頑張っているんだ。
当主としての仕事がどのようなものなのかは知らないけれど、僕には想像も付かないくらい大変なものなんだろう。
少なくても僕よりは強いだろう秋葉だって、突然の重荷に精神がまいっている可能性も無きにしも非ず。
そうならないためにも、一度は逃げ出したこの屋敷に帰ってきたというのに、僕、遅かったのかな……。
────いや。
自分の予断に思わずしょんぼりとしてしまいかけた自分を奮い立たせる。
まだそうなっているとは限らないし、大体何もかも手遅れだとは思いたくない。
手遅れにならないためにも、自分ができることを、できる限り行うことが重要だ。
────とりあえず、ここは秋葉を追いかけることが先だ────
気持ちを切り替えて、外に出た秋葉を追うために残っていたつっかけを足に引っ掛けて外に出た。
勝手口をくぐると、トラックでも通れそうなやや広めの整地された道をはさんだ向こうに、闇が佇んでいた。
ぐだぐだと考えていた間に秋葉は随分と進んだらしく、ぱっと見、どこに行ったのかさっぱり分からない。
…………この考え込む癖は治した方がいいなぁ…………。
そんなことを思いながら、道の真ん中で立ち止まって秋葉を探すためにきょろきょろと首をめぐらす。
「────────いた」
目の前の闇の向こうに一瞬白いものを認めて、僕は鬱葱とした林の中に秋葉を追って入っていった。
秋も半ばに差し掛かるとはいえ、常緑樹も混じり、落葉樹もまだ葉を落としきっていない林の中には光が届いておらず、本当に闇の中だ。
落ち葉を踏んでかさかさと鳴る足元と、体に当たる高さの木の枝に何とか注意しながら、秋葉がいた辺りに向けて慎重に、しかし急いで進んでいく。
秋葉の姿は時折遠めにちらりほらりと見えるだけで、こっちが追っているのか、それとも誘われているのかはっきりとしなくなってくる。
鳴き止まない狗の遠吠えが相まって、まるでここは隔絶された異世界の森であるかのように錯覚してくる。
これで、祭囃子のような賑やかな音でも聞こえてきたら、まるであの時のあの場所の────
────あの時?
自分の記憶に、心臓が跳ねる。
あの時、とは、いつだろう?
あの場所、とはどこだろう?
わからない。
わからない。
わからない、ワカラナイ。
ワカラナイ──ワカリタクナイ。
思い出そうとすると、狗の哭き声を聞き始めてから始まった頭痛が酷くなる。
だが、そんなことは重要ではない。
そんな大した事じゃないんだ。
今は秋葉。
とにかく、秋葉を追わないと────
「────しまった」
いつの間にか俯き加減となっていた顔を上げると、もう秋葉はどこにも見えなくなっていた。
「秋葉────」
秋葉を求めて、無意識に足が進む。
腕や足に絡まってくる枝を無造作に払いながらとにかく前に、進む。
でも。
もう、自分がどこにいるか分からない。
何故だか嫌な空気がある。
ひりつくような、纏わりつくような──怖気立つ、澱んだ空気。
此処は、いけない。
はやく秋葉をつれてかえらないと。
コンナトコロにいたら、アキハがタイヘンナコトになってしマう。
止めなければ。
トメなケれば。
トメナケレバ。
進んでいるのか自分でも自覚できないまま、ワケノワカラナイ焦燥感に任せて進む。
雲がかかっているのか当たりは全くの闇の中。
憑かれたかのように歩き回る僕の前で、唐突に闇が広がった。
これまでの木々に囲まれた圧迫感のある闇とは違う。
何もない所に広がる無明のヤミ────
途端、雲が晴れる。
いや、晴れたかどうかなんて分からない。
何故って、ここは森の中。
ただ、木々の間を抜けて月のような白い光が射しこんだことしか分からない。
だけど、その光に照らされた、その昔見たような広場を見てボクは思う。
────ああ。
────ナゼ。
コノ場所ハコンナニモ
イツカ見タアノ日ノ様ニ
────────────アカイノダロウカ。
「苦っ………………!」
紅く染まる視界の中、唐突に胸の中心に衝撃が走る。
その痛みに僕は手をぐっときつく握り締めて胸を押さえる。
何てことだ。
もう塞がっていたとばかり思っていた胸の傷は、まだ塞がっていなかったんだ。
いや、塞がるわけがない。
だってこれは、穴だ。
ぼくのちゅうしんには、ふかくておおきいあながあいているんだ。
ほかのものでうめたとしても、それはふさがることは、ない。
痛みによろめいた僕は、そのまま地面に倒れ伏してしまう。
アカイ、アカイ、シカイガアカイ。
イタイ、イタイ、ムネガイタイ。
胸を貫く痛みと紅く染まったセカイの中で、僕はのたうつことも出来ずにただぼんやりと倒れている。
────ああ、秋葉は、無事だろうか。
朦朧とする意識の中、ふっと自分がコンナトコロに来た理由を思い出す。
そうだ、アキハ。
秋葉の無事を確かめないと。
そうでなければ安心して倒れていることも出来ない。
でも、今の僕にはアキハの場所を知ることも出来ない。
ただ、こうして倒れながら記憶の遠くにある屋敷の窓を見ているだけだ。
紅く染まったその窓の向こうで、あの女の子がこっちを見つめている。
見ているのかみていないのか、良く分からない瞳で何時かのコハクが窓から外を眺めてる。
────そうだ、コハクさん。
琥珀さんなら、秋葉の居場所を知っているかもしれない。
彼女に聞けば、アキハの無事も確認できる。
虚ろな思考でそう考えて、身体を起こそうと力を入れる。
だけど、土を掴んだ手は、無様にも宙を掻く。
ボクの身体はそのまんま、倒れたままでウゴカナイ。
ウゴカナイボクを、さあと波が引くかのようにヤミがツツンデ行く。
アカイシカイガ、クロクヌリツブサレテイク────
「あ……」
眼鏡が、落ちる。
視界を埋め尽くすデタラメな線は、“死”。
「あぁ……」
白く輝き纏わりつくそれを──手刀だけで、斬り、砕き。
「あぁあ──ッ!」
虚空からセンを垂れ流すマックロなアナをツラヌキ、握りツブス。
一瞬、荒れ狂った大気が次第に静寂を取り戻していく。
「は──────ぁ」
息が戻る。
身体から力が抜けて、ぐったりと────いや、これは抜けていた力が戻ってきた感覚だ。
なんだったんだ──
────僕は、どうなってたんだ?
わからない。
意外と暖かく感じる落ち葉の乾いた感触を頬に確かめながら、とにかく僕は自分の状態を確認する為に記憶を掘り起こしてみる。
確か、外に居た秋葉を追いかけて、森の中に分け入って。
途中で秋葉を見失って────
そこから先が良く思い出せない。
我慢できないわけではないが、頭痛がまだ酷くて思考が妨げられる。
思い出せるのは、紅。それと、穴。
その印象だけが頭におぼろげに残っているけど、それが何を意味するのかはワカラナイ。
分かるのは、身体前面に感じる地面の感触だけ。
あぁ。
「そうか──」
(……僕、倒れているんだ……)
やっと自分のおかれている状況に気がついて苦笑する。
おそらくいつもの貧血の発作でも起こったんだろう。
発作が起こるのはいつも急だけど、こういう所で起こってしまうのは止めて欲しいものだ。
なにはともあれ、体が動くか確認する。
────腕。
うん、動く。
────脚。
ちゃんと動く。
うん、どうやら身体には特に問題はないみたい。
いや、問題があるからこうやって倒れているんだろうけど。
なにはともあれ、体を起こす。
まだ残暑が残るといっても今は秋だ。このままこんなところに寝転がっていたら、確実に風邪を引いてしまう。
それに秋葉の事も気になる。
僕の身体もこんな状態だし、ここはまた倒れたりなどする前に早く秋葉に追いつくべきだ。
と言っても、どこを探せばよいのだろうか。
少なくとも、翡翠の言によれば門は既に施錠されているはずだから外には行ってない──と、いいな──と思う。
それならば、秋葉はこの屋敷の敷地内にいるはずだ。
僕はまたかさかさと足元の枯葉を踏みながら歩き出した。
辺りは全くの暗闇で、前も見えない。
木にぶつかりそうになったり、腰くらいの小さな木を乗り越えたりしながらも、僕はともかく前に進んだ。
幾ら歩いても秋葉らしき人影も見つけ出せないまま、森の中を文字通り闇雲に彷徨う。
と、歩けば歩くほど、今までBGMとして聞こえていた犬の遠吠えがどんどん大きくなっていく事に気がついた。
オ────ン。
オ────ン。
オ────ン────。
思えばこの犬もずいぶんと長い事鳴いている。
しかも、この哭き声は癇に障る。
うるさいというより、聞いているだけで心臓がどくどくと音を立てるような、殆ど生理的な嫌悪感。
犬は嫌いじゃないけれど、これはイヤダ。
もし、このまま犬の近くに出たら、ついでに追い払ってこよう。
さっきから霞がかかったような思考の中でそう思いながら、歩みを進め────
ぞくり。
────唐突に、背筋をぞわりとした感覚が駆け上る。
なんだ。
なんだ、これは。
わからない。
ただ、自分の前の闇の中、そこだけ切り取ったかのように蒼い鴉が、ただ木の上から僕を見下ろしているだけだ。
視覚的にはあれは黒だ、闇の中で見えるはずがない。なのに、どうしてもそれは蒼い。
でも、蒼い鴉なんて見たことも聞いたこともない。
あれは、本当に鴉なのか────
じっと見つめていると、ぎょろりと目が動いた。
まるで赤外線カメラのレンズみたいに、赤く、意思なく輝く瞳。
くあぅ。
目が合った途端、鴉はあくびでもしたかのような気の抜けた鳴き声を一つあげ、木々の隙間から見える黒い雲に向かって飛び立っていった。
「────なんだろう、いまの」
わからない。
無意識に汗を拭う。
何をこんなに僕は緊張しているのか。
拭った手を見て、初めてそれが冷や汗だということに気がつく。
僕は、このまま進んでよいのだろうか。
いや、行かねばならない。
この先に何があるのか分からないままに、こちらに行ってはいけないような予感と、こちらに行かなければならないような確信がせめぎ合う。
でも、頭の中の葛藤とは全く別に、足は無意識のうちに前へ前へと進みつづける。
知らないうちに喉が渇いている。
森の闇はまだ続く。
何かに惹かれるように、壁のようにそびえ立つ高い植え込みの間を通り抜け────
「…………あれ」
植え込みをがさごそと突き抜けたところで、拍子抜けした。
そこは、街灯に照らされたアスファルトの道路だ。
真夜中の上にここは郊外だから他に灯りはないとは言え、ぽつんぽつんと続く街灯がまるで幻想の世界から日常に帰ってきたかのような安心感を与えてくれる。
だけど、何で自分がこんな所に出たのかいまいち不明だ。
早く秋葉を探さないといけないのに。
とはいえ、ここであの暗い森にもどって闇雲に探し回ったところで秋葉が見つかるとは思えない。
ここは、一度表から屋敷に戻って、せめて灯りの一つでも持ってこないと話にならない。
琥珀さんや翡翠にも手伝ってもらった方がいいだろうし。
うん、少なくともその方がよさそうだ。
このまま後ろに戻ることを断念した僕は、屋敷に戻るために壁に沿って歩き始めた。
聞こえてくるのは犬の遠吠え、自分の履いたつっかけが地面を叩く音──それと、森から出て気がついた微かに聞こえる猪脅しの音だけ。
カッポカッポ。
オ────ン。
────カコ────ン。
カッポカッポ。
────カコ────ン。
オ────────ン。
オ──────────ン────────
ああ、この声は本当に煩い。
秋葉を探すより先ず、追っ払うか──早くどうにかしてしまわないと、なにをするにも気になって仕方がなくなる。
こいつらは夜の情緒等と言うものを解かっていない。
無粋だ。
無粋に過ぎる。
本来夜という時間には、音もなく静かに這い寄らねばならぬのだ。
そんな取り止めのないことを思いながら塀に沿って角を曲がる。
犬の吠える声が聞こえた方角からして、こちらにいるはずだ。
けど。
「────え」
そこには、犬の姿なんてなかった。
オ────────ン。
犬の声は依然として響いてくる。
でも、そこにいたのはコートを羽織った一人の男。
夜の黒よりなお濃い闇を切り取ったかのようなその姿を、ぽつんと街灯の明かりに曝け出している。
遠吠えはそこから響いてくる。
なのに。
それなのに。
────犬の姿など、どこにも……影も形も見当たらない。
男はかなりの長身で、女子では背が高いほうの僕よりもまだ頭ふたつ分背が高い。
コートに包まれた肩の幅は僕の倍はありそうで、その身長を支えるに足るがっしりとした体つきを想像させる。
いや、それだけの身体をもった故に此処まで大きくなったのか。
僕に背を向けて立つその姿は、まるで巨大な肉食獣を髣髴とさせる。
物語で出てくる狼の鬣のような、染め上げられたように見事なプラチナブロンドの短い髪は、その産まれがこの国ではないことを物語る。
(──あぁ──)
……それならば、この国の情緒など識る由もあるまい。
僕はそんな変なところで納得しつつ、ただ黙ってその男をじっと見つめた。
だけど。
「────────」
何故か……喉が、酷く渇く。
姿無き犬の吼え声が、べったりと耳について……鼓膜に響く。
夜の空気が、まるで蜘蛛の糸のように肌に絡みつく。
何がどうした、と、いうわけでもないのに。
まるで深海にでも居るかのように、身動きが取れない。
呼吸が酷く苦しい。
時間さえもが、圧し掛かって来るかのように重苦しくて仕方がない────
くわぁ。
唐突に、頭上から鳴き声がした。
ばさり、と。
あたかも、闇の中から湧き出したように。
羽根が大気を打つ音とともに舞い降りてきた蒼い鴉が、軽く差し出された男の指先に足を掛けると。
再びばさっと空気を含ませる音を響かせ、軽く跳ね肩に収まる。
────────と。
男の肩に収まったその瞬間、鴉はそのまま闇に溶け込んでしまったかのように姿を消してしまった。
「………………………な」
なんだろう、今のは。
目の錯覚だろうか。
わからない。
わからない、わからない。
わからない──でも。
……そのとき。
僕が発した声に気付いたのか、その男はじゃれつく獣をあしらうかのように、緩やかに身に纏ったコートの裾を翻し──ゆっくりと、こちらを向いた。

その人影は、文字通りに影だった。
肌が白いとか髪が白いとか、そんなことは関係ない。
それが発する雰囲気は、まさに影。
黒い塊。
その頂点で、赤く光るものだけが、その研ぎ澄まされた兇器のような理性をもった瞳だけが爛々と輝いていた。
「――――――――――」
一瞬。
そう、瞬間に。
呼吸が……止まっていた。
静寂のなか、鼓動が爆ぜ、乱れ、時に止まるような錯覚。
あれだけ狂っていた体も止まって、指先さえ反応しない。
おそらくは、麻痺。
身も心も麻痺して、真っ白な状態になってくれたのだろう。
──面影も、印象も、何もかも異なる筈のこの男。
それなのに、それなのに。
それなのに、コイツは……この、目前で、ただ静かに佇むこの男は、いつか見た景色を思い起こさせる。
かつて。
一度たりとも。
打倒出来るなどと夢想すら抱けなかった、そんな想像さえ許さなかった、アイツ。
あの、独眼の──朱い、鬼神を。
「う……………あ────────」
また、その兇器に突き刺されたような感覚を覚えて、僕は思わず呻いた。
恐ろしむはその眼力。
ただその中に入っただけで呼吸が止まる。
まるでこれと相対するにそんなもの不要だと身体が言わんが如きに。
かつて誰一人として敵うことのなかった怪物、
かつて何一つとして傷つくことがなかった魔物。
この男もまた、アイツと同じ。
身に纏う“死”が揺らぎ……周囲の風景そのものがこの男の存在そのものに堪えかねて、苦悶の軋みをあげている。
見られた途端。もう戻れないのだと直感した。
だけど、幸いなるかな。
その双眸は僕を全く捕らえてはいないようだった。
────だが、こちらはヤツを捉えてしまった。
頭が叩かれたようにガンガンと酷く痛む。
滲み出るように溢れ出た朱が視界をじわりと染めていく。
イシキが、モウロウとなって、すべての感覚がソイツに向く。
「……ふむ、良いな、実に良い。このような昂揚を憶えたのは、久しく無かった。
──実に有意義な時間であった」
ソイツは誰かに言い聞かせるようにそう、一人ごちた。
太く、低く……しかしだからといって、しゃがれている訳でもない。濁った氷のような、芯に鉄色の玉鋼を潜ませたような、そんな、ヤケルようにツメタイ声。
「……偶には、かの姫君と取り巻きどもの言に乗せられるのも、そう悪くない物だ。
御陰でとても、とても有意義な時間を過ごせた。──この時間と引き換えならば、このような役の遂行も悪くない」
謳うように影が吼える。
「なれば成そう。盟友との約束も違える訳には行かぬ」
闇が膨らむ。
依然としてその上で光っているはずの街灯の明かりも見えなくなる。
その闇は底なしか。
黄泉の蓋が開いたような錯覚を受ける。
それはまるで全てを呑まんとせんが為に。
────と。
闇の膨張が止まる。
「………ふむ」
「──しかし、どうもこの場所は頂けぬな。ここは、身体が騒ぐ。盟約を遂行、履行し成就した暁には……アレは排除させて貰うとしよう」
そう、呟いて。
コートの裾を翻すこともなく、男は悠然と、闇の中に消えるように歩み去る。
後には、茫然とした僕と。
“か、こーん”
ただ、夜闇に響く猪脅しの音。
妙に日常を感じさせるその音がココロに沁み透り──ようやっと我に返った。
呼吸が再開される。
「は………ぁ………」
なんだ、今のは。
なんだったんだろう。
わからない。
わからない、わからない。
ただ、頭が万力で締め付けられているかのようにきりきりと痛む。
まるで、あの“何か”を思い出さないよう、あの朱い存在を思い出してはならないよと、そう優しく囁きながら僕を責め苛んでいるかのように。
よろりと倒れこむように壁に手をつけ、それで体を支えるように歩き出す。
また発作が起きているのか────
自分の動きが酷く頼りない。
目に見えるすべてが、まるで夢の向こうで起こっているような感じがする。
手に触れる壁の感覚もどこか違ったものに感じる。
意識が体の動きについて行ってないような、そんな不安定さ。
(まるで……)
ゆめの中で、ユメを見る夢を見ているみたい。
そんななか。
ふと汗を拭ったとき掌に触れた眼鏡。
指先に伝わる弦のツメタク硬い感触に、ほんのスコシダケ、意識が澄み渡る。
何故だか、今が無手でよかった、と、そう心から安堵する。
先生にもらった眼鏡をつけていて、本当によかったと心から感謝する。
何故だかナイフを置き忘れてしまった自分の至らなさ。
今だけは、そんな僕の不注意さが心底イトオシイ。
どういうわけだか、このいずれかでも条件が欠けていたら────ひどく、大変に酷く……厄介なことになっていたような予感が……いや、確信がある。
──もし、手元に鋼の刃があったなら。
あのような、無粋な輩は。
野放しにしてはいられない。
だから。
もし、これが鋼の刃なら。
ぼくは。
ボクは。
僕は、後先考えず。
後先考えず いただろうに。
そして。
間違いなく していた筈なのに。
──そんな。
よく、ワカラナイ思考のもとで。
不確かなセカイの中、ただヒトツ確かな感触を伝えてくれる眼鏡を頼りに、拳を握り締め──狂いそうになる呼吸を必死に押し留めて、全力で……よろばうように……とにかく、ひたすら門を目指して身体を引き摺り、ずるずると歩き続ける。
今は、今は。
今は、とにかく休まないといけない。
そうでないと。
でないと、このことをナカッタコトに出来なくなる────
そんな、自分でも訳のわからないことを考えながらもやっとの思いで門までたどり着いた。
……と。
「早く、中へ────」
門を開けようと手をかけたとき、ぐらり、と。
(……あ)
一気に体が傾いた。
(……そんな……)
いけない、と。
そう思う間もなく、門に体が倒れこんだ鈍い感覚が、自分のものではないかのように遠いところで打ち付けられる。
────ああ、もぅ。
こんなとこで倒れたんじゃ。
僕、明日の朝までこのままかなぁ。
そんな場違いな事を思っている中で。
いつのまにか。
意識が、テレビのスウィッチを切ったみたいに、ぷつん──と、途切れた。