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/反転衝動#  I.

2day / October 22(wed.)


(……ねぇ、しき。)
(──だから、あなたには……)








────先生は、言った。

 ……僕のこの目が見てしまうモノは、物の壊れやすい個所なのだと。

 それは、人間でいうのなら、“急所”……と、いう事なのだろうか。

 ラクガキ。

 僕の瞳に映るもの。

 そこを刃物で通せば、何の力も要らずにモノを切断出来てしまう『線』。
 鉄みたいな硬いものでも、肉みたいな柔らかいものでも。
 あの『線』を、ただ上から軽くソッ……となぞってみせる、それだけで。
 ただそれだけで、僕は──それこそ、此の世にあるありとあらゆるモノを。

────なにもかも、等しく“切断”できてしまう。


(──つまりね、シキ)

(此の世に『在る』ありとあらゆるモノは、最初から)

(──いつか“壊れてしまう”という運命を内包しているのよ)

(カタチがある以上、こればっかりは逃れようが無い条件だからね)


 ……先生は、そう言った。

 子供のころ。
 その意味がようやく理解できて、とても恐くなった記憶がある。

 それは、つまり……このセカイは、どこもかしこもツギハギだらけで──いつ壊れてもおかしくない、ということ。

 空にも、地面にもあのラクガキが走っているのなら。
 そこを歩いていたら、とうとつに地面が砕けてしまうかもしれない。
 何の前触れも無くあの青空が砕け、今にも落ちてくるかもしれない。

 ……そんな、可能性があるというコト。

 僕らは常にシと背中合わせ、気付かないままシト隣り合わせにこのダイチでイキテイルトイウコト。

 ──乾き切り、ヒビ割れ、セイもシもマーブリングのように入り混じる──

 ……それは……まるで、月世界。


―――その意味に気がついた時、僕は貰ったこのメガネと、これをくれた先生に感謝した。

 こんな線がいつも見えてしまっていたら、とてもじゃないけど生きていけない。
 モノの壊れやすい個所。
 そんなものが見えても、得になるコトなんて何ひとつないんだから―――――


 こんなにもモロク、あやふやなセイとシが満ち入り混じる、


 そんななかでは。
 とてもじゃない、とてもじゃないけど。
 とてもじゃないけど、僕は、生きていられない──






§







「──朝です」

 ……。

「朝です。そろそろ御目覚めの時間です、詩姫さま」

 ……だ〜か〜らー、詩姫さまだけはやめてくれないか。

 そう言われると背筋が寒くなるって、昨日ちゃんと言ったっていうのに────
 シャッ。
 軽く、カーテンが引かれる音。
 頬に当たる温もりで、トウトツに。

────目が、覚めた。


 既にカーテンが開け放たれた窓からは、眩しいくらいの朝日が差し込んで──瞼を閉じた、この目の奥にまで染み透る。

「―――おはようございます、詩姫さま」
 そして……聞き慣れない、声がする。
「ん……………」
 でも。
 もう暫く暖かい布団に包まれたまんま微睡んで居たくて、もそもそと寝返りを打ち身体の向きを変えてみる。
(そういえば……)
 今、何時かな。
 手を伸ばして眼鏡を探し当てると、それをかけてから目を開ける。
 カッチ、コッチと律儀に時を刻む時計の示した時間は──まだまだ余裕があるとは言え、確かにそろそろ起きなければならない時刻。
 翡翠はベッドの脇で、相変わらずなんかの彫像みたいに立ち尽くしている。
 このまま寝つづけたら、そのうち都古ちゃんが僕を起こしに飛び乗ってきて………って、あれ?
 寝ぼけた眼で辺りを見回す。

 有間の家の純和風な見慣れた部屋じゃない。
 完全に洋風の広い部屋。
 自分が寝てるのも布団じゃなくてベッド。
 そして側にはメイド然とした可愛い女の子。
 ……。
「おはようございます、詩姫さま」
「む?」
 ……僕、旅行にでも出てたんだっけ?
「──朝です。そろそろ御目覚めの時間です、詩姫さま」
 そういって、ふたたびメイド服の少女が恭しく頭を下げる。
「むむむ?」
 一瞬我が目を疑って。
(あぁ……)
 それから僕、遠野 詩姫が置かれていた状況を思い出す。
「………そっか、僕、家に戻ってたんだっけ……」
 ぼんやりと一人ごちると、身体を起こす。
「おはよう、翡翠。わざわざ起こしに来てくれたんだ。……ありがとう」
 そう、お礼を言うと。
「はい。いいえ詩姫さま、そのようなお言葉は必要ありません。詩姫さまをお起こしするのはわたしの責務ですから」
 翡翠は頭を上げて淡々と、全くの無表情で返答してくる。
 何と言うか、オモイッキリ脱力感。
 僕は思わずはぁ、と溜息を吐くと。そのまま糸の切れた操り人形宜しく、力無くへろへろと枕に頭を埋めてみたりなんかする。
“ぼふっ”
 僕をへにょりと受け止めた枕は……今の僕の気分宜しく、気の抜け切ったなかなかいい音を立ててくれる。
「ん、む〜」
 ごろんごろんごろん。
 そのまま何となく枕を抱っこして転がってなんかみたりする。
「詩姫さま……」
 また変わらず、淡々とした声音。
 枕に顔を埋めたまんま、そっと呟く。
「……どうして、翡翠はそんなに固ッ苦しいのかなぁ……」
 昨日あれだけ大騒ぎしたのに、まだ翡翠は生真面目なメイドさんを装うつもりらしい。
 やはり、ここは。
 返り討ちの自爆覚悟でからかってみようかな、と、思っ────

(────昨日?)

 ふと、記憶に引っ掛かりを感じる。
 昨日、寝た後。
 何か重大な事があったような────?
「あの────詩姫さま、何か?」
 誰かにチョークスリーパーでも仕掛けているような妙な姿勢で枕を抱っこしたまんま固まって、考え込んでしまった僕の顔を心配そうな顔で覗き込み、おずおずとそう尋ねてきた翡翠を手で制し。思い出す作業に没頭する。
(たしか、寝た後)
 なにやら犬の鳴き声で起こされて、物音がして見に行ったら秋葉が────

 ひとつひとつ記憶を辿るたび、寝ぼけた頭が急にクリアになって、昨晩の一連の出来事が頭に蘇ってくる。
「────そうだ! 秋葉、秋葉だ!」
 幾ら寝ぼけていたとはいえ、こんな重大な事を忘れていた自分の頭をぽかぽか叩く。
 あぁん、ばかバカ僕の莫迦。
 何やってるの、今はのんびり枕抱っこして朝の挨拶なんかしてる場合じゃないよ!

「──翡翠!」
「は、はい!」

 突然跳ね起きいきなり大声を上げた僕に驚きウロタエている翡翠の肩を掴んで、そのまんま小一時間問い詰めるようなものすごい勢いで揺さぶりながら問い掛ける。
「秋葉は、秋葉はどこ?!」
「し、詩姫さま、お答え、しますから、落ち着い、てください!」
 えらく話し辛い状態のなかでも律儀に答えてくれる翡翠を見て、はっと我に返る。
 ……確かに、今翡翠を揺さぶって物事が解決するわけじゃない。
「あ……ごめん」
 慌てて翡翠の肩から手を離す。
 幾ら緊急だからって、今のは自分でもかなり慌てすぎだったと思う。
「いえ、詩姫さまが謝られることではございません」
 翡翠は特に痛そうな素振りも見せないで、僕に揺さぶらされて軽く乱れた襟元を整え直すと、姿勢を正した。

 凛然とした、とでも言うのだろうか。
 そんな形容が似合いそうな翡翠の雰囲気に飲まれ、僕もオモワズ背筋を伸ばすと、ベッドの上で正座し姿勢を正す。


 それをみて、
「それではお答えします。秋葉さまは────」

 翡翠が氷のような無表情な瞳で僕を見ながら、淡々と口を開く。
「秋葉は────?」
 我知らず、喉がごくりと生唾を飲み込む。
「秋葉さまは────」
 そこで翡翠は一旦口を閉じ、何か確かめるようにちらり、ちらりと僕の横に視線をやっては押し黙る。
(……?)
 怪訝そうな僕を尻目に、また口を開く。
「────この時刻ですと、おそらく居間でお寛ぎになっている頃合かと存じます」
「────あ、れ?」
 思いもしなかった言葉に思わず目が点になる。
 時計を見ると、
「何か、お急ぎの御用事でも在りますでしょうか? 火急のものでしたら、わたしからお伝えいたしますが…………」
 何も変わった所はないかのようにさらっと答える翡翠の言葉に、思考が混乱する。
「あれ、いや、でも、むむむ?」
 思わず考え込む。
 昨夜は確かに、ふらふらと外に出た秋葉を追って、僕も外に出て行って────森の中で倒れたりとか、そのまま屋敷の外に出ちゃって、変な男と会ったり門のところで倒れたりとか────
 って、ちょっとまて。
 そういえば。
 昨日、門で倒れた後の記憶がない。
 起きて帰った覚えもない。
 でもなんで僕、今ここで寝てるの?
 もしかして、夢オチだったとか…………?
 なんだかかなりお約束な事を思いついてしまって、なんとも恥ずかしい気分に襲われる。
 いや、でも、まだ夢と決まったわけじゃない。
 もしかしたら、琥珀さんか翡翠が倒れてる僕を発見して運び込んでくれたのかもしれないし。
「えーと、翡翠?」
 考えこんだ僕の前で、どうしたものかと困ったように佇んでいる翡翠に声をかける。
 翡翠はすました顔で、はい、なんでしょうかと答えてくる。
「ええと、今朝、僕、ちゃんと部屋で寝てた?」
「はい、詩姫さまは今朝はちゃんとお部屋でお休みになっていらっしゃいました。日が昇ってすぐに、一度起こしに来ましたので間違いありません」
 翡翠はそれが何か、とでも言いたそうな顔で小首をかしげる。
 あう……。
 いけないなぁ、どうもやっぱり夢オチだったみたいだ……。
 僕は普段は夢を見ないんだけど、でもからっきし見ないというわけじゃない。
 環境が変わって眠りが浅くなってたのかな……?
「ん……そか。ほんとごめん、翡翠、僕の勘違いだったみたいだ」
 確認が出来て再度恥ずかしさに襲われつつ、翡翠に謝る。
「いえ、よくは存じませんが詩姫さまが謝られることではございません。それよりも、早く身支度をしていただきませんと、お時間が無くなってしまいます」
 翡翠は僕の謝罪をさらっとスルーして、きっちりと畳んだ制服を差し出しながらやんわりと僕を急かす。
「うん、そうだね……………って、あれ?」
 はてな?
 思わず時計を振り返って仰ぎ見る。
 今の時刻は六時半やや過ぎ。自分にしては大分早い時間だ。
 ちょっと急げば朝シャンつけても余裕でゆっくりできるはず……。
「いや、でも随分余裕があるよ?」
「お言葉ですが詩姫さま。わたしは詩姫さまがどれほどの身支度を朝にしておりますのかはわたしには判別致しかねますが、この屋敷から詩姫さまの学校までは徒歩で三十分ほどかかります。あと一時間弱程で朝食を取って頂かないと」
 あ、そうか。
「……ここは有間の家じゃなくて遠野の屋敷だっけ………」
 愕然とした。
 確かに地理的状況が全く違う今、何時ものような気分でいたら完全に遅刻してしまう。
 慣れ親しんだ有間の家からだったら二十分ほどで学校にいけるんだけど、ここからだと近道さえわから────いや待て、昨日弓塚さんに近道教えてもらってたっけ。
 でも残念ながら、僕は一度や二度ばかり聞いただけで道を覚えられるほどいい記憶力は持ち合わせてない。
 これは翡翠の言うとおりに動いた方がよさそうだ。

 でも。
────昨日結局、湯に浸かったとはいえロクに身体も洗えてないから、シャンプーくらいしっかりしておきたいしね。

 慌てて翡翠から制服を受け取って────あれ?
 受け取った制服、その一番上に、見慣れたややくすんだ白い布を見つける。

────これは。

「…………翡翠」
「はい」
 手元の制服から視線を上げて、翡翠を見つめる。
 翡翠はなにか、とでも言うような無表情で僕を見つめ返してくる。
「────リボン、なんだけど────」
 そう言った途端、気のせいか翡翠の表情が更に強張ったのは気の所為か。
「────リボン、ですか? 何処か至らない所でも────?」
 小首を傾げる感じで何か非があったのかと問い掛ける翡翠を軽い笑顔で制して、言葉を続ける。
「君、リボン────」
「今は付けておりませんが?」
 何か? とでも言うような顔で、翡翠は軽く小首を傾げてみせる。

────ヒスイサン。
     そこで、そのボケはどうかと。

 感傷を込めてたぶん、オモワズかくんと肩が落ちる。
 だというのに、翡翠は真面目な顔のままで上を見上げると。

「それと詩姫さま」
「な、ナンナンデスカヒスイサン?」
「────これは、リボンではなくてヘッドドレスと申します」

 なんて追い討ちまでかけてくださる。
 うん────知ってるよ、メイドさんの頭の飾りはヘッドドレス。けっして、はなのへーあばんどとか、かぷらばんどとかじゃないことくらい────。

「──より正確を期すならば、ホワイトプリムと称されます」
 更に浮かせコマンドまでいれてくださりやがる。
 このまま永久コンボに持ち込もうという腹か。
────流石に、これは、完全に腰砕けだ。

「────あー」

 ……なんか、気が削がれちゃったなぁ。
「いや、ごめん、なんでもない、なんでもないよ……」
「────そうですか。では、わたしは仕事に戻ります。それでは、身支度が済み次第居間の方においでください」
「うん、判ったよ。ありがとう」
 ぺこりとお辞儀をして退室する翡翠を笑顔で見送る。
 顔で笑って心で泣いて。
 おねぇさん涙がちょちょ切れちゃうよ、翡翠ちゃん。
 それこそ目の幅でワカメのような涙を流している気分になりながら、畳まれ置かれた制服を広げる。
 すると。
 僕の制服はまるで今買って来た新品のように、きっちり丁寧に畳まれていて折り目正しくしっかりとアイロンまでかかってる。
 まさか。

────ほんとに新品だったりして。

 見た感じそうではないとは思うけど……ちょっと不安になって、腕を通した袖の中、手首の内側に反対の手の指を突っ込んでみる。
 と、何時ものように指がすぽっと細いけど深いポケットに入り込む。
(うん)
 間違い無く、僕の制服だ。このポケットは自分で付けたものだから、これはもぅ間違いない。
 なんとなくほっとしながらいそいそと制服に着替える。
 肌触りまで新品みたい。清々しい感触で、なんかとっても気持ちいい。
(む……)
 こ、これは……
 いい仕事してますね〜、翡翠さん。
 いや、琥珀さんかもしれないけど。
 なんて取り留めのないことを考えつつ、最後に残った白い布を手に取る。

 でも。

────やっぱり、覚えてないのかな………。

 先ほどのやり取りを思い出して、ちょっとだけ鬱。
 それは、八年も経ったんだから忘れていたってしょうがないと思ってるし、恨み言をいう筋合いもない。
 大体において子供の頃の約束であったことだし、僕が思ってきたような深い意味はなかったのかもしれない。
 でも、ちょっと寂しいかな………。
 自嘲のような笑みを浮かべて、そっと手の上のリボンを撫でる。
 どっちにしても、僕があの約束のおかげで前向きに生きようという気になったことは確かだし、これからもきっとそう生きていくだろうというのは事実だし。
 それに、急ぐこともないよね。
 まだ、時間は十分に有るんだから────
 うん、と自分を奮い立たせるように頷いて、僕はリボンを机の上において部屋を出た。



 居間では、秋葉と琥珀さんが寛いでいた。
 昨日、初めて再会したときと同じセーラー服。これは、秋葉が通っている浅上女学院とかいう名門お嬢様学校の制服なんだろう。
 既に朝食を食べ終わっているのか、二人は優雅に紅茶なんぞを飲んでいた。
「あ、二人ともおはよう」
「あ、詩姫さん、おはよう御座います」
 にっこり笑って挨拶すると、琥珀さんは朝も早よからもぅめっちゃ上機嫌ですよあはー、とでも言わんばかりの、なんか見てるこっちまで嬉しくなるような清々しい笑顔で挨拶を返してくれた。
 で、秋葉は秋葉で。
「…おはよう御座います、姉さん。朝は随分とゆっくりなさっているんですね」
 なーんて、朝シャンしたばっかりでまだしっとりほこほこな僕の髪を見ながら最高に気が効いた嫌味な感じの挨拶を返してくれる。
 ただ、顔はむっとこちらの無作法を咎めてるような表情なのに、目はしっかりと笑っているところを見ると、これはこれで秋葉なりのコミュニケーションの取り方なのかもしれない。
 例えて言うなら僕と有彦みたいな。
 ………例えるものと例えられたものに宇宙とマントルくらい隔てがあるけど。
「ゆっくりって、まだ七時前だよ? ここから学校までだと三十分くらいだから、今日はこれでも早起きした方だよ。多分」
 苦笑を浮かべながらそう言うと、秋葉もまあいいか、とばかりに苦笑を浮かべる。
「詩姫さん、昨夜は良くお眠りになりましたか? 慣れないお屋敷の夜で色々不都合がないか心配していたんですけれどー」
「あ、それは私も気になっていました。まあ……昨夜が昨夜でしたから……姉さん、体調とか崩されたりなど、されてはいませんか?」
 琥珀さんが秋葉のティーカップに御代わりを注ぎながらこっちに問い掛けてくる。
 秋葉も琥珀さんの言葉に続けて、心配そうな顔でこっちを覗き込んできた。
「んー……実を言うとなんだか変な夢を見ちゃって。ちょっとだけ寝た気がしないんだ。でも、昔はここに住んでたんだし、今のところ困るようなことはないよ。それに、可愛い妹や事細かに気を配ってくれてる琥珀さんもいるし、全然大丈夫だよ」
 秋葉はあら、とかいった風情で驚いてみせてから
「もう、姉さんったら……」
 一見平静を装いつつ、秋葉は照れたようなすごく上機嫌な顔で紅茶をこくんと飲み込んだ。
 ……僕、なんか照れるような事言ったかな?
 なんて考えてると。
「あー。やー、もー、詩姫さん、お上手ですねー」
 琥珀さんがつつつつ〜っと擦り寄ってきて、ふふふふふ、と照れ笑いを浮かべながらばんばんと僕の肩を叩いてきた。
 あの、琥珀さん、そう手加減なしでばしばしされちゃったりすると、流石にちょっと痛いんですけど。
「あう、いや、単に思ったことを言っただけなんですけど……ていうか、お上手って、何が上手?」
 肩を襲う衝撃に耐えながら聞き返しても、琥珀さんはふふふふ、と笑いながら見つめてくるだけで全く答えてくれない。
 助けを求めて秋葉を見ると、秋葉も秋葉でやっぱりにこにこしながらこっちを見つめてくるだけ。
 ………なんだかとっても照れくさくなって、とりあえず話題を変えてみることにした。
「秋葉のほうこそ、体調崩してたりしない? 大丈夫?」
 ふと、昨日の夢が思い出されて、思わず秋葉にそんな事を聞いてみる。
 ただ、僕はアレが本当に夢だったのかどうか、まだ自信がない。
 もしもアレが夢じゃなかったら、お姉ちゃんは秋葉の為に力を尽くすよ────
 とかなんとか思ったけど。
「はい、私のほうはいたって健康そのものですよ。……まあ、姉さんが心配で少し眠れなかったところは有りますが、姉さんの顔を見たら眠気なんて吹き飛んでしまいましたから」
 当の秋葉はほっぺからして血色つやつや。本当に元気そうで、これっぽっちも調子が悪そうには思えない。
 やっぱりアレは夢だったのか────
「ちなみに詩姫さん、どんな夢を見たんですか?」
 僕がうーんと首を傾げていると、琥珀さんがふと思いついたかのようにそんなことを聞いてきた。
 ……そうだ、この際だから琥珀さんにも聞いてみよう。
「えーとですね。でも、自分でも夢かどうか良くわかんないんですよ。もしかしたらほんとに有ったことを寝ぼけて夢だと思っちゃったかもしれないし────琥珀さん、昨日の夜、一時くらいかな。ワンワンワンワン五月蝿くなかったですか?」
 質問を質問で返されて、琥珀さんははて、と首をかしげる。
 秋葉もはてな、という顔をしてこっちを見つめている。
「────んー、どうだったでしょうねぇ。昨日は確かに風は強かったとは思いますけれど。特に気になったことは有りませんでしたねぇ。あ、でも強いて言うなら」
「強いていうなら?」
「ベッドの上で詩姫さんがそれはもうあられもない格好で寝てらしてうわー、うわー、もぅコハクったら朝から萌え萌え〜、だったくらいですけれど」
「ヱ?」
 なんかこー、両手で自分の肩を抱いて身悶えるように上気したな琥珀さんの告白を聞いて、意味が染み渡った瞬間───その一瞬、僕の脳内思考は真空化した。
「何しろ一度起こしにいった翡翠が顔真っ赤にしてぱたぱた降りてきちゃうくらいですよ〜! それはもぅ萌え萌えです、この寝乱れた姿を萌えるといわずして何に萌えよというのかそれこそ小一時間問い詰めたいくらい! そうですよね皆さん!!」
「え、そ、そうなんですか?! 姉さん!?」
 琥珀さんの突然の爆弾発言に、血相を変えた秋葉がなんだか慌てて詰め寄ってくる。
「え? そ、そうなの?」
 硬直から解き放たれた僕も、思わず琥珀さんに詰め寄ってしまう。
 っていうか、その“萌え”って何さ琥珀さん、朝からいきなりエレクトシテマスヨ?
 つーか皆さんってどこの皆さんさ?!
 と、琥珀さんは僕と秋葉を見比べて、くすすっと含み笑いを浮かべると。
「まあ、それはそれとして、犬ですか……秋葉様はお気づきになりました?」
 と、真面目な振りしてうーん、と考え込んで話をぼかしてしまう。
 いや、ぼかしたんじゃなくて本題に戻ったことになるんだけど。
 でも、それ、すごく気になってしょうがないよ琥珀さん。ねぇ、僕、どんなカッコで寝てたの…?
 秋葉はむー、とちょっとの間琥珀さんを睨むと、おんなじ様に考え始めた。
「ほんとにワンワンワンワン言ってたとすると、五月蝿くってしょうがないから寝てられなかったと思うんだけど………」
 二人の様子からすると、どうやら二人は犬の声を聞いてないらしい。
「ははあ、それはきっとワンワンパニックって奴なんですねー」
 …………琥珀さん、それはなんかずれてる。
 っていうか、そんなに可愛らしい事ではなかった気がするんですけど。
「うん、まあ、きっとそんな感じ」
 それでもとりあえず同意しておく。なんだかこっちの方が判りやすそうだ。
 でも、ワンワンパニックって何?
「うーん、私はそんな覚えはないけれど────琥珀?」
「はい、そうですねー。私も昨夜はそういうことはなかったと思います」
 ややポイントがずれてる突込みを心の中でしているうちに、どうやら結論は出たみたいだ。
「うん、そうか────やっぱり、夢だったんだな」
 うん、幾らなんでもアレだけ騒がしいのに誰も気がつかなかったなんて、そんなことはあるわけない。
 あれはやっぱり疲れた僕が見た夢で、夢の中の秋葉だって、これまであんまり心配してきたものだから不安が投影されたものだったりするんだろう。
 僕って、自分で思ってたよりも、実は神経が細かかったりしてたみたいだ────
「────きっと、姉さんは屋敷に慣れてないからそんな性質の悪い夢を見たんでしょう。今夜も犬に吼えられるようだったら────そうですね、猫でも飼いましょうか? 庭先に居ついた野良とは違う、毛並みのいい、犬の事なんか忘れられるようなのを」
 くすりと微笑みながら秋葉が言う。
 ね……ねこかー。
 猫といえばあれだな。
 普段は人のことなんか関係ないって感じにつーんとしてるのに、堂々と人の膝で寝転んだりして。軽く撫でるとごろごろって喉を鳴らしてしっぽがぱたぱた……。
 あー、思い出したら本当に昨日の猫撫でたくなってきちゃったよ。
「うん、それは────」
 いいかもね、と続けようとしたら。琥珀さんが。
「あらあら、秋葉様ー。詩姫様にはもうヒ・ス・イって言う可愛いカワイイこ・ね・こ・ちゃ・んがいるじゃないですかー。昨日だって夕方にたいそうお楽しみでしたみたいですしー」
 なんて、くねくねしながらのたまってくださいやがった。
 瞬間。
 ぶ、ふーっ!!
 盛大な勢いで飛び散る秋葉の紅茶。
「わ、わ」
 運がいいのか悪いのか、飛沫はあんまり飛距離を伸ばさず、僕にも琥珀さんにも、当の秋葉自身にもかからないで派手にテーブルの上に飛び散った。
 そのままげほげほと蒸せ、
「……………こーはーくー」
 ゆっくりとカップを置いて、幽鬼のようにゆらぁりと立ち上がる秋葉。
 呼ばれたのは琥珀さんだけど、思わず僕まで後ろに下がってしまう。
 うう、なんか、秋葉の背後に怒気の陽炎が見える気がするよ……。
 そんな今にも髪が舞いそうな秋葉を前に、琥珀さんは昨日のようにあはーと受け流しつつ。
 おもむろに僕の後ろに回りこむと、僕を回れ右させて背中を押してきた。
「あはー、詩姫様。そろそろ朝食を摂りませんと学校に遅れてしまいますよー?」
「わ、こ、琥珀さん!」
 驚く僕をよそに、琥珀さんはどんどんどんどん食堂に向かって僕を押しやる。
 怒った秋葉が居るのは丁度後ろ。後ろなんだけど────

────琥珀さん、押してるように見せかけて僕を盾にするのやめてぇ……。すごく、恐い。

 秋葉の怒気を感じつつ食堂前まで押されたところで、ふう、という溜息の音と共にプレッシャーが和らぐ。
「確かに、そろそろ時間ですから私は先に行きます。姉さん、お気をつけて行ってらっしゃい」
「あ、うん、行ってらっしゃい、秋葉」
 プレッシャーがなくなったことで押されるのが止まり、僕は秋葉のほうを振り返って努めて笑顔で見送った。
 秋葉は、一瞬琥珀さんを睨んだけれど、仕方ないか、と諦めたみたいな顔になってそのまま居間を出て行った。
 琥珀さんも、あんな後だと言うのに度胸が座っているというか、秋葉を見送るためだろうか追うように居間を後にした。

「……………………」
 さて、そろそろ……といわず、昨日で既にわかってるんだけど、結論は出した方がいいと思う。
 わざわざ考えるまでもないんだけれど。
 どうやら僕は。
 完全に、完璧に、この上もなく。

 ……………琥珀さんに遊ばれてるみたい……。

 琥珀さぁン、勘弁してェ〜……。


 琥珀さんが用意してくれた朝食を食べたあと、鞄を取る為に部屋に戻ろうとロビーに出る。
 と。
「わ」
 ばったりと翡翠に会った。
「ととと」
 出会い頭だったのでぶつかりそうになったけど、こっちが歩いていたのと翡翠が止まっていたのが功を成して、何とか翡翠の右側に避けることが出来た。
 これでこっちが走ってたり、翡翠が歩いてたりしたら完全に正面から衝突してたんだろうな。

────と、思った瞬間、翡翠もぶつからないように避けようとしたのか、右、つまり僕が避けた方に一歩踏み出してきた。

「え────」

 踏み出したのは僕のほうが早かったから、踏み出しきった僕の足に翡翠の足がぶつかってくる格好になる。
 避けたはずなのにこのままでもぶつかる事に気がついて身体を押し留めたのは、既に翡翠が体勢を崩した後だった。
「きゃ…!」
 足を引っ掛けることになった僕の方はともかく、引っ掛けられた翡翠は何が起こったか理解できなかったのか、なんだかスローモーションのようにぐらーりと倒れていく。
 スローモーションの仕方がなんだか最近流行りの映画演出みたいだな────

────って、悠長に考えてる場合じゃないよ!

「わあっ! 危なっ!」
 咄嗟に翡翠の肩を抱き寄せると、巻き込まれて体勢を崩さないようにぐっと足を踏ん張る。
 思ったより柔らかいなー、とか、女の子の僕から見ても軽いなー、なんて感想は、とりあえず時空のかなたに飛ばしておく。
 っていうか、そんなこと考えてる暇はない。
 僕が抱きしめたことに反応したのか、それとも何か捕まるものが欲しかったのか、翡翠も反射的に僕に抱きついてきて、それで何とか翡翠は転ばなくて済んだ。
「はー……」
 ほっと一息ついて、腕の中の翡翠を見下ろす。
 翡翠は何が起こったのか良く分かっていないようで、片手を僕の腰に回して、もう片方の手で鞄を胸元できゅっと握り締めたままぽかーんと僕を見上げていた。
 って、翡翠、どっかで見た鞄もってるのね?
 ……というか、僕の鞄を持ってきてくれてたのね。
 それなのに足引っ掛けちゃって、僕ってほんとドジだなぁ……。
 とか、心の中でやや自己嫌悪に入りつつ、まずは翡翠の心配をする。
「ごめん、翡翠、大丈夫だった?」
「は、はい。すみません、詩姫さ……ま……」
 ほっとしながら翡翠に笑いかけると、ぼうっと僕を見上げていた翡翠の顔が、みるみるうちに真っ赤になっていく。
 あれ────どうしたんだろう?
「あれ……翡翠、顔、真っ赤だよ? もしかして風邪?」
「いえ、ち、違います、そんなお約束なボケは、ではなく、あの」
 良く分からないけど、なんだか翡翠はめちゃめちゃ慌ててるようだ。僕何かしちゃったかな?
「いや、でも────」
「いえ、何でも御座いません」
 頭にハテナマークを浮かべつつなおも問いかけようとする僕の言葉を、翡翠はぴしゃりと遮ると、僕に預けていた体重を自分の足に移していく。
「あの、とりあえず、もう大丈夫ですから、お手を離────」
 翡翠は真っ赤になったまま俯いて、胸元に握ってた手でそっと離れるように僕を押し────
「あああぁぁぁぁぁっっっ!!!!」
「わっ!」
「きゃっ!」

────たところに、唐突に、頭の上から大きな声が降ってきた。

 驚いて見上げると、にこやか〜に驚いた顔の琥珀さんが、二階からびしっとこっちを指差していた。
 って、琥珀さん。貴方はどうしてそう、にこやかな顔と驚いた顔の矛盾したふたつを一辺に出せるんですか?
 びしっと僕を指した指が、このあとのすっごく嫌な予感を湧き上がらせるけど、不器用な僕としては尊敬物ですよ。

────この一瞬だけだけど。

「あらあら詩姫様、もうそろそろ学校に行かないと間に合わない時間だって言うのにそんな
 朝っぱらから翡翠にああんな事やこおんな事をっ!!」
 ああ、やっぱりとんでもない事を。
 今の状態だと他から見るとそんな風に見えちゃうのねー。
 って────
「ええっ!?」
 琥珀さんが言い放った言葉を飲み込んで、ようやっと今の状態が理解できた。
「あわわわわっ、ご、ごめん、翡翠!」
 ぱっと手を離すと、翡翠は俯いたままそっと僕から離れてささささっと服の乱れを直す。
 僕も僕で、まるで飛びのくように翡翠から離れる。
「いえ……わたしが悪いのですから…詩姫さまが謝られることでは……」
 ごにょごにょと消え入りそうに呟く翡翠。
 あうう、翡翠さん、そんなモニョられると、ますます琥珀さんに誤解されちゃうよう……っていうか、琥珀さんは分かっててやってるから誤解も何もないんだけどさ。
 でも、そう言う思考も言葉にならず、どういったらいいのか分からないで居ると二階からとたたっと琥珀さんが駆け下りてきて、問答無用でうりうりっと肘で僕の脇をつつく。
 琥珀さん、それ、すっごくくすぐったいよぉ。
「詩姫様ったらー、朝からお熱いのもいいんですけれど、そう言うことはお部屋で翡翠が起こしに来たときに二人っきりでなさってくださいよー?」
「ち、ちがいますよ琥珀さん」
「ち、違います、琥珀姉さん」
 相変わらずのからかいっぷりに僕も顔が熱くなって行くのを感じて慌てて琥珀さんの言葉を否定する。
 こはくさぁん……昨日の今日でまたそう言う冗談、やめてくださいよう……。
 そんな事言われ続けてたら、僕ほんとにやっちゃいかねなくなっちゃいます、じゃなくて、毎朝は身が持ちません、でもなくて、ええと、ええと……。
 僕が愚にもつかない思考でおろおろとしていると、琥珀さんは更に言葉を続けてきた。
「それとも、今朝がたあんなにお楽しみでしたのに、もう我慢が出来なくなったとか? ん、もぅ、詩姫様ったら…」
「琥珀ねぇさん!!!!!」
 と、流石に耐えられなくなったのか翡翠が大きな声を出して琥珀さんの言葉を遮る。
 まさか翡翠がこんなに声を上げるとは思わなかったからちょっと意外。
 琥珀さんも意外だったのか、ちょっと目を真ん丸くしている。おかげで琥珀さんの追撃はやんだけど。
 琥珀さんを止めてくれてありがとう翡翠。
 でもね。
 その、真っ赤になって俯いたまま上目遣いでむーっと睨む仕草がかわいい……じゃなくて、すごくいい感じ……でもなく、それだとなんだか図星を指されたみたいだから落ち着いた方がいいよ?
 僕も人の事言えない状態だってのは分かってるけどさ。
 っていうか、やっぱり今朝のぴっしりしてたのって猫かぶってたんだね?
 なんて思いながら見てると、琥珀さんはくすっと微笑んで僕からちょっと離れると、翡翠にちょっと頭を下げた。
「ふふ、ごめんなさいね翡翠。私ちょっと調子に乗りすぎちゃったみたい」
「いえ……わたしは良いんです。わたしよりも詩姫さまに謝られるべきかと」
 琥珀さんに謝られてちょっと調子が戻ったのか、翡翠は何とかぴしっとした顔に戻る。
 琥珀さんも翡翠に促されて、ややピシッとした顔になってぼくにぺこりと頭を下げる。
「そうですねぇ。済みませんでした詩姫さん」
 いやねぇ、琥珀さん。昨日一日に今朝までからかわれ続けて、なんだかもうどうでも良かったり良くなかったり。
 いや、からかう内容は全然よくないんですけどね。
「あ……いや、なんか今更って感じだからそんなに畏まらなくていいよ……っていうか、琥珀さん、秋葉と一緒じゃなかったの?」
 ふと秋葉と一緒に外に出たはずの琥珀さんがここに居る事が疑問になって、問い掛けてみる。
 と、琥珀さんはさっきまでのからかっていた時に浮かべていた笑みとはまた違う柔らかい笑みを浮かべて僕の質問に答えてくれる。
「ああ、秋葉御嬢様はお車で学校に行きますからねぇ。私は詩姫さんにまだ渡すものが有ったのを思い出して、屋敷に残らせてもらったんですよ」
「渡すもの?」
 はて。なんだろう。
 思わず考え込んでしまう。
 お小遣いでもくれるって言うのかな?
 でも、お小遣いならまだ啓子さんから貰ったのが残ってるし。
 弓塚さんや先輩と遊びに行くと、なんでか奢ってもらえる事が多いからそんなに使ってないし……。
 なんて益体ないことを考えていると、琥珀さんは袂の中から二十センチ程の細い木箱を取り出した。
「ええと、こちらです」
 そう言って、僕の手の上にぽん、と木箱を乗せてくる。
 結構古そうに見える箱だけど、見た目に反して結構軽い。
 いい感じに色が褪せた表面には何もかかれてなくて、房のついた藍色の紐で封がしてあるところがなんだかいい感じ。
「────これは?」
 箱をひっくり返したりして眺めてみるけど、全然中に何が入っているのかは見当もつかない。
「それは、詩姫さんのお父様の遺品の一つですよ。本当は昨日のうちに渡して置きたかったんですけれど、仕舞った場所を忘れてしまいまして」
 そう言って、琥珀さんはぺろっと舌をだした。
「は────」
 琥珀さんの言葉に、一瞬ぽかんとしてしまう。
 いや、別に琥珀さんがこれの事を忘れていたことが驚きだったんじゃなくて。
 そりゃ、結構こまやかな琥珀さんだけど、ちょっとそそっかしそうだから忘れてることも有るだろうなぁとか、忘れてましたとかってぺろっと舌を出すのも似合ってて可愛いかなとか、僕がやっても似合わないだろうなぁとか思ったりもしたけれど。
 そうではなくて。

 昨日あれだけいろいろと渡されたというのに実はまだまだ氷山の一角だったとは────

 なんていうかもう、おなか一杯です。
 ていうか。
 昨日の今日でここまで来ると、流石に中身を確認するのがちょっと恐い。
 これで開けたらまたトンデモナイモノなんか出てこられた日にゃ、僕ちゃんと学校行けるか不安になっちゃいます。もうそろそろ時間無いし。
 ここは一旦置いといて、帰って来てから確認した方がいい。
 うん、そうしよう。
 心の中でうんうん、と頷いて、箱を返そうと琥珀さんに差し出す。
「琥珀さん、悪いんだけど今時間が押してるから、僕の部屋に置いておいてくれないかな?」

 だというのに。

「────────」
「……琥珀さん?」

 琥珀さんはにこにこと笑いながら、興味深そうにじーっと僕と箱とを見つめて受け取ろうとしない。
 なんていうか、玩具を目の前にした子供みたいだ。
 っていうか、この場合は。

「じーーーーーーーっ」

 悪戯の成果を楽しみにしている子供って言った方が正しいのかもしれない。

「……わかりました。どうしてもここで開けて貰いたいんですね? 琥珀さんは」
「えー? 嫌ですねぇ詩姫さん。私はそこまでは思ってませんよー?」
 じと眼で見やると、琥珀さんは口元に手を当ててくすくすと笑いながらやんわりと受け流す。
 さすが遠野家当主をいい様に玩ぶ女。僕程度のじと目では蚊に刺されたほどにもなりませんか。そうでつか。
 僕は溜息をついて翡翠を見やる。
 翡翠はずっとすましたままで、僕の判断に従う、と言わんばかりだ。
 もう一度琥珀さんを見ると、やっぱりにこにこしながら無言のプレッシャーをかけて来る。
 ここまで来るともう、宇宙で金色のやつと相対したような気分にさせられてしまう。
 いや、別にツノ立てて塗るだけで何故か通常の三倍の赤い奴でも良いんだけど。
 ここはやっぱり、この流れに乗って開けてしまうしかないのかなぁ……。
 どうにもとほほな気分で紐に指をかけ、せっかくだからと赤い扉を開く気分で封を解くと箱に手をかける。
「はあ……じゃあ、開けますよー」
「はい、どうぞ」
 琥珀さんはにこにこしながら、手元じゃなくて僕の顔をじっと見つめる。
「せーの、はいっ」
 少し力を入れると、箱の蓋は引っかかったり嫌な音を立てたりしないでかこっと軽い音を立てて開く。
 見た目古いけど、いい箱使ってるんだなあ、などと思いながら中を覗くと。

 中には────ビロードの緩衝材に包まれた、十三〜四センチほどの鉄の棒──いや、鉄の板といったほうが正しいかもしれない──が、入っていた。

「────あれ。これは────」
 中に入っていた意外なものに、驚く。
 いたってシンプルな鉄の板。
 両端に小さな鋲が打たれていて、それが外枠である板と板をつなげて、間にあるものをサンドイッチにしている。
 やや丸みを帯びた片端の真ん中には、僕の指くらいの太さの鋲が打ってあり、それが中身と外枠を強固に接続している。

────僕は、これに見覚えがある。

 このデザイン。
 持ちやすさよりも携帯性や隠匿性を高めて全体を薄く作ってある。
 見た目を捨て、耐久性と整備製を高めたシンプルで簡素な構造。
 取り出して握ってみると、やや違和感があるけれど、重さといいバランスといい僕が知るものに酷似している。
 いや、ほぼそのものだ。

────間違いない。

「これはですねぇ────」
「────ナイフ、だね?」
 魅入られたようにそれを見ていた僕にじれたのか説明しようとした琥珀さんよりも先に、僕が答えを言ってしまう。
 同時に、わざわざそこに触らないと見つからないようになっているスイッチを親指でぐっと押す。
 パチン。
 内部のバネが作動して、折りたたまれていた約十センチ強の刃が中から飛び出す。
「────知っていたんですか?」
「うん────へぇ、これは小烏打ちなんだ。なかなかいい趣味してるな」
 ……何故? と聞きたそうな琥珀さんを敢えて無視して、刃の検証に移る。
 刀身は、日本刀と同じように背が真っ直ぐで先端の腹が丸くなっていて、本来のナイフの使い方である“刺す”ということより切るということに適した形状をしている。
 しかも、先端の背までが刃になっている小烏打ちという技法で鍛えられていて、刀の形状なのに途中までは両刃造り、という非常に特殊な物だ。
 逆に言えば、本来は“斬る”ための刃なのに、“突く”事にも強化されているといえるかもしれない。
 うん。
 透けるように、煌くように。
 ゾロリと濡れたように鈍色の輝きを放つ刃、玉鋼から打ち鍛えられた証たる火炎状の波紋が幾重にも浮かび揺らめくその背をゆっくりと指でなぞってみて、頷く。
 それを見ていると。
 オモワズ、心からの笑みが零れだす。
 滑り止めと思しきシンプルかつ精緻な細工が施された柄、刀身の形状、そして、全体的に受ける印象や醸し出す雰囲気を見る限り。
 そう──
 ──これは、多分。
「元々は刀だったものを、後からナイフに打ち直したのかな……? 綺麗な刃紋だな……相当の腕の刀鍛冶が作った物みたいだな」
 刃の部分に気をつけて、ぱちんと刀身を仕舞う。
「詩姫さん、随分、手馴れているんですね」
 なんだか感心したように琥珀さんがポツリと呟く。
 そろそろ、種明かしをしても良いかもしれない。
 僕は小烏のナイフを右手に持ち変えると、開いた箱を琥珀さんに返す。
「うん、だって。おんなじの持ってるからね」
 左手に少し押し出すような瞬間的な力を加える。
 すると、手首側に作ったポケットの中から、納められていたナイフが飛び出してきて、僕の手の中に収まる。
 すかさずスイッチを操作すると、パチン、という硬い音と共に折りたたまれていた刃が飛び出す。
「ほら」
 流石に刃を出しっぱなしだと危ないから、手早くパチンと折り畳む。
 ちなみに、僕が元々持っていたナイフの方は、刀身が先端に近くなるにつれて幅が少し広くなっていて、ナイフの背より刃の方が少し先端の方に突出しているタイプだ。
 中東辺りの世界観を使った漫画に出てくる先が折れたようにまっ平らな偃月刀を思い浮かべるといいかもしれない。
 女の子が持つにはややごっついとは思うけど、畳めば持ち運びに便利だし、稼動部があるのに長年使ってこれた頑丈さ、そして信頼性から僕の一番のお気に入りとなっている。
「でも、このタイプのがもう一個あるとは思いもよらなかったなぁ。ネットも駆使したけどどこにも情報が無くて、完全にオーダーメイドでオリジナルだと思ってたのに。」
 ──そうなのだ。
 それに、元々この型に近い飛び出しナイフは日本国内では銃刀法との絡みから所持自体も難しくなり、昭和の30年代中頃には刃物の一大生産地だった関での製造も打ち切られ、今では流通自体国外──韓国とか台湾など、かつて日本からこの手の刃物が輸出されていた所からプレミア付きで逆輸入されたか、現地でつくられたもの……それも、大抵はただの鋼鈑からプレスされ打ち出された物に刃を付けただけの、品格に欠けた、観るに堪えない粗悪なコピー品……だけになっているのだ。
「こうなると、これはもう製作者が完全に個人の趣味で作ったのかなぁ……。あ、やっぱり銘も同じだ。作った人同じなんだよこれ。ほら両方ともここに“七ツ夜”って彫ってある」
 二つを並べて、握りの下に刻まれている文字を比べるように見せる。
 ………と、琥珀さんも翡翠もぽかーんとした顔に何を言っていいのか分からない、という表情を浮かべて、驚いたように僕を見つめていた。
「あれ……どうしたの、二人とも?」
 なんだか固まってる二人に声をかけると、翡翠ははっとしてすまし顔に戻り、琥珀さんはなんとも複雑な笑みを浮かべる。
「いえー、なんていうか……驚いたとしか言い様がありませんよー。なんだかすごくお詳しいみたいですしー。ねえ、翡翠?」
「はい。琥珀姉さんの言う通りです。……詩姫さま、そのナイフは一体どこから取り出されたのですか? まるで手品を見ているようでした」
 琥珀さんと翡翠は顔を見合わせた後、なんかすんごく珍しい物をみている、という目で僕を見つめてきた。

────しまった。

 どうやらいつもの癖が出ちゃったみたい。
 自分で言うのも変な気はするけど、僕は結構刃物マニアだ。
 自分でもなぜか良く分からないんだけど、刃物ってなんだか好きなんだよねー。
 弓塚さんや有彦、有間の家の人たちみたいに長い付き合いがある人は既に周知の事実だけど、流石に、再会してからまだ一日しかたってない琥珀さんや翡翠にとっては僕のイメージ丸変わりだろうな〜。
 なにせ、有彦どころか弓塚さんにまで「マニアって言うよりフェチ」って認定されちゃってるもんなぁ……。
 なぁんて“とほほ”な事を考えていると、翡翠がはっとしたように声を上げる。
「あ、詩姫さま……そろそろ出ないと間に合わない時間では?」
「う…ほんとだ。まあ、これはとりあえず貰っておくよ。琥珀さん、届けてくれてありがとうね。箱の方は部屋に置いといてくれれば良いから」
 とりあえずいつものナイフは何時ものところに、貰ったナイフは右手の袖にもあしらえてあるポケットの方に滑り込ませてないないしちゃう。
 元々貰える物は貰って置く主義ではあるけれど────正直、服よりこっちの方が嬉しかったりしたよ、親父────
「はい、このくらいどうって事ありませんよー。では、詩姫さん、行ってらっしゃいませ」
 にこりと笑って手を振る琥珀さんに行ってきますと返して玄関に向かう。
 翡翠は玄関まで見送るつもりなのか、鞄を持ったまま一歩後ろをてこてことついて来る。
 やっぱり自分付きのメイドって言うのは照れくさいなー、と思いつつも玄関について靴を履く。
 で、鞄を受け取ろうと後ろを振り返ると。
 当たり前のように靴を履いて外に行く気満々の翡翠がいた。
「あれ……翡翠も外に用事?」
「はい。詩姫さまを門の外までお見送りいたします」
 ぐは……玄関までは見送りに来るだろうとは思っていたけど、まさか門までとは────
 そこまで面倒見られちゃうとか〜な〜り、こそばゆい。
 けど。
 ここで「見送りは玄関までで良いよ」なーんて言おうものなら、昨日の「様、さん、付ける付けない」の件みたいな言い合いになることは火を見るよりも明らかだ。
 僕としてはそんなに一生懸命面倒を見られなくてもいいとは思うけど、今は言い合うだけの時間は無い。
 ていうかわざわざ遅刻してまで言い合う必要は無いし、見送ってもらって悪い気はしないことは確かだし。
「ん、そっか……ありがとうね、翡翠」
 とりあえずにっこり笑ってお礼を言う。
「あ、いえ。わたしは詩姫さまつきのメイドですから。礼には及びません」
 翡翠は少し顔を赤らめてやや俯きながらぽそぽそと返してきた。
 なんていうか、翡翠は普段はいつでも真面目な顔をしているんだろうな〜、と予想がつくから、こう言う顔はえらく可愛く見えるなぁ。
 なんてドウデモイイことを考えながら門に向かう。
 僕が歩き出したのを見て、翡翠も鞄を持ったまま、僕の後ろについて来る。
 その後はさしたる会話も無く中庭を抜けて、門から外に抜ける。
 と。
 なにやら外が騒がしいことに気がついた。
 何か有ったのかと首をめぐらせる。
 残念ながらここからではあまり良く見えないが、屋敷の右手の方で人が忙しそうにばたばたと行ったり来たりをしているのがわかる。
「あれ……なんか向こう、騒がしくない? 何か有ったのかな」
 なんとなくそっちを眺めつつ、独り言みたいに翡翠に問い掛けると、翡翠は僕と同じようにそっちの方をみやりつつ、しっかりと答えてくれた。
「はい。なんでも今朝方、屋敷の東側の路面で血痕らしい物が発見されたそうです」
「────血痕。それって、つまり血の跡?」
「はい。屋敷の塀にも盛大に血の跡がついていたようです。今朝方、詩姫さまが寝ている間に警察が昨夜の様子を尋ねにもまいりました。もっとも、応対をしたのは秋葉さまと琥珀姉さんですので、わたしは聞きかじっただけですが」
 盛大な血の跡、ねぇ…………。
 ふーん、と何気なく聞いていたけれど、それが一体どういうことを示すのか、理解したとたん背筋に冷たいものが走った。
「…………! それって、まさか人が死んでたってこと?!」
「いえ、発見されたのは血の跡だけのようです。人の物かどうかもまだ分かっていないと思われます」
「────そう、か────」
 死体は無い、と聞いて、ほっとしたような、恐いような複雑な心境に陥る。
 人にしろ人でなかったにしろ、死の残骸がそこにあるというのはいい気はしない。死体は無かったということだから、もしかしたら生きているのかもしれないし────
 自分でも良く分からないままの思考を巡らせていると。

────不意に。

────黒い。

────風景が。

────頭によぎった────

「────────」

 マテ、遠野 詩姫。
 確かに、覚えている事が間違いでなかったとしたら。
 昨日、黒いコートの男と相対したのは屋敷の東側の道だ。
 血の跡────血のあと。
 あのコートの男の影が。B
 確かに、赤かったような、そんな気もする。
 だけど、あれは────夢の中の話だろう?

────そう。
────アレハ、ユメダ。

       夢ノ中デ有ルベキナノダ。



「────詩姫さま?」
「え────?」
 翡翠に話し掛けられて、はっと我に返る。
「詩姫さま」
「あ、いや、なんでもないよ。なんでも……」
 …………なにか、ぼんやりと考えていた気がするけれど────残念ながら霧散してしまった。
 とりあえず頭をふって、残ったもやもやしたモノを吹き飛ばす。
 これ以上時間をとったら、本当に遅刻しかねない。
「ん…………じゃ、行ってくるよ。お見送りありがとうね、翡翠」
「いえ、礼には及びません。行ってらっしゃいませ詩姫さま。くれぐれも道々お気をつけくださいませ」
 翡翠は鞄を渡してくれると、深々とおじぎをする。
 ……何を気をつけてなのかはいまいち不明なんだけど、きっと僕の体調を気遣ってくれているに違いない。
 だって、今。自分でも顔色が悪くなってる自覚があるからね。
「うん。ありがとう。翡翠も気をつけてね」
 好意に好意で返すのは当たり前。
 だけど、翡翠が何に気をつけるのかは言ってる僕にも分からない。
 兎にも角にも、まとわりついた嫌な空気を振り払うみたいに、翡翠に向かって無駄に元気に手を振って屋敷の門を後にした。







────見慣れない、道を歩く。

 …………とは言っても、見慣れてないのはこの弓塚さんに教えてもらった、最近開通した近道だけ。
 屋敷へと続く坂道も見慣れない道ではあるけれど、あそこは結局のところ一本道だし、坂を降りてしまえば弓塚さんちから直に学校に行くのとほとんど変わりが無い。
 時間が有れば慣れた道を通るのも良いんだけど、ちょっと時間が押しているのと、近道は早めに覚えておいて損はないからこうやってなれない道を急ぎ足で歩いているわけだ。
 まあ、弓塚さんいわく、ここを通るだけで五分は短縮できるみたいだから、これからも活用させてもらおう。
「────えーと、確か、ここを左」
 十字路や三叉路に来るたびに、なんとなく言葉で確認しながら進む。
 変な人だというなかれ。記憶の確認と強化には言葉に出して復唱するのが一番いいのだ。
 いや、そりゃ僕だって道でぶつぶつ呟いてる人を見かけたら変な人だと思っちゃうんだけど。
「────でも、あんまり居ないな、ウチの学生」
 ちょちょっと辺りを見回すけれど、この周辺にはウチの学校に通う人間は少ないみたいだ。BR
 時刻は、朝の七時半。
 学校の制服を着てやや小走りに進んでいるのは、見たところ僕だけだ。
 あー、よかった。
 ちょっとだけほっと胸を撫で下ろす。
 知り合いであろうが無かろうが、自分でもちょっと変だと自覚している行動の最中を同じ学校の生徒に目撃されるって言うのはなんとも気恥ずかしい。
 っていうか、そんなところ見られたら僕学校行けないよ。
 とか、微妙に急いでるのかのんびりしているのか分からないことを考えつつも、足は急ぎ足で道を進む。
「っと────」
 何度目かの角を曲がると、見慣れたオフィス街に突入する。
「確かに、随分時間が短縮できたみたいだ」
 目の前の、いつも通りにスーツ服姿の会社員達が、これからお仕事に励もうと急ぎ足で進んでいく通勤ラッシュな光景を見ながら呟く。

 けど────

 いつも通りというのは少し違う。
 街の雰囲気は、ここ数日間、重苦しい物になっている。
 何故ってそれは。

────街に、殺人犯が潜んでいるかもしれないからだ。

 ……その事件が報道されたのは大分前のことだ。

 はじめは、隣町で被害者が発見された。
 その後、続々と同じ方法で殺されたであろう被害者が発見されるにつれ、同一犯の連続殺人として報道されるに至っている。
 被害者達には関連は無く、全員が全身の血を抜かれていることから「通り魔吸血鬼」などと名付けられ、大々的に捜査がなされているみたいだけど、未だに犯人は見つかっていない。
 さらに、今週に入ってこの街でも被害者が発見され、現在、犯人はこの街に潜伏中……と、されている。

 その影響だろう、ここ数日は夕方を過ぎると街でも途端に人通りが少なくなるみたいだ。
 まあ、実際どことなく自分には関わりのない話みたく感じてはいるけれど、あまり気分のいい話でないことは確かだ。
 犯行現場の目撃なんてしたくも無いし、下手をしたら自分や知り合いが被害に遭うなんて、想像するだけでぞっとしない。
「────まあ、夜遊びはほどほどにって事だよ、有彦」
 知り合いの中でただ一人、街の雰囲気なんか気にしないで夜遊び倒しているであろう悪友の顔が頭に浮かぶ。
 ……まあ、言っても聞かないことは分かってるし、なんとなくあいつはそんなことに巻き込まれる気がしないからいいんだけど。
 そんな事を思いながらも歩みは止めず、学校に向かって行く。

────────その視線に気がついたのは、人通りの激しい一角だった。

 朝も早くから、街は人でごったがえしている。
 混沌としているように見えて、その実あちらに行くのとこちらに行くのに統制された人波が激しく脈動し、その構成要素になっている人たちは皆脇目も振らずに自らの目的地に急いでいる。
 どちらを向いても溢れ返る人、人、人。
 通り過ぎていく無数の人波。
 こんな光景は見慣れていたはずなのに、この時間が無いときに取り立てて立ち止まって眺めるほどの物でもないはずなのに。
 なのに、そこに。

 街の騒音をすべてをかき消してしまうほど、鮮烈な視線があった。

…雑踏の中の少女… 「こっちを────────見てる?」
 人込みの中、誰もが通り過ぎていく雑踏の中で、見知らぬ少女がこちらを見ている。
 そう。ただ。こちらを見ている。
 それだけで、こんなにも目を奪うのは何故だろう。
 誰一人立ち止まらないこの人並みの中、ただひとりだけ立ち止まっているからか。
 それとも黒一色という服装が目立つからなのか。

────分からない。
 わからない。
 わからない、ワカラナイ。
 けれど。
 いま、あの子に見られてる。ただそれだけで────

 心臓が、違和感を叩き付けてくる。


────いや。
 違う。
 これは。
 視線じゃ、ない。
(匂い)
 そう、においだ。
 確かに女の子が向けているのは視線だけど。
 僕がこんなにも強烈に惹かれているのは、あの女の子の身に拭い難く染み付いた……そう「“ソレ”の残り香」だ────

 何故なら。
 ボクは今まったく目をつぶって逸らしているはずだから。
 それが見えよう筈が無い。
 ならばニオイとしか表現の仕様が無いではないか────




「────────君」
 呼びかける。
 否。
 呼びかけようと口が動いた。
 この距離では如何に呼ぼうと届くはずも無い。
 呼び止めるなら近寄らなければ。
 だけど、足が動かない。
 何時の間にか乾き切った舌が、口蓋に張り付く。
 渇く。
 ただ、渇く。

 その一瞬で。

「────────」
 少女の姿は無い。
 視線も、いつの間にか感じられなくなった。
 においも、もはや捉えられない。
 全ては人込みに紛れ、溶け込んでしまった────

 チ。
────逃した。

 何の脈絡も無く、悔しくて胸を掻き毟る。
 けど、問題ない。
 直ぐ傍に居ること、それは分かったのだ。ならば探すこともできる。
 居ることは分かったのだ。今はそれでいい。
 故意か、偶然か。
 それはまだ、わからない。
 けど、ボクは自分でも思わぬうちに、あの見知らぬ少女に感謝した。
 いつの間にか止まっていた呼吸を再開する。
 朝の冷たい空気が肺に満ちて、なんだか生き返ったかのような清々しい気持ちが胸に充満する────





「あれ────────?」





 思わず考え込んでしまう。
 なんだろう。
 いま、とても自分にとって大切な事柄があったような気がする。
 頭はすっきりしているのに、どうも何か、どこかで肝心なことが抜け落ちている気がする。
「────なん、だろう?」
 首をかしげながらふと時計を見ると、流石にもうそろそろ急がないと、学校に間に合わない時間だった。
「やば…………こんな所で考え込んでいる場合じゃないよ」
 うう、これじゃあ近道通った意味が無いよ……。
 慌てて、人波に乗るように走り出した。



[←第三話 「3/耶見の帳」] [ To be continued...→]

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