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ロシア核解体へ2億弗 | 基地拡充は米軍の悲願 | 有無言わせぬ退去通告 |
安価な合理化 | 有事の現実 沖縄から | 「米主導」許す あいまい基準 |
また海幕の現場独走 | 戦後直ちに再軍備 | ![]() |
日本政府、核解体へ2億ドル 対口支援へ厳しい視線 日本は一貫して新規対口支援に消極姿勢を示して来たと言うが、政府及び外務 省内部では鈴木宗男事件を見た目では素直に頷けない。対米国との協議ではそう だったのだろう。首相はロシア側の態勢整備が不十分として、支援金拠出 に「協力事業の困難が解決されること」と異例の条件をつけたとの報道がある。 一連のムネオ疑惑で北方四島支援事業は胡散臭く、一層監視の必要なものとの認 識と云われる。米国の都合ばかりに傾聴出来ないのは当たり前過ぎる。 ブッシュ提案も金額の算出根拠が薄弱で、他人のフンドシで相撲を取るのも好 い加減にして欲しい(G7として今後10年で200億ドル)。ロシアが 軍施設などへの立ち入りを認めない事も、日本側の予算執行作業を不可能にして 居る。それでも米国は更なる増額を我が国に要請、当初の我が国は難色を示して いた。サミット前になって首相官邸筋は、米国へのお追従とサミット外交の円滑 を図る為に方針を変更、誠意を感じなければ何時でも白紙に戻す条件付でこれを 了承した。五大国が何とも不甲斐無い始末である。 |
基地拡充は米軍の悲願 60年代も辺野古に計画 沖縄の米軍が60年代に描いていた基地拡充計画が、米政府の公文書などから 次第に明らかになっている。沖縄県公文書館などが収集し、沖縄の研究者、市民 らの手で分析されたものだ。晋天間飛行場の移設予定地、名護市辺野古で60年 代に構想された巨大な飛行場計画は、移設先の検討でも浮上した。そうした経緯 から、米軍が沖縄で絶えず基地機能を強化しようとしてきた意図うかがえる。 復帰前の構想 県公文書館は、復帰前の沖縄を統治した琉球列島米国民政府(USCAR)の公 文書を米国で収集。その数は約270万枚にのぼる。その中で、66年にも名護 市東岸で基地建設が計画されたことが詳述されている。当時、米国はベトナム戦 争に本格介入し、新たな基地を必要としていた。 66年2月28日付の「琉球の士地政策と概要」と題された秘文書は「沖縄で の軍用地の必要性は増している。土地接収は政治的、経済的な反発を引き起こす 為、より注意深く見ていくべきだ」と指摘。その上で「新たな用地は石川(沖縄 本島中部)より北の地域を検討する。中南部の密集は限界に達している」。 すでに米国は、新たな基地用地として密集地から離れた北部に注目しており、米 軍キャンプ・シユワブに隣接する旧・久志村(現・名護市東岸の辺野古)に、海 兵隊飛行場を建設する案が作られた。文書では、陸地と沿岸埋め立てで約600 ヘクタールを確保し、建設費は1億1100万ドルだ。 同年3月4日付の覚書は、「久志村での海兵隊飛行場のための土地取得に関す る政治的、経済的評価」として、米陸軍省に対し「借地料6万4705ドル、面 積531エーカー、墓80、家屋40、畜舎24。住民移転にー世帯約300ド ルがかかる」と見積もる。 また、米国のコンサルタント会社が、米海軍の委託で作成した「海軍施設のマス タープラン」には、辺野古沿岸の大がかりな埋め立て図面が示されている。 さらに大浦湾を挟んだ北側の地域で、陸軍の大規模な弾薬庫建設が持ち上がっ ていたことが、複数の文書で分かった。約1200ヘクタールを接収し、住民4 50世帯を移転させるという計画で、米民政府でさえも本国に難しさを説いた。 計画は、予算削減などでいずれも実現せずに終わる。 市民の分析も沖縄では、公文書などから米軍の企図を探る活動が、市民の間でも 始まった。那覇市の建築家、真喜志好一氏や元県公文書館長の宮城悦二郎氏らが 市民団体を結成し、分析を続けている。そうした中でも、米国の基地計画が見え てきた。 復帰を方向つけた佐藤・ニクソン共同声明の翌年、70年1月の高等弁務官室 の文書「沖縄で可能な施設移転」では、米軍が使用していた那覇空軍基地(現・ 那覇空港)を日本に移管する代わりに、新たな基地を建設できるかどうかに言及 している。 「(那覇)空軍基地が本島南部の人口密集地に近いことが、移転を求める政治的 圧力となっている。北部への移転は地形的要素から限界がある。65年の調査で は可能な場所は本部(名譲市の西)と久志湾しかなかったが、いずれも埋め立て や道路などの設備投資を必要とする」改めて北部移設の費用について指摘した。 別の文書は、米軍郡費軍港(那覇市)の移設について触れていた。那覇軍港は 99年の日米合意で、那覇の北、浦添市にある米軍牧港補給地区の隣接地に移設 することが決まった。だが、その25年前の70年5月、ハワイの太平洋軍司令 部が本国の統合参謀本部にあてた極秘公電では、陸上輸送や水深などの利点から、 浦添移設を求めるよう要請している。真喜志さんは「新しい飛行場や軍港を建設 するために、不便になった基地を返還するということではないか」という。 |
有無言わせぬ退去通告 沖縄本島中部の宜野湾市伊佐浜にまたがる米軍キャンプ瑞慶覧。国道58号沿い に延びたフェンスの内側には、倉庫群や、米兵らが余暇を楽しむボウリング場、図 書館などが立ち並ぶ。いまから47年前、ここには「沖縄一」と言われた美田が広 がっていた。 55年7月のことだ。朝鮮戦争は終わっていたが、米軍は沖縄での恒久的な基地 の建設を目指していた。宣野湾市はまだ村だった。国道58号は「軍用1号線」と 呼ばれた。役場職員は17人。土地係をしていた宮城野吉さんへ81のもとに、一 通の郵便が届いた。「18日までに立ち退くように」。英語と日本語でこう書いた 紙が1枚ずつ入っていた。 松戸136人の住まいと農地約43平方メートルを接収する。そう通告する米民 政府からの公文書だった。官城さんは平屋の役場を走って、村長室へ届けた。「と うとう来たか」村長はうなった。1年半前、米民政府は法令に当たる布告26号を 出した。「琉球列島の防衛のため占有する必要がある」。有無を言わせない内容だ った。米軍は「村長の責任で立ち退き先を決めろ」と指示した。しかし、私有地を あてがう権限は村長にはない。住民は米民政府に干拓して代替地をつくるよう求め た。だが、米軍は条件をのまない 打つ手はなかった。期日翌日の7月19日。午前4時半になった。闇に包まれた 1号線の北側から、ライトを消したブルドーザーとトラックの群れがやってきた。 その前を30メートルの道幅いっばいに、銃で武装した米兵たち。「来たぞ」。高 校教員の前原穂積さん72は車に飛び乗り、メガホンで叫びながら集落内を回った。 村議会議長の桃原正賢さん79は住民と腕を組んで進路をふさいだ。目の前3メー トルになってもブルドーザーは止まらない。怖くて逃げた。 米兵は立ちはだかった住民を突き飛ばし、抱えてどかせ、1号線沿いにらせん状 の有刺鉄線を張った。農地約1万平方メートルを持っていた沢低安一さん79は、 父と見たその光景を忘れない。サンゴ礁の海岸からくみ上げた石灰岩の砂利と海水 がパイプで流し込まれ、水田が瞬く間に白く埋まった。かやぶきや木造の家はロー プで引き倒され、ブルドーザーで押しつぶされた。伸佐浜のほか、真和志村や小禄 村(いずれも現在の那覇市)、伊江村などで土地が奪われた。 朝鮮戦争の休戦から4カ月たった53年11月にさかのぼる。毎日のように嘉手 納基地を飛び立った爆撃機の姿は見えなくなった。だが、軍事優先の網は広げられ ていく。立法院前。設営したテントの下に、顔から眠気が抜けた2人が座り込んで いた。石油会社「カルテックス」の従業員。労働組合に参加したことが引き金とな り、解雇を通告された。それに抗議し、水と塩をなめるだけの生活が数日続いてい た。会社は、沖縄で右油の供給権を独占していた。 それがあだになった。米民政府は3カ月前、布令116号を出した。石油は水道、 電気、ガス、輸送、郵便、医療などとともに「重要産業」に指定され、従業員の争 議行為は禁止された。2人の横で、県内各地から駆けつけた100人以上が支援を 訴えた。沖縄漁脇連合会の労働組合理事長だった真栄田義晃さん75も、その支援 の輪の中にいた。私服の外国人が参加者の写真を撮っているのに気づいた。 数白後、真栄田さんは連合会の会長に呼び出された。「辞めてくれないか」。申 し訳なさそうに言われた。連合会は、組合員に配給した漁網の資金の返還を米民政 府に迫られていた。その減免を頼みに行った会長は、米民政府の担当者にこう断ら れた。「あなたの組合はアカを支援している」真栄田さんは辞表を出した。 一片の命令が、生活を支配する。やがて命令に書かれていないことまでその意図 はじわりと浸透し、広がっていく。 米軍用地も首相が確保? 有事関連法案が掲げる新たな制度のひとつに、「有事」での首相への権限集中が ある。今の自衛隊法では、防衛庁長官らの要請で、保管・業務従事命令を出したり、 部隊展開や陣地構築で自衛隊に民有地などを使用させたりする手続きは、都道府県 知事の仕事だ。武力攻撃事態法案では、知事が行わなければ、首相が代わって命令 することになる。 自衛隊法改正案では、陣地構築で樹木をどかし、家を壊すことも許される。事前 に土地、家屋の状態を調べる「立ち入り検査」を所有者が拒めば罰金だ。このこと は米軍への協力でも当てはまるのか。「米軍支援法」の中身は見えないが、川口順 子外相は先月の衆院特別委員会でこう答弁した。「日本政府が米軍へ、隣地として 使用される施設・区域をより迅速に提供できるような、あるいは緊急通行について も検討していく必要がある」つまり、米軍がどこかの民有地に陣地や兵器を置きた いと言えば、日本政府が用地を確保し、提供する可能性があるというわけだ。 復帰前の沖縄では、米民政府の出す布告・布令が、琉球政府の法令の上に存在し ていた。土地接収も布令に基づくものだった。法案が想定する「有事」では、最終 的に首相が米軍のための土地確保まで行うことになりかねない。 |
安価な合理化 費用は日本へ押し付け 米海兵隊員らによる暴行事件の後、96年に日米両政府は普天間の移穀・返還 に合意したが、当時の米軍関係者によると、そのとき沖縄の海兵隊司令部が代替 基地として最初に検討したのが、やはり60年代に辺野古で計画した埋め立て飛 行場案だった。「現在の晋天間をそのまま移設するにはそれだけの規模が必要と 考えた」と関係者はいう。 だが構想は、軍港も併設する大規模なものだ。日本政府にも打診されたが、暴 行事件への怒りが渦巻く中でのめる案ではなかった。基地の規模を縮小して移転 する協議が進められたが、地理的条件や過去の米軍案も考慮して、場所は辺野古 が選ばれた。日米関係に詳しい我部政明・琉球大教授(国際政治学)は言う。 「28年の日米協議で、本土での米軍基地統合を日本側負担で行うことが合意 されて以後、米国は基地機能の効率化や施設更新の費用を日本に出させようと画 策してきた」 99年8月に米国務省が国防省や中央情報局(CTA)にあてた「復帰後の沖 縄における日本の防衛負担」と題する極秘文書などにも、沖縄の基地を返還する 代わりに新たな基地建設の費用を日本に出すよう求めることが勧告として示され ている。 基地にかかわる米国の対日交渉には、金をかけずに合理化をもくろむ意図が反 映されている。晋天間の代替基地は、稲嶺恵一・沖縄県知事が民間空港の機能を 加えるよう求めたことで、当初より大きい2千メートル滑走路が政府案として示 された。基地の全長は2600メートルに及ぶ。このままだと、かつて米軍が構 想したような巨大基地が、日本の予算で建設されることになる。 |
有事の現実 沖縄から 拒んだ業者に懲役・罰金 広大な軍事基地を抱えた沖縄の人々は、ベトナム戦争時、法の強制こそなかっ たが、米軍の要請から逃れられない状態に置かれた。今国会に提案された有事関 連法案ではどうか。ある国が日本攻撃に備えて部隊集結を始めたとする。政府が 「武力攻撃のおそれがある」と認めれば、国会承認を経て自衛隊に防衛出動を命 令、日本は「戦時」に入る。そうなれば食料、燃料などを扱う業者に保管を命令 でき、違反すれば6カ月以下の懲役か28万円以下の罰金だ。 病院や土木・建築業者、輸送業者らに、戦闘を支えるための業務従事命令が出 される。罰則はないが拒めば違法行為になる。例えば、輸送業者の社員が会社を 通じた命令を拒めば、解雇されないとも限らない。活動場所も「後方地域」とな ってはいるが、ベトナムの港で揚陸艦が砲撃に遭遇したように、戦闘地域との境 界は微妙だ。 武力攻撃事態法案は、自衛隊だけでなく米軍への協力を掲げる。それは、政府 が攻撃の可能性が高いと判断した「武力攻撃が予測される事態」で開始されるが、 中身は2年以内につくられるという「米軍支援法」で初めて具体化する。ベトナ ム戦争のように米軍が別の国の紛争に介入し、それが引き金となり「攻撃予測事 態」につながる可能性もないとは言えない。 ****************************** 日常変えた戦時協力 沖縄が日本に復帰する前、まだ米軍統治下にあったころの話だ。60年代前半、 その沖縄から約3千キロ離れたベトナムで、米国は戦争を始めた。沖縄県浦添市 の垣花静枝さん(76)には、忘れられない風景がある。市内にある米軍牧港補 給地区は、壊れた戦車や車両を修理して、再び戦場に送る流れ作業の場になった。 泥とさびに覆われた鉄の塊が、広場に積み上がっていた。めくれ上がった鋼板、 ちぎれたキャタピラー。米軍に雇われた沖縄の民間人が土を洗い流し、分解し、 さびを落とす。垣花さんは、同補給基地の診療所で看護師をしていた。やけどや 骨折など、1日平均10人が運び込まれた。ほとんどが、沖縄人従業員だった。 すべての建物に3けたの番号がついていた。 診療所の近くに、人が近づかない「100番」の建屋があった。そこで、義父 は働いていた。戦死した米兵が運び込まれる。洗浄し、内臓を摘出し、綿を詰め る。軍医が縫合し、番号のついた棚に収める。遺体は米本国に送られ、内臓は海 に捨てられた。当時、沖縄の軍雇用員は3万人を超した。ベトナム戦争で市民が 「有事」に巻き込まれた。 2段ベッドに寝ころんでいると突然、灯が消えた。船室が音を立てて震えた。 100メートル先で、火柱が何本も上がった。99年の秋、元船員(60)の乗 った揚陸艦がベトナム・ダナン港に入った時のことだ。隣の弾薬運搬船が迫撃砲 の直筆を受けた。空から鉄片が降り注いでくる。甲板にカラカラと音を立てる。 係留のワイヤをおのでたたき切り、仲へ走った。翌朝、積み荷を見ると、不発弾 が2発めり込んでいた。民間人なのに、気がつくとベトナム戦争のまっただ中に いた。 元船員が、横浜の「極東地区軍事海上輸送サービス」を訪れたのは、その4年 前のことだ。「仕事は軍事物資の輸送です。行く先は東南アジア全般」。新聞の 求人広告に載っていた。国内で弾薬や車両を積み、ベトナムへ向かう。1年後、 揚陸艦ごと砂浜に乗り上げ、戦車を上陸させる仕事が加わった。 「自分から戦場に出向いたのではない。前線はむこうからやってきた」。今、那 覇市に住む元船員は言う。那覇軍港で航海士をしていた同市の福嶺博市さん(9 9)も当時、米軍の命令でタグボートに乗り、故障船を引いてベトナムに行き来 した。沖縄近海に、期限切れ弾薬の投棄もした。断れば、解雇されただろう。 「協力するのが当たり前という雰囲気になるのが怖い。ましてや、法律で命令さ れたら…」 沖縄本島中部の嘉手納弾薬庫には、土が盛られた2重ゲートの倉庫があった。 周囲にはヤギが飼育され、時折、がいこつマークのトレーラーが出入りした。 「あれは、毒ガス貯蔵施設だった」。ベトナム戦争時、基地でトレーラーの配車 係をした津嘉山寛善さん62は、自分の目で見た。医業品、テント、ミサイル… 戦争に必要なあらゆる物資が輸送され、1号線(現国道28号)は常に渋滞した。 そして、2001年9月11日。米国での同時多発テロ。その直後沖縄の米軍基地 は警戒レベルを最高の「デルタ」に設定した。 取材記者に銃が向けられ、検問で渋滞が起きた。観光客が減り、年間失業率は 過去最高に。「地球の裏側でテロが起き、沖縄はー瞬で変わった。(有事法制が 成立すれば)それが、何倍にもなって日常化するのでは」。那覇市議会の高里鈴 代副議長は、恐怖を感じている。 2002年6月3日までに、同市議会や沖縄市議会などで「有事関連法案の慎 重審議を求める意見書」が全会一致で可決された。 |
「米主導」許す あいまい基準 外岡 秀俊 有事法制は苦手、という人が多いだろう。戦後安保体制に重大な改変をもたら す法案なのに、国会の論議は抽象的で、雲をつかむようだ。何が起こるのかを考 えるうえで最適のモデルがある。復帰前の沖縄だ。 現憲法下では、さずがに戦前のような軍国主義の暴走は想像しにくい。だが限 りなく憲法が空洞化し、米軍の主導権が強大になれば、それは米軍政下の沖縄に 似てくる。有事法制は、平たくいえば戦時に備えるマニュアルである。いざとい う場合に備え、自衛隊と米軍が円滑な作戦行動をとれるよう、関連法規を整理す るのは当然だ。そう政府は主張する。 論法はわかりやすい。だが法案は極めてわかりにくい。最も重要な米軍の役割 を、正面から論じていないためだ。有事法制が発動される条件のーつに「武力攻 撃が予測される事態」がある。政府は、この「予測される事態」と、自衛隊が米 軍を後方支援する「周辺事態」が併存ずるという。近隣の紛争に備える周辺事態 法で、国は自治体に協力要請しかできない。米軍への武器・弾薬の提供もできな い。だが同じ事態がひとたび「予測される事態」と認定されれば、政府は自衛隊 への協力などを自治体に指示し、応じない場合には代執行できる。 日銀やNHKなど指定公共機関も「必要な措置を実施する責務」を負う。「有 事というものは周辺事態ー予測される事態ーおそれのある事態ー武力攻撃の順に 発生する。日本の領域から遠いほど米軍の防衛・情報網が自衛隊を上回る」と我 部政明・琉球大教授はいう。 有事の認定があいまいなら、日本は米国の情勢判断と行動に引きずられ、「周 辺事態」から切れ目なしに対米支援を深め、官民を動員することになる。つまり、 事実上米軍が日本の有事認定の決定権を握ることになりかねないのだ。 問題はもうーつある。法案は、国への権限集中を強める枠組みだけを作り、米 軍支援の法整備は、私権制限の内容とともに先送りした。「有事」の際は、米軍 の行動によっても、私権は制限されるのだろうか。 日米地位協定では、米軍に国内法順守の義務はない。だが米軍の行動で私権が 制限される場合、意味は格段に重い。協定を見直し、米軍の行動を国内法とすり 合わせる必要があるだろう。米単独の有事モデルは、27年間、米軍政下の沖縄 に見いだせる。米民政府は琉球政府の上に立ち、職員の罷免や、布令布告の制定 権など絶大な権限を握った。軍事最優先の有事体制が沖縄で日常化していた。 冷戦が深刻化した50年代には、厳しい思想・言論統制や、強引な土地接収が 行われた。ベトナム戦争特には、米軍の後方支援に多くの市民が組み込まれた。 復帰前の沖縄に憲法は適用されず、基本的人権も保障されなかった。日本が、当 時の仲縄に近づくとは考えたくない。だが「憲法下でこんなことは起きない」と 断言できるだろうか。政府のあいまいな答弁を聞いていると疑念は深まる。 沖縄の人々が卷き込まれた「有事」を見詰めることで、抽象論を肉付けし、地に 足のついた議論を重ねたい。 |
また海幕の現場独走 米軍の指揮下容認 米に注意喚起、確信犯か また海幕の現場独走疑惑である。小泉政権は「憲法の枠内」といってテロ対策特 措法を成立させ、海目艦を戦時のインド洋やペルシャ湾に派遣した。が、遠く離れ た協力支援現場で、憲法9条は軽んじられていた。 政府は過去、部隊の指揮の問題に配慮してきた。97年9月の日米防衛協力のため の指針では、「日米共同調整所」を準備し、共通の常設司令塔を持たせた。たとえ 周辺事態であっても日本が共同指摘に確実に参画することを担保する仕組みだ。 集団的自衛権行使の回避が念頭にあった。だが、テロ対策特措法では共同指揮所は 設定されていない。局長級の調整委員会を頂点こする調整枠組みがあるが、調整委 は昨年11月以来、計3回開かれただけ。現場から戦術指揮統制問題が提起された形 跡はない。 同枠組みでは、反テロ戦争を指揮統制する米中央軍との戦術調整はほとんど制服 組に任せているのが実態ではないか。そもそもこの仕組みに欠陥がある。インド洋 やペルシャ湾での自衛隊と米軍の共同作戦の具体的な中身に、文民統制の目は届き そうもない。 海自派遣チームが「政治的に公言できない」と米海軍の注意を喚起していたことも 重大だ。問題性を承知の上の確信犯だった疑いが濃い。一方、集団的自衛権を正面 切って行使したい立場からの批判もある。昨年11月の参院外交防衛委員会。空自出 身の田村秀昭氏(自由党)が「米軍の指揮下に入らなかったら戦争にならない」と問 い、陸自出身の中谷元・防衛庁長官は「軍事行動する場合はそれが常識論だ。今回 は調整型で各国それぞれ独自の支援をしている」と答えた。 確かにバーレーンの打ち合わせで米側は「調整過程等で米軍側の要請を断るのは 全く問題ない」と説明した。だが、部隊が具体的行動に入る戦術局面で要請を断れ ば作戦自体が混乱してしまう。海幕の現場独走疑惑は、空母護衛艦隊派遣をめざし た昨年秋の対米・対政界工作、イージス艦などのインド洋派遣を日本側に要請する よう促した今年4月の対米海軍工作に続き3件目。行き過ぎた政治的言動に走る一部 の制服組に対し、政府や国会は文民統制を徹底させる必要がある。 |
戦後直ちに再軍備 NHKスペシャルの番組で、米軍の強力な肝いりによる日米共同の「軍備再 建」の経緯が紹介された。これまで秘密資料とされて居り、海上幕僚庁内の金 庫に隠されていた「軍備再建に関する資料」を、NHKが閲覧する事が出来た のだ。戦後日本は全ての軍事力を放棄させられ、米国押し付けの平和憲法で将 来の軍備も棄てたのに。朝鮮動乱が警察予備隊発足に効果を発揮したのは衆知 だが、早い時期から旧日本軍関係者と米国の間で、精力的な「日本海軍再建計 画」が行われていたそうだ。日米合同のこの組織は「Y委員会」と呼ばれた。 軍備再建は名称に気を遣って、「海上警備隊」と云う名称を使用する予定だ った。当初は旧軍幹部の登用を忌避していたが、計画が進むに連れて公職追放 令を解除してまで「有能な旧軍幹部」を集めるようになった。「旧海軍残務処 理委員会」が計画に加わっていた為、軍幹部の消息は完全に把握して居り、人 物評価も容易に為し得た。 これも計画に参加していた海上保安庁は、旧海軍の突出を嫌って新組織は海 保の下に入る事を提言したが、新組織「海上警備隊」は独立組織となった。海 上保安庁は新組織の位置付けを、「飽くまでも海上警察力の増強」と主張した が、結局は米国の望み通りに「実質的に軍隊」となった事は言うまでも無い。 海上保安予備隊との名称も考えられたが、米側はこの名称を嫌ったそうだ。 米国の「強い要請」で参加した朝鮮動乱への支援では、海保は38度線を遥 かに越える海域でも作業に従事した。海保から43隻が出て、触雷で1隻が沈 没して死者1名、20名近くが重軽傷を負った。米国は掃海作業続行を「厳命」 したが、海保は作業を切り上げて帰還した。 我が国は戦後間も無く米国に押し付けられた矛盾な憲法で、軍備と軍事力行 使を放棄させられたのに、直後に米国の身勝手で「軍備再建」と云う真に説明 の着かない事をさせられた。朝鮮沿岸での掃海作業は参戦以外の何ものでも無 く、番組内でも「戦死」と云う文言を使っていた。2001年9月の米国テロ に関して、積極参加を唱える実社会やネットでの走狗達はこの番組を観て、何 を思ったのだろうか? 番組のナレーターは憲法九条との整合に強い疑問を訴えると共に、現在の海 上自衛隊の在り方にも不信を懷くような語り口であった。曰く、海自の用いる 「君が代」は旧海軍時代の独特なものをその侭使っている。軍艦旗も旧海軍旗 を使い、日常でも旧海軍の仕来たりを受け継いだ部分も多いと語っていた。 私は九条改憲と自主防衛を訴求する立場だが、警察予備隊発足の経緯も考える と、我が国は真に節操無く米国の走狗になる途を驀進してきたものだと思う。 |
C際限無く膨らむ米国の傘へ続く