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rain tree vol.3

<雨の木の下で 3>



パソコン (1997年12月25日) 樋口 俊実

 パソコンが苦手である。アレルギーというほどではないが、あまり積極的に触りたいとは思わない。ワープロなら結構いろんな機能も含めて使いこなしているから、まったくその方面にむいていない訳でもないだろうが、まわりにパソコンの得意なひとが沢山いるので、ついつい、データ処理や表計算などお任せになってしまう。

 パソコンなんて、とそのうちの一人、甘木君が言う。ワープロに毛が生えたようなもんですよ。すると、パソコンの毛を剃れば、ワープロになるのか、と明晰な私は考える。だが、パソコンのいったいどこに毛は生えているのだろうか。キーボードの裏側にか、液晶の中にか。

 というようなろくでもない思いつきが、しばしば私の詩の核になっている。頭の片隅でいつも、パソコンの毛のことを考えていると、万座毛、毛沢東といった地名や人名まで気になってしょうがない。たまたま点いていたテレビの、ケアンズでは、というレポーターの声が、毛杏では、と聴こえてしまう。毛の生えた杏。暗い冷蔵庫の野菜室の奥深く忘れ去られ、梅雨どきの一ヶ月を耐え抜いた、百戦錬磨、かびだらけの杏。

 そういえば、「けだものの毛くだものの毛ももの毛ものの毛」という一行が、那珂太郎の詩にあったなと思い出す。

 聴いているんですか、と私は少し詰問口調で問われる。ごめん、ちょっと考え事をしてて。ところで、甘木君、パソコンに毛が生えるとしたら、どこに生えるかな。

 大丈夫ですか、樋口さん。

 いつもと変わりないという意味においては、大丈夫。いい大人が脳味噌を使うようなことだろうかという意味においては、あまり大丈夫ではない。

「けだものの毛・・・」 那珂太郎詩集(思潮社現代詩文庫)『音楽』より「<毛>のモチイフによる或る展覧会のためのエスキス」)





「月の家族」の少年 (1998年1月25日) 関 富士子

 シンゾちゃんは偉かった。立派だ。
 小説『死の棘』を読んで気になっていたのは、大人たちの不毛ないさかいの陰でただふるえている、二人の子どもたちのことだった。「シンゾちゃん」とは、島尾敏雄、ミホ夫妻の息子、島尾伸三氏。

 わたしも十代のころ、家に精神を病んだ叔母が同居していたが、その刻々と変わる躁鬱の大波に翻弄され、家族は疲労困憊した。これが母親ではたまらない。小説家の父親はまるで頼りにならない。妹のマヤちゃんは失語症になってしまう。シンゾちゃんはその後どうしただろう。

 という勝手な心配もなんのその、彼は理不尽な少年時代を見事に生き抜いていた。
 島尾一家は、母の故郷、奄美大島に渡り、小学生のシンゾちゃんと妹は、一時母の叔父の家に預けられる。おじいさんの大切なガラスのペン先を折ってしまうが、優しいおじいさんは叱らない。シンゾちゃんは決意する。
「これから知り合う人のいらなくなった物を、その人の思い出にとっておこう」

 彼はわたしと同世代だから、エッセイ『月の家族』(晶文社刊)の舞台は昭和三十年代か。いかにも無力のように見えた子どもは、度し難い両親の言動に悩まされながらも、生きるための力となるものを日々着実にたくわえていた。

 それは、塗り薬の空のチューブや、アイスの棒や、錆びたロザリオ、焼けこげた赤マントの切れ端などだが、これらのコレクションと、それにかかわるさまざまな人々が彼を育てたといってもよいだろう。

 マッチ箱のラベルや古切手の絵が楽しい。筆者の語り口がすばらしい。やわらかい、しかし強く率直な文体である。少年らしく物に寄り添いながら、その時代も風土も、持ち主である人間もその発した言葉も、彼らへの憎しみも愛も喜びも、公平にていねいに収集して忘れない。

 しかし、何といっても彼の収集品の最高のものは、妻、登久子さんの足の親指の爪だろう。「大好きな登久子さん」「優しい登久子さん」との出会いによって、シンゾちゃんはほんとうの母と幸せな家庭を得たのだ。
 彼がついに少年のままであっても、それでよいのである。


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