チベットとはなにか
チベットの建国と再統一(1999.07.14修正)

 チベット民族は、「天竺 (=インド)」と「 支那」の中間、南はヒマラヤ山麓から北は祁連山脈にいたる広大な地域に居住しています。
 チベットの実質的な建国は、七世紀前半、ソンツェンガンポ王の時代です。中国からは吐蕃とよばれたこの王朝の二世紀あまりにわたる統治を経て、チベット高原の住民たちは一つの国民としての一体感を持つようになりました。
 吐蕃王朝の崩壊以後チベットではながい分裂状態が続きましたが、十七世紀半ば、ダライラマを信仰するモンゴル人グシ=ハンにより、再びチベットの大部分が統合されます。グシ=ハンは配下のホショト部族を率いて各地を平定し、征服地のうち、チベットの政治・経済・文化の中核地帯であるヤルンツァンポ河流域をダライラマ領として寄進し、残る各地の領主たちを貢納民として自分の子孫に分配して従属させました。ダライラマの位置づけが、ゲルク派という一宗派の有力聖職者からチベット仏教圏随一の宗教的権威へと飛躍するのもこの王朝の時代です。
 このサイトでは、吐蕃王朝やグシ=ハン王朝によって統合された領域に該当する地域をチベットと呼び、この地域の歴史に関する情報を収集、提示して行きます。

「西蔵地方」の成立(1999.07.14修正・2008.04.01再修正)

 「西蔵」は、上記チベットの領域のうち、西南の三分の一程を占める地域に対する中国語の呼称です。
 1723-24年、清国はグシ=ハン一族の内紛に乗じ、青海湖畔を主たる根拠地としていたホショト部族を征服し、グシ=ハン王朝のチベット統治は終焉を迎えます。戦後処理の一環として、グシ=ハン一族の属領は1725年に解体され、ホショト部とその南方の遊牧民が居住する青海湖の西方・南方の草原地帯に「青海」地方が設けられたほか、残る各地は隣接する清国の各省とダライラマ領との間で分配されました。青海地方ではグシ=ハン一族とホショト部族が「 盟旗制 」によって三十の「」に再編され、甘粛・四川・雲南等の諸省に分属した地域では、土着の領主たちが、各省の長官(=総督・巡撫)を通じて皇帝より武官の称号(= 土司 )を授けられ、引き続き先祖伝来の領地を統治し続けました。
 「西蔵」という地名は、すでに十七世紀後半からチベットの一角を指す呼称として用いられはじめていましたが、この分割以後は、1959年まで、チベットのうちダライラマ領に属する地域を指す名称として用いられました。ダライラマ領と、清国や中華民国の直接支配地域との境界はしばしば移動しましたが、中華人民共和国の現行の行政区画の境界は1725年の分割の境界をほぼ踏襲したものになっています。
 このサイトでは、情報収集の対象とする時代と地域を「西蔵」だけには限定しておりません。こんにち「西蔵」のみを指して「チベット」と呼ぶ人々もありますが、本サイトでは両者の混同を避けるため、 チベット全土に対する漢字表記としては「土伯特」を採用し、サイトの中国語名を「土伯特史情報室」とします。
 「土伯特」は、満洲語(清朝の第一公用語)によるチベットの呼称「tubet」を漢字で音写した表記で、清代の漢籍中によく見られる表記です。
 チベット人自身による国土の区分については「チベット地理用語」「チベットの国土」を参照

 「チベット歴史地理概説」も参照

 
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