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              タロットカードに学ぶ人生の苦難の解決法(『死神』)

 第15番目『死神』The Death

 絵柄解説
 死神が鎌を振りかざし、人間を切り裂いている。このカードは、物質的な愛着を断ち切ることにより、偽りの自己を死滅させ、真実の霊的自己を目覚めさせるプロセスを示している。
 死神は不気味な姿ではあるが、どことなく滑稽な雰囲気も漂っている。これは、空虚な物質的事物を、価値あるものとしてしがみついている人間への痛烈な皮肉なのである。私たちは、ブランドの服や装飾品、高級車、肩書などを身にまとい、自分は偉大ですばらしいのだという夢を見る。それはまさに死神が、もう死んでいるのだから必要ないはずのおおげさな武装をして、誇らしげに白馬にまたがっている滑稽な姿として象徴されている。
 死神は、そうした偽りの自己を容赦なく切り捨てる。人はそのたびに、愛着していたものを失って悲嘆にくれる。自己愛を満たしてくれた金も財産も、肩書も愛する人も、すべてを失うのだ。そして、今まで愛だと思っていたものが単なる所有欲にすぎず、自分がいかにむなしい存在だったかを思い知らされることになる。
 しかし、そうした辛い試練の果てに、真実の霊的自己が誕生する。その人はもう、空虚な鎖で身を隠す必要はない。いかなる装飾品の輝きよりも明るく、自分そのものが輝いているからである。

 エゴの「幸運」は魂の「不運」
 一般的な占いの解釈では、愛するものを失う/死別/喪失/不幸や悲しみといった運命を暗示しています。たとえ現象的にはそうであっても、このカードが最終的に示している未来は、光り輝く幸運なのです。
 死神とは、「エゴ」のことです。エゴは知性が作り出した虚構の自我であり(それゆえに鎌をもってすべてを分断しようとする)、エゴで生きている人は、本当の意味で生きているとはいえないのです。彼らはエゴが暗示する役割を「演じている」にすぎません。「生きている」のではないのです。しかし現実には、多くの人が本当の自分の人生を生きているのではなく、エゴが規定した虚構の人間を演じながら人生を送っているにすぎないのです。
 もっとも、そのことによって、世間的な名声欲や物質的な欲望などは満たされるかもしれません。けれども、それはどこか空虚なものを常に残すのです。満たされるのはエゴだけであり、本当の自分を満たしてくれる要素ではないからです。
 いくらエゴが満たされても、心が空虚であれば、それは決して「幸運」とはいえないでしょう。エゴが満たされるほど、実は本当の自分が、仮にそれを魂と呼ぶならば、魂は空しくなっていくものなのです。エゴが満たされるとき、世間は「幸運」と呼ぶかも知れませんが、魂にとっては「不運」なのです。
 なぜなら、エゴは知性であり、それゆえに「分離」であって、他者と隔絶されて孤独になるからです。ところが、魂は生命であり、生命とは、深い層においてすべての生命とひとつにつながっている存在だからです。その意味では、本来、生命は決して孤独ではないのですが、エゴが強まると「孤独感」にさいなまれるのです。そして、孤独感ほど魂(生命)を病ませてしまうものはありません。
 一方、そんなエゴが否定されるような出来事を、私たちは「不運」と呼びます。しかし、エゴという重い鎧を壊され脱落したときに、魂は息を吹き返し、自由になる可能性が出てくるのです。その意味では、実は「不幸」などではなく「幸福」だといえるわけです。もちろん、それは苦痛を伴う辛い経験かもしれませんが、それでも人間の本質から見れば、それは幸運なのです。
 そして、他者との分離をもたらす知性が崩壊し、すべての生命はひとつに結ばれているということが、理屈ではなく感覚的に理解できるようになります。このとき、感謝の気持ちが芽生えてくるのです。なぜなら、感謝とは他者の存在を感じる意識だからです。換言すれば、孤独感から解放されるのです。
 そして、すべての生命がひとつにつながり、共有されているのだとわかると、文字通りの意味において、「死ぬ」ことが恐ろしくなくなってきます。というより、自分という存在は他の生命の中で生き続けることがわかるからです。つまり死というものは実はなく、ただ生命全体における違う側面に移行するだけにすぎないとわかるからです。
 そして、死ぬことが恐ろしくなくなると、人間はあらゆる問題、不運から解放されるのです。なぜなら、エゴとは自己を守ろうとする機械的な反応であり、それがこの世のあらゆる不幸や災難の根源にあるからです。

 死を越えた人生
 死ぬことが恐ろしくなくなると、どんなことも大胆に堂々と挑戦できるようになります。そしてそんな行いこそが、この世のあらゆる成功や幸運の原動力となるのです。
 では、いったいどうすれば、死ぬことが恐ろしくなくなるのでしょうか。
 それは、すべての生命のために、という心があるときに、死ぬことが恐ろしくなくなるのです。生命体は、大胆不敵な冒険の連続によって進化を続けてきました。不運や失敗によって多くの個体の生命は死にましたが、実は全体の生命の中に再び収納されただけで、死んだわけではないのです。そのときに、自分が体験した情報を持ち帰りました。不幸や失敗、苦しみの経験の情報は、全体生命の進化にとって非常に貴重な情報なのです。
 ですから、たとえどんなに不運で苦しい一生であったとしても、その人生には、すべての生命の幸せにとって計り知れない価値をもった情報をもたらすという意味において、すばらしい意義があるのです。
 情熱と真剣さをもって行うならば、何をしようと、そして、それがどのような結果をもたらそうと、その人生は、生命にとっては大成功だったのであり、大勝利だったのです。
 そのように思えば、少しくらいの不運に心を乱したり、あるいはちっぽけな世俗の幸運を得るために、せせこましく生きることなど、まるでつまらないことではないでしょうか。
 人は、愛するもののためならば、しばしば自分の生命さえ惜しくなくなります。
 ところがこのような思いで情熱を燃やしたとき、エゴという障壁が壊れて、全体生命とひとつになるのです。
 全体生命は、いわば生命エネルギーの根源であり、すべての個体生命がもっている情報の貯蔵庫ですから、このような思いで生きる人は、巨大な生命エネルギーと、巨大な叡智の根源につながるのです。
 ですから、「自分よりも他者のために生きる」という人、いわば愛に生きる人は、信じられないようなバイタリティとエネルギーに満たされ、いつまでも若々しく、そしてすばらしい知恵に裏付けられた天才的な活動をするようになるのです。彼(彼女)にとって、「いかにしたら不運を幸運に変えることができるか」なんて、もうどうでもよくなるのです。
 なぜなら、人生の幸運を、「結果」で判断しなくなるからです。
 人生の真の幸運とは、結局のところ、愛を基準にして人生を生きることができるかどうか、ただそれだけにかかっているということが、わかってくるからです。

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