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                     鳥の歌(第5部)

 第5部

 消えた敵の姿
 あくる朝、目を覚まして窓から外をのぞいてみたが、そこに男の姿はなかった。
 しばらくして、また外をのぞいてみたが、まだ姿が見えない。
 おかしい。今まではほんのわずかな時間だって、目の前から姿を消したことなどなかったのに。
 やがて、太陽は真上に昇ったが、なおも男は姿を見せなかった。
 きっと男は、ここから立ち去ったのだと私は思った。
 人間の心を取り戻し、私を見逃してくれたのだと。
 そう考えると、思わず踊りだしたくなるほど、喜びが沸き上がってきた。けれども、すぐに重大な事実を忘れていたことに気がつき、喜びはたちまちしぼんでしまった。
「味方の援軍が来れば私は助かるだろうが、敵の援軍が来たら、殺されてしまうのだ」
 とはいえ、今まではどちらの援軍が来ても殺されてしまう運命だったのだから、それに比べれば、助かる可能性は五分五分になったのだ。それに感謝しなければならないだろう。
「それでも、どうせ見逃してくれるなら、ここから出してくれればよかったのに……」
 そう思いながら、私は格子窓から砂丘の彼方を見つめた。
「敵が来るか、味方がくるか、それで私の運命は決まる……」

 味方がやってくる
 灼熱の太陽の暑さで、少し意識がもうろうとしかけたとき、砂丘の向こうから大勢の人間が歩いてくるのが見えた。軍隊の隊列だった。
「ついに来たぞ! だが、どっちだ。敵か味方か!」
 私は格子と格子の間に顔を押し付けるように、遠くから歩いてくる兵士たちの制服を凝視した。私の視力が制服の特徴を識別できるほど近づいたとき、私は思わず叫び声をあげていた。
「やった! 味方だ! 味方が来たぞ!」
 助かった! 私は牢獄の中で何回も飛び上がって喜んだ。
 だが、次の瞬間、背後でガタンという音が聞こえた。
 びっくりして振り向くと、そこには、姿を消したと思っていた男が、ライフル銃を構えて立っていたのである。
 その眼は、まるで感情のない、殺人機械としての兵士の眼だった。これまでの、あの男の人格は少しも感じられず、人相は別人のように変わっていた。何という冷たい鬼の顔! これが同じ人間の顔とは信じられないくらいだった。
 私はその眼を見て、すべてを放棄しなければならないことを悟った。いかなる懇願をしても、命乞いをしても、決して受け付けることのない、あまりにも冷徹な眼であった。
 男はきわめて穏やかに、だが感情の欠如した口調でいった。
「さあ、おまえの援軍がやってきた。私はおまえを殺さなければならない」
 私は、黙ってうなづき、その場にひざまづいた。
 不思議なもので、死を覚悟してしまうと、心は少しも波打つことなく静まりかえり、恐怖もなく、どこまでも透明にすみきっていくのが感じられた。
「最後に、何かいっておきたいことはあるか?」
 男がそう尋ねた。
「たったひとつだけある。僕は君に嘘をついていた。そのことをあやまりたい。僕の妻は戦争で殺されたといったけれど、あれは嘘だったんだ。僕は、結婚さえしていないんだ。両親が病気というのも嘘だ。両親はいまだに健在だ……。君をだましていた。すまない……」
「……そうか」
 男は静かにうなづくと、ライフルの銃口を私の額に向けた。
 そして、ゆっくりと、引き金を引き始めた。
 きわめてゆっくりと。
 そのときの時間が、私には永遠のように長く感じられた。
 ところが、あと少しで銃口から火が吹くという寸前のところで、引き金を引く指の動きが止まった。
「なにをしているんだ。ひと思いに早くやってくれ!」
 私は息を止めながら心の中で叫んだ。
 パーン!
 銃声が聞こえたかと思うと、目の前のライフルが床に落ちた。そして、男はうつぶせに倒れた。
「助けに来たぞ! もう大丈夫だ」
 援軍の兵士がやってきて、背後から男を撃ったのだ。
 兵士たちは、まるで石ころでも蹴飛ばすように、死んだ男の脇腹を蹴飛ばして仰向けにした。男は片手にオカリナを握り締めていた。兵士のひとりがそれをもぎとると、あざけりの笑みを浮かべて、床に放り投げた。
「妙だなあ」。別の兵士が男のライフル銃を調べていった。
「どうした?」
「軍曹、銃に弾丸が入っていないんですよ」
「ふん、どうせ、こめるのを忘れたんだろう、マヌケな兵隊だぜ」
 後の調査で判明したことだが、この場所からかなり離れた井戸の中に、大量の弾丸が捨ててあったという。男の行方がわからなくなったあの日、おそらく彼は、まだ自らの人間性が残っている間に、半日かけて弾丸を捨てにいったのだと、私は思った。自分の中に宿る兵士の人格が現れても、人を殺さなくてすむように。
 けれども、男は結局、引き金を引くことはなかった。どのみち私は助かる運命にあったのだ。どうして男は、引き金を引かなかったのだろう。
 理由はわからないが、私はそのことを、彼の内的な勝利の結果であると信じたい。

 飛び立つ二羽の鳥
 まもなくして、戦争は一応の集結を迎えた。
 私は再び、町医者として働き始めた。まもなく、ふとしたことで恋人ができ、結婚した。
 そして、あの日から、一年ほどたった秋の日に、私は妻と、あの男の故郷へ旅行に出かけた。自然、町並み、そして人々、すべてが美しく、すべてが平和だった。
 私と妻は、古びた教会の裏にある、男が眠っている墓地を訪ねた。
 小さな木の下の、彼が愛した妻の墓石の隣に、男は眠っていた。
 私は懐から、男が最後まで握りしめていたオカリナを取り出し、墓石の前に置いた。
そのとき、頭の上から鳥の鳴き声が聞こえた。
 見ると、木の枝に一羽の鳥がとまっていた。鳥と私は、お互いにしばらく見つめ合った。横にいた妻がいった。
「ねえ、知ってる? あの鳥は、ピース、ピースって鳴いてるんですって」
「ああ、知ってるよ」
 すると、鳥がもう一羽やってきて枝に止まり、二羽の鳥は身を寄せ合うようにして私たちを見つめた。やがてまもなく、二羽の鳥は、一緒に飛び立っていった。
「ねえ、私たちも行きましょうよ」
 私と妻は腕を組みながら、墓地をあとに歩き始めた。
 再び空を仰ぐと、美しい夕陽を背景にして、あの二羽の鳥が、どこまでも、どこまでも、空高く舞い上がっていくのが見えた。
   
  おわり

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