五行推命学研究所
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■五行学歴史年表・日本篇(1)  古代(紀元前後) ~ 平安時代(1189年)
2009/01/24更新

 西暦  
年号
干支
出来事




BC
紀元前後 弥生時代
中後期
  ○「大湯環状列石(通称:ストーンサークル)」が、秋田県大湯に構築される。
秋田県鹿角市十和田大湯。年代:BC2000年~BC900年?

○奈良唐古・鍵遺跡から勾玉納めた薬箱が出土。→陰陽五行の四色の勾玉があり、この事から弥生人が古代中国の陰陽五行思想を熟知していたのではとされている。
BC1世紀頃     ○邪馬台国で鬼道が行われていたようである。(道教呪術?)
AD

 
239 (神功皇后)39 己未 ○邪馬台国女王卑弥呼魏の国に使いを遣わす。(魏史倭人伝)
248 (神功皇后)48 戊辰 ○この頃、卑弥呼死ぬ。径百歩の塚がつくられる。(魏史倭人伝)
285 (応神)16 乙巳 ○百済の王仁(わに)、日本に論語・千字文を伝える。







 
350 (仁徳)38 庚戌 ○大和朝廷の全国統一すすむ。
372 (仁徳)60 壬申 ○百済から「七枝刀」が贈られ、中国の年号が記されている。
438 (允恭)27 戊寅 ○日本最古とされる紀年銘のある太刀が作られる。
 →熊本県江田船山古墳出土。
513 (継体)7 癸巳 ○百済から五経博士・段楊爾が来日する。(『日本書記』)
552 (欽明)13 壬申 ○崇仏論争で内戦に発展する→蘇我と物部との宗教的対立。崇仏派の蘇我が勝利し仏教が日本に国家的に定着する。
553 (欽明)14 癸酉 ○6月、百済に易・医・暦博士を替えて、暦本・卜書・薬物等を求める。 (『日本書記』) 「暦」の字が日本の記録文献の中で最初に現れた記事となる。
554 (欽明)15 甲戌 ○暦博士・固徳王保孫が、百済より来日する。 (『日本書記』) →暦法の伝来。
 6世紀     ○<陰陽道>伝来
 聖徳太子、天武天皇らは陰陽道をよく利用していたようです。道教の呪術も陰陽道の一部として伝来。

○<宿曜道>伝わるが呪術的なものだった。
574 (敏達)3 甲午 ○1月1日、聖徳太子(厩戸皇子)、生れる。(丙寅月/壬戌日
 →
父は橘豊日皇子、母は穴穂部間人皇女。
577 (敏達)6 丁酉 ○<呪禁道>百済より伝来する。 
 道教の呪術部門。呪祖医療の他、漢方医療も行っていたようである。
593 (推古)1 癸丑 ○聖徳太子、摂政となる。
600 (推古)8 庚申 ○第一回遣隋使。
602 (推古)10 壬戌 ○10月、百済の僧・観勒が来日、暦本(元嘉暦?)の他、遁甲・方術・天文・地理等の書を献上する。
 →
渡来帰化人系の学生3~4人を選び、観勒に付き従って習得させる。玉陳には暦法を、大友村主高聡には天文遁甲を、山背臣日立には方術を学ばせる。
603 (推古)11 癸亥 ○12月、冠位十二階を制定。
 →
「始めて冠位を行ふ。大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智、并びに十二階」とあるが、大徳・小徳以下の冠位は 五行説によっている。即ち、「仁」=「木」、「礼」=「火」、「信」=「土」、「義」=「金」、「智」=「水」となっている。
604 (推古)12 甲子 ○4月3日、十七条の憲法制定。
 →六十干支の初め「甲子」の年。陽の極数九に陰の極数八を加えて、十七数にしたとされている。
○元嘉暦の採用、暦日管理の開始(?)
607 (推古)15 丁卯 ○第二回遣隋使(小野妹子)。
 →
隋皇帝煬帝は日本からの国書の文面「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々) の「天子」とう文言に激怒したという。(『隋書』東夷伝倭国伝)
620 (推古)28 庚辰 ○聖徳太子と蘇我馬子が共に議りて、『天皇記』『国記』『本記』を録す。
※『本記』は『臣連伴造国造百八十部併公民等本記』の略称。読みは“おみむらじとものみやつこくにのみやつこももあまりやそとものをあわせておおみたからどものほんき”
三書とも天皇家にまつわる歴史書とされているが、現存していない。
622 (推古)30 壬午 ○2月22日、聖徳太子、没す。甲辰月/甲戌日
 →
※『日本書紀』では推古29年2月5日没とある。斑鳩宮にあって病に伏していた聖徳太子の平癒を祈っていた妻の膳大郎女が前日に亡くなり、 その後を追うようにして太子が没したとされている。
626 (推古)34 丙戌 ○5月20日、蘇我馬子(嶋大臣)死去。(丙午月/丁未日
 →
蘇我氏の全盛時代を築き、54年もの間、権力の座にあった。石舞台古墳(奈良県明日香村島之庄)は馬子の墓だと目されている。大化の改新で誅された蘇我入鹿の父。
628 (推古)36 戊子 ○3月7日、推古天皇、小墾田宮で崩御。
  (
丙辰月/癸丑日) 享年75歳。
 →
第33代天皇。初めての女帝。諱は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)父は欽明天皇、夫は敏達天皇。されている。大化の改新で誅された蘇我入鹿の父。
632 (舒明)4 壬辰 ○8月、僧が犬上御田鋤の第1回遣唐使に随行して帰国し、仏教・儒学・陰陽五行学・讖緯思想・天文・易学等の諸学を伝える。
 →僧旻は百済からの帰化人で、小野妹子の第1回遣隋使に随行し、24年間隋に留学していた。「旻」との表記が慣用的に長く使われて来たが、現在では墓に縦書きで記載された「日文」を1文字と誤解した結果であり、本名は「日文」であるとされている。
634 (舒明)6 甲午 ○役小角大和国葛城上郡茅原にて生れる。(現・奈良県御所市茅原)現在、生誕地には吉祥草寺が建立されている。※大和高田の奥田生まれとの説もある。
 →修験道の開祖。通称:役行者(えんの行者。神変大菩薩とも。孔雀呪に優れ、鬼神(前鬼・後鬼)を使役したという。
637 (舒明)9 丁酉 ○僧旻が、大きな隕石を「天狗である」と言った記録があり、語彙「天狗」の初出であるとされている。
643 (舒明)2 癸卯 ○11月1日、山背大兄皇子襲撃事件。(甲子月/丙子日
  
『日本書紀』(巻24・皇極紀)
 →
蘇我入鹿が、巨勢徳太臣、土師娑婆に斑鳩宮の山背大兄皇子襲撃を命じる。

○11月11日、山背大兄皇子一族自害。  (甲子月/丙戌日)
 『上宮聖徳太子伝補闕記』 ※『上宮聖徳法王帝説』では10月14日とする。
 
斑鳩宮を出て生駒山に逃れていた山背大兄王一族は、下山して斑鳩寺に入り、一族もろともに首をくくって自害する。ここに上宮王家(聖徳太子一族)は、滅亡する。この事件は“上宮王家の悲劇”と言われ、後々まで語り継がれた。墓地は正式には不詳だが、法輪寺近郊の小山「岡の原」が山背大兄王の墓であるとの伝承あり。

 <捨身飼虎>(自己犠牲の仏教思想)
 自決前に山背大兄王が語ったとされる言葉はこの思想を体現したものであった。「吾起兵伐入鹿者、其勝定之。然由一身之故、不欲傷殘百姓。是以吾之一身、賜於入鹿」『日本書紀』(巻24皇極紀)「われ兵を起こして入鹿を討たんとすれば、それ勝つこと之をかならせん。しかるに一身の故によって、百姓(ひゃくせい)を傷つけそこなうを欲せず。これを以って、わが一身を入鹿に賜わん。」
645 大化1
(皇極)4
乙巳 ○6月12日午前、乙巳の変/大化の改新。
   【
乙巳年/癸未月/戊申日/丁巳刻
 →中大兄皇子と中臣鎌足が宮中(飛鳥板蓋宮大極殿)にて蘇我入鹿を暗殺。

○6月13日、蘇我本宗家は滅亡。
 →
入鹿の父の蘇我蝦夷も甘橿丘にあった自らの大邸宅に火を放ち自害。これによって半世紀・4代に渡って権力を握って来た蘇我氏本家は滅亡することになる。

○年号「大化」が、日本最初の正式な年号として制定される。

○阿倍家太祖・阿倍倉梯麿、初代の左大臣となる。(安倍晴明の祖)

○高向玄理・僧旻が国博士となる。
650 白雉1 庚戌 ○「大化」から「白雉」に年号が改まる。日本で最初の「改元」となる。
653 白雉4 癸丑 ○6月、僧旻が病没。
660 (斉明)6 庚申 ○5月、皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)、初めて飛鳥漏刻(水時計)を造らせる。(『日本書記』
670 (天智)9 庚午 ○帰化人により初の属星祭が行われた。
○戸籍(庚午年籍/
こうごねんじゃく
671 (天智)10 辛未 ○4月25日、天智天皇が、初めて漏刻(水時計)を使用する。
 →漏刻台を設置。大津京において漏刻を使って時報が行われる。

○役小角、山上にて蔵王権現を感得する(当時三十八歳)
672 (天武)1 壬申 壬申の乱が起こる。飛鳥浄御原宮に遷都。

○6月24日夜半、天武天皇は陰陽道を用い、自ら式占で占い、勝利を予告した記録(六壬占)がある。天武帝は陰陽道の術に長けていたと記録されている。(※『日本書紀』巻28 天武紀・上に「能天文遁甲」とある)
  →
この日の干支は「壬申年/丁未月/甲申日」。
 「将及横河、有黒雲、広十余丈経天。時天皇異之、則挙燭親秉式、占曰、天下両分之祥也。然朕遂得天下歟。即急行到伊賀郡…」(『日本書紀』巻28 天武紀・上)※「式(ちょく)を秉(と)りて、占って曰く…」とある「式」とは六壬式占(ちょくせん)のこととされる。
675 (天武)4 乙亥 ○1月1日、『日本書紀』に「陰陽寮」の語が初見。「四年春正月、丙午朔、大學寮諸學生、陰陽寮、外藥寮及舍衛女、墮羅女、百濟王-善光、新羅仕丁等、捧藥及珍異等物進。」(※『日本書紀』巻第二十九 天武天皇下)
 ◆<陰陽寮の構成>
 陰陽頭(行政)、天文博士(天変)、暦博士(科学)、漏刻博士(水時計)、陰陽博士(占い)他、研究生などで各部門が構成されている。

○1月5日、天武天皇、日本初の天文台である占星台を置く。
 (
戊寅月/庚戌日
677 (天武)6 丁丑 ○占星台が造られる。
686 (天武)15 丙戌 ○日本で暦法計算開始(?)
690 (持統)4 庚寅 ○賀茂役君小角活躍。<修験道>を作る。
○元嘉暦と儀鳳暦(中国の麟徳暦)を併用する。
691 (持統)5 辛卯 ○10月、藤原宮造成が開始。造営地選定に風水思想が用いられる。
695 (持統)9 乙未 ○吉備真備、生れる。
 →奈良時代の公卿、学者。入唐し陰陽道の基礎を作る。
697 (持統)11 丁酉 ○元嘉暦を廃して儀鳳暦を採用。
698 (文武)2 戊戌 ○10月3日庚寅、薬師寺の造営がほぼ終わり、僧達を住まわせる。(※『続日本紀/巻第一』
699 (文武)3 己亥 ○5月24日、役小角、伊豆へ配流さる。(庚午月/丁丑日)
 →
妖言を以って民衆を惑わしたとの讒言により伊豆流罪となる。※讒言者は『日本霊異記』では一言主命だともされる。
 ◆出典:『続日本紀』(巻第1)「丁丑、役君小角流于伊豆嶋。初小角住於葛木山、以呪術称。外従五位下韓国連広足師焉。 後害其能、讒以妖惑。故配遠処。世相伝云、小角能役使鬼神、汲水採薪。若不用命、即以呪縛之。」
701 大宝1 辛丑 ○年号を「大宝」に改める。
○大宝律令(陰陽道の国家独占) 施行は翌年。
 →<陰陽道の国家独占>
 陰陽頭・陰陽師・陰陽博士・暦博士・天文博士・漏剋博士。
○役小角、死去。母と共に昇天し、後大唐に渡ったともいわれる。享年68歳。
707 慶雲4 丁未 ○5月28日、遣新羅使・学問僧ら帰国。
 →この中に学問僧義法なる者あり。義法は占術をよくしたことから、和銅7年3月に還俗させられている。更に、養老5年正月に陰陽として賞され、天平2年3月には、弟子をとって業を伝えたとされる。
708 和銅1 戊申 ○2月15日、平城遷都の詔。 (乙卯月/戊寅日)
 →
遷都にあたり、「日を揆(はか)り、星を瞻(み)て」「世を卜(うらな)い、土を相(み)て」「亀筮並びて従う」「四禽図に叶い」など、時期と場所の選定に際し、占卜・相地・亀筮・四神相応思想などが用いられたことが分かる。
 ◆出典:『続日本紀』(巻第4)「…往古已降、至于近代、揆日瞻星、起宮室之基、卜世相土、建帝王之邑。……方今、 平城之地、四禽叶図、三山作鎮、亀筮並従。宜建都邑。…」

○12月5日、平城宮の地鎮祭が行なわれる。(
乙丑月/癸巳日







 
710 和銅3 庚戌 ○3月10日、奈良・平城京に遷都。  (庚辰月/辛酉日
712 和銅5 壬子 ○1月28日、『古事記』完成。太安万侶が元明女帝に献上。(癸卯月/丁酉日
 →天武天皇が壬申の乱後、舎人・稗田阿礼に命じ、諸氏族伝承の『旧事』『帝記』を暗誦させていたが、天武天皇の没後、一時中断していた。この編纂作業を、元明天皇が太安万侶に命じて、稗田阿礼の暗誦を書き記させた。元明天皇の下命から1年後に作業の完成をみて、献上に至る。『古事記』は上中下の3巻よりなる日本最古の歴史書。天地の創世より始まり天孫降臨、天皇では神武天皇から推古天皇までの歴史が記述されている。
714 和銅7 甲寅 ○3月、仏教僧・義法が占術の為に還俗。従五位下を授けられる。
 →
『続日本紀(巻第6)』に「三月丁酉、沙門義法還俗。姓大津連、名意ビ登。授従五位下。為用占術也。」とある。 (※ビ→正字は田+比、「意ビ登」は“おびと”と読む)
717 霊亀3
養老1
丁巳 ○吉備真備・阿倍仲麻呂・玄昉・井真成らが留学生として唐に渡る。
 →
<第8次遣唐使>多治比県守が率いる遣唐使に同行して唐の都、長安に留学した。
718 養老2 戊午 ○藤原不比等ら養老律令を完成させる。
720 養老4 庚申 ○『日本書紀』完成。
724 神亀1 甲子 ○聖武天皇、即位する。
729 神亀6
天平1
己巳 ○2月12日、長屋王の変。(丁卯月/癸酉日
 →
左大臣長屋王(皇親側の重鎮)が、対立する藤原氏の陰謀によって、滅ぼされた事件。長屋王は天武天皇皇子の高市皇子(壬申の乱の英雄)、母は天智天皇の皇女の御名部皇女。突然の陰謀によって、左道によって聖武天皇を呪詛してのろい殺そうとしたとの讒言によって、2月10日の夜、邸宅を藤原兄弟の指揮する軍に取り囲まれ、翌11日巳刻、藤原四兄弟の長男で中納言藤原武智麻呂らが罪状審議のため長屋王邸に入った。翌12日、家族ともども自害に追い込まれる。ちなみに、長屋王は深く仏教に帰依し、大般若経600巻の書写を二回もしている。更に、長屋王が唐の高僧に寄贈したという袈裟には、四言四句の願文「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」が刺繍されていたという。この願文は清代の勅撰詩集『全唐詩』にも採録され、日中の仏教交流にも影響を与えている。
 ※この事件は、“上宮王家の悲劇”を想起させる。


○8月10日、藤原光明子、皇后となる。(
癸酉月/戊辰日
 →
皇室以外から初めての皇后となった。

○日本最古の現存する「木簡具注暦」が作られる。
730 天平2 庚午 ○3月27日、太政官奏にて学問奨励の為、得業生を定める。
 →
陰陽・医術・暦は国家にとって重要である。しかし、それぞれの博士達は高齢である。教えを授けなければ、その技術が断絶する恐れがある。7人の博士達にそれぞれ弟子を取らせ、国として衣食等の支援を願いたい、との奏上に対して、勅許が下りる。
 ◆出典:『続日本紀』(巻第10)「又陰陽・医術及七曜・頒暦等類、国家の要道、不得廃闕。但見諸博士、年歯衰老。若不教授、恐致絶業。望仰、吉田連宜・大津連首・御立連清道・難波連吉成・山口忌寸田主・私部首石村・志斐連三田次等七人、各取弟子、将令習業。……」
<術数の7博士>(続紀記載)
①吉田連宜(
よしだのむらじよろし):医術に秀でた。元は百済からの帰化僧・恵俊で、文武天皇4年に還俗して吉宜(きつのよろし)の姓名を授けられた。
②大津連首(
おおつのむらじおびと):占術・陰陽道に秀でた。元は遣新羅使の学問僧・義法。占術に巧みであったことから、和銅7年3月に還俗させられ、大津連姓と位階・従五位下を賜っている。
③御立連清道(
みたちのむらじきよみち):医術家。呉粛胡明といったが、神亀元年に御立連姓を賜っている。百済からの帰化系。
④難波連吉成(
なにわのむらじよしなり):陰陽道に通ずる。谷那庚受(康受とも)。神亀元年に難波連となる。百済系。
⑤山口忌寸田主(やまぐちのいみきたぬし):算術・暦算に通ずる。『藤氏家伝(下)』に神亀の頃の暦算の名家と記録されている。
⑥私部首石村(
きさきべのおびといわむら):算術・暦算に通ずる。『藤氏家伝(下)』に神亀の頃の暦算の名家と記録されている。
⑦志斐連三田次(
しひのむらじみたすき):暦算に優れていたと『藤氏家伝(下)』に記載されている。

○4月17日辛未、初めて施薬院を置く。(『続日本紀』巻第10

○閏6月11日、伊勢奉幣使には卜食した五位以上を充てるとする制を定める。
 →
五位以上の高位で、且つ亀卜に適った者が担当。
  「伊勢奉幣使」:幣(みてぐら)を伊勢神宮に奉る者。
  「卜食」:“卜(うら)に食()う”。亀卜に適うこと。


○9月2日、渤海から七曜暦が伝来する。

○9月29日、詔で妖言惑衆を禁ず。(『続日本紀』巻第10
 →
安芸・周防の国人らが妄りに禍福を説き、多くの民衆を集めて、死魂をまじないまつったとされ、更に平城京の東方の山原に民衆を集め妖言して惑わしたとされる。後者は行基の集団かとも言われている。
735 天平7 乙亥 ○吉備真備・玄昉ら唐より帰国。
 →
遣唐使により、最新の中国陰陽道の情報が伝わる。吉備真備が唐より『大衍暦経』(一巻)、『大衍暦立成』(十二巻)を伝える。また吉備真備は唐にて阿部仲麻呂より書等を託されたとされている。
740 天平12 庚辰 ○9月、藤原広嗣の乱が勃発。
 →
九州で起こった奈良時代最大の内乱。

○10月23日、藤原広嗣が安倍黒麻呂によって捕らえられる。

○11月1日、広嗣と綱手の兄弟が肥前国唐津で処刑される。
746 天平18 丙戌 ○現存する最古の「具注暦」作られる。
747 天平19 丁亥 新薬師寺が建立される。
 →
聖武天皇眼病平癒祈願の為の勅願により光明皇后によって建立された、薬師如来を本尊とする仏教寺院。名称の「新」は「新しい(NEW)」という意味ではなく、薬師如来の霊験「あらたか」という意味であるという。国宝「十二神将(塑像)」で有名。後に補作された波夷羅大将以外は全て天平時代の作。新薬師寺の十二神将は下記のように十二支に配当
されている。
 <十二神将>
 ①子→毘羯羅大将(びぎゃら)
 ②丑→招杜羅大将(しゅうとら)※珊底羅
 ③寅→真達羅大将(しんたら)
 ④卯→摩虎羅大将(まこら)
 ⑤辰→波夷羅大将(はいら)※宮毘羅
 ⑥巳→因達羅大将(いんだら)※波夷羅
 ⑦午→珊底羅大将(さんてら)※安底羅
 ⑧未→頞弥羅大将(あにら)
 ⑨申→安底羅大将(あんてら)※伐折羅
 ⑩酉→迷企羅大将(めいきら)※因達羅
 ⑪戌→伐折羅大将(ばさら)※迷企羅
 ⑫亥→宮毘羅大将(くびら)※招杜羅
 (寺での伝承名/※は文化庁指定名称)
750 天平勝宝2 庚寅 ○吉備真備、筑前守に左遷される。←藤原仲麻呂にうとまれたため。
752 天平勝宝4 壬辰 ○吉備真備、遣唐副使として、2度目の渡唐をする。

○4月9日、東大寺大仏開眼供養。(
乙巳月/乙酉日
 →
聖武上皇・光明皇太后を初め、文武百官・総一万人が会衆する中で、大仏開眼の法会が盛大に行なわれた。未曾有の国家的行事であった。『続日本紀』(巻第18)「仏法東帰、斎会之儀、未嘗有如此之盛也。」
757 天平宝字1 丁酉 ○11月1日条-勅、陰陽寮生が学ぶ必読書が決められる。
 →
天文生が学ぶ書物を『天漢書』『漢晋天文志』『三家薄讃』『韓楊要集』とする陰陽生が学ぶ書物を『周易』『新撰陰陽書』『黄帝金匱』 『五行大義』とする。暦生が学ぶ書物を『漢晋律暦志』『大衍暦議』 『九章』『六章』『周髀』『定天論』とするとある。(『続日本紀』)
758 天平宝字2 戊戌 ○阿倍仲麻呂が「陰陽寮」の名称を「大史局」に改称する。しかし、6年後には再び「陰陽寮」に名称が戻される。
760 天平宝字4 庚子 ○『藤氏家伝』(とうしかでん)成立。(略して『家伝』とも
 →
藤原氏の伝記。古代から初期藤原氏に代々伝えられてきた記録で上・下巻がある。正史『日本書紀』や『続日本紀』に記載されていない内容の記録があり、記紀・続紀の補遺として重要な資料ともなっている。占術・陰陽道・暦算・医術関連人物についての記録も多数あり。
764 天平宝字8 甲辰 ○儀鳳暦を廃止して吉備真備が、中国から持ち帰った大衍暦を施行する。 →856年(斉衡3)まで施行された。
766 天平神護2 丙午 ○吉備真備、右大臣となる。
767 天平神護3
神護景雲1
丁未 ○日向守大津大浦が所有していた天文陰陽書を没収し、解任する。
769 神護景雲3 己酉 ○弓削道鏡の全盛。→和気清麻呂、大隈に流される。
770 宝亀1 庚戌 ○道鏡、下野に流される。

○阿倍仲麻呂、唐にて没す。(
70歳
774 宝亀5 甲寅 ○6月15日、空海、讃岐国にて生まれる。
 →
日本真言宗の開祖、諡号:弘法大師、俗名:佐伯眞魚(さえき・の・まお)。日本に宿曜占術の原典『宿曜経』を伝えたとされる。
 ┌─┬─┬─┐
 │日│月│年│ 大運:順行
 ├─┼─┼─┤ 天徳:甲己
 │壬│辛│甲│
 │午│未│寅│
 └─┴─┴─┘

○陸奥国鎮守府を大宰府に準ずるものとし、漏刻を設置する。
775 宝亀6 乙卯 ○10月2日、吉備真備、没する。
780 宝亀11 庚申 ○遣唐使・葉栗翼、「寶應景紀暦」を献上する。
○現存する最古の「大衍暦」による具注暦が作られる。
781 天応1 辛酉 ○桓武天皇即位。
784 延暦3 甲子 ○長岡京遷都。
○「朔旦冬至の賀」が初めて行われる。
785 延暦4 乙丑 ○9月24日、藤原種継暗殺される。
○最澄、比叡山延暦寺を創建する。











 
794 延暦13 甲戌 平安遷都。鬼門封じなど、陰陽道の魔除が諸処で行われた。もとこの地 は秦氏が道教の呪術的で調整してきた地であった。
797 延暦16 丁丑 ○菅野真道らにより『続日本紀』が完成。
 →編年体の漢文表記で全40巻。六国史の第2となる勅撰史書。文武天皇元年~延暦10年までの95年間について記述されている。
800 延暦19 庚辰 ○崇道天皇(早良親王)の山稜に陰陽師・衆僧を派遣する。 (『類聚国史』)
804 延暦23 甲申 最澄、空海唐に渡る。 
 →空海は長安の都で『宿曜経』を翻訳した不空の高弟であった恵果より密教の奥義を伝授される。
806 延暦25
大同1
丙戌 ○空海が帰国する。この時『宿曜経』を、多くの密教経典と共に日本に持ち帰る。<宿曜道>本格的に研究始まる。 宿曜道とは密教(真言、天台)の占星術のこと。又『宿曜経』中にある“七曜”が陰陽寮の注目するところとなり、暦の中に入れられるようになる。
807 大同2 丁亥 ○平城天皇、暦注の禁止令を出す。→3年後には復活する。
810 大同5
弘仁1
庚寅 ○9月12日、薬子の乱(平城太上天皇の変)。
830 天長7 庚戌 ○淳和天皇、仏教各宗派における教義の要旨を提出するように勅令を下す。
 →
空海は、この勅を受け、真言密教の要義として『秘密曼荼羅十住心論』(十巻)、及び『秘蔵宝鑰』(三巻)を著わし朝廷に献上する。
<空海の流年>「偏印冠帯(偏官)」
※『秘蔵宝鑰』(愚童持斎心の項)空海は儒教の「五常(五徳)」→仏教「五戒」に配当。「五常」は五行にも配当
  ①「木」→仁徳/不殺生戒。
  ②「火」→礼徳/不邪淫戒。
  ③「土」→信徳/不妄語戒。
  ④「金」→義徳/不偸盗戒。
  ⑤「水」→智徳/不乱(飲酒)戒。
 『秘蔵宝鑰』に曰く「よくこの五を行う時は、すなわち四序玉燭し、五才金鏡なり。国にこれを行なえば、すなわち天下昇平なり。家にこれを行なえば、すなわち路に遺れたるを拾わず。名を挙げ、先を顕すの妙術、国を保ち、身を安んずるの美風なり。外には五常と号し、内には五戒と名づく。名異にして義融じ、行同じうして益別なり。断悪修善の基漸、脱苦得楽の濫觴なり。」
835 承和2 乙卯 ○3月21日、空海没する(入定)。享年62歳。
848 嘉祥1 戊辰 ○天台宗の高僧円仁が渡唐し『宿曜経』を空海に続き再び請来する。
850頃     ○『都利いっし経』(トレミーの占星術書の中国訳)伝来。
 →
宿曜道の重要文献。
851 嘉祥4
仁寿1
辛未 ○2月21日条文(太政官符)において、出羽国に陰陽師を配置し、待遇は博士・医師に準ずるものとする。
854 仁寿4
斉衡1
甲戌 ○滋岳川人が滋岳朝臣(あそん)姓を賜る。時に正六位上陰陽権允(ごんのじょう)兼陰陽博士。
858 天安2 戊寅 ○9月2日、滋岳川人が文徳天皇の陵墓を占定した日の帰りに、地神の怒りに触れたが、遁甲の術で難を逃れたとわれている。
○「大衍暦」と「五紀暦」を併用。(4年間のみ)
○空海の甥・円珍が渡唐し再度『宿曜経』を請来する。
859 天安3
貞観1
己卯 ○渤海国使・烏孝慎が「宣明暦」を献上する。
○滋岳川人が大和国において虫害防止の祭祀を行う。 (『日本三代実録』)
862 貞観4 壬午 ○「大衍暦」を廃して、「宣明暦」を採用。この暦は江戸幕府天文方・渋川春海の貞享暦(1684年)まで陰陽寮で使われ続ける事になる。
864 貞観6 甲申 ○陰陽師・弓削是雄が伴宿禰世継の夢を占って、その命を救ったという記述が『今昔物語』に記載されている。
○弓削是雄、藤原有蔭に招かれて、属星祭を行う。(『政事要略』巻95)
865 貞観7 乙酉 ○従五位下陰陽権助陰陽博士滋岳川人、権介となる。
871 貞観13 辛卯 ○滋岳川人、『六甲六帖』を撰進する。
872 貞観14 壬辰 ○5月2日条文(太政官符)において、武蔵の国で「権史生」と称していた陰陽師を正式に「陰陽師」と改称する。
874 貞観16 甲午 ○5月27日、大陰陽師・滋岳川人が没す。(従五位上)
876 貞観18 丙申 ○7月21日条文(太政官符)において、下総の国に史生を一人減らし、陰陽師を置く。
882 元慶6 壬寅 ○9月29日条文(太政官符)において陸奥国鎮守府に陰陽師を置く。
883 元慶7 癸卯 ○正月一日に、七曜暦が献上される。
891 寛平3 辛亥 ○7月20日条文(太政官符)において、下総・常陸国の史生を一人減らし、陰陽師を置く。
897 寛平9 丁巳 ○『日本国見在書目録』(藤原佐世撰)、この年以前には成立。
 →
日本に現存する最古の漢籍目録で、40部門、1579部、16790巻を収録し、各書籍を解説。目録の中には日本や中国でも既に失われている書籍も多く掲載してあり、貴重な史料。中に多くの五行書と共に『五行大義』(隋・蕭吉撰)も含まれている。
899 昌泰2 己未 ○菅原道真、右大臣となる。藤原時平が左大臣となる。
900 昌泰3 庚申 ○『符天暦』伝来。詳しくは『七曜符天暦』といいます。この暦はインドの暦法に従った暦で、宿曜道の暦計算の重要文献でした。これを用いることによって宿曜道のホロスコープが描けるようになり、密教の星曼陀羅(北斗曼陀羅、尊星曼陀羅、妙見曼陀羅)が作られ始める。
○文章博士・三善清行、明年辛酉革命の議を奏上する。
901 昌泰4
延喜1
辛酉 ○正月、菅原道真、突然大宰権帥に左遷、大宰府に流される。

○7月15日、三善清行の建議により、初めて「辛酉革命説」をもとにした改元がなされ、年号「昌泰」を「延喜元年」とする。
9~11世紀     ○貴族に陰陽道の占い大流行。

○陰陽道の天皇家による独占はゆるぎ 公家に民間陰陽道広まる。

○宿曜道、陰陽道の暦を批判。日蝕予報でたびたび対決する。
912 延喜12 壬申 ○丹波康頼、丹波国天田郡に生まれる。(たんばのやすより
 →
医家。平安期における東洋医学の権威。官職:針博士・丹波介・左衛門佐。渡来系・東漢氏の流れを汲む。現存する日本最古の医学書『医心方』(全30巻)を編集し朝廷に献上。医家としての功績により、朝廷から“丹波宿禰姓”を賜る。以来医家として重きをなした丹波氏の祖となる。後孫に、丹波雅忠(『医略抄』を著す)、施薬院全宗(豊臣秀吉の侍医)、多紀元孝(江戸幕府の奥医師)、丹波敬三(薬学者)、丹波哲郎(俳優)など。
917 延喜17 丁丑 ○賀茂保憲生まれる。(陰陽師、保憲は吉備真備の7代の子孫に当たる)
921 延喜21 辛巳 安倍晴明、誕生
 →
陰陽師、土御門家の祖(安倍仲磨呂の子孫)。現存する著書は『占事略決』が残るのみだが陰陽道の重要な文献となっている。
      ○この頃、法師陰陽師芦屋道満が、九字を開発したとされる。道満は出身地播磨の国佐用で亡くなるが陰陽師の本拠地は播磨の国であったようで、安倍晴明も播磨守になったことがある。(※道満の実在は定かではない。)
927 延長5 丁亥 ○「延喜式」の中に、官暦を製造する上での細則を記載。
931 延長9
承平1
辛卯 ○安倍晴明→百鬼夜行を見る。
937 承平7 丁酉 ○明年に暦についての論争が、暦博士・葛木茂純と大春日弘範の間でなされる。
938 承平8
天慶1
戊戌 ○賀茂光栄、生れる。(陰陽師、賀茂保憲の子
939 天慶2 己亥 ○平将門の乱起る。
940 天慶3 庚子 ○賀茂忠行(陰陽師)が平将門の乱に際して「白衣観音法」を修すべきことを奏上する。

○2月14日、平貞盛ら、平将門を討つ。(己卯月/庚戌日
 →朝廷軍(平貞盛と藤原秀郷・為憲の連合軍)との合戦は、初め将門軍が優勢であったが、風向きが変わるにつれて、形勢が逆転。戦闘中、将門の額に矢に当たって討ち死にする。将門の首は京で晒し首にされた。

○6月20日、藤原純友、獄中で没す。(癸未月/甲寅日
 →2年間に及んだ「藤原純友の乱」が終結。朝廷側の純友追討軍は追捕使長官・小野好古、追捕使主典・大蔵春実、大宰権帥・橘公頼。伊予国警固使橘遠保が純友を捕らえた。
945 天慶8 乙巳 ○7月19日、明経得業生十市部(宿禰)以忠(中原以忠)に天文道を学ばしむ。(『本朝世紀』『類聚符宣抄』に記載
953 天暦7 癸丑 ○日延(天台宗の僧)、送使として渡海する。この時、賀茂保憲は新しい暦法を伝えるよう朝廷を通して日廷に依頼した。
954 天暦8 甲寅 ○安倍吉平(あべのよしひら)生まれる。
 →陰陽師。安倍晴明の長男。
957 天暦11
天徳1
丁巳 ○賀茂保憲の建議により、延暦寺の僧・日延が、中国より「符天暦」を伝来する。→これより以後、「宿曜道」が形成されて行くこととなる。 (『大宰府政所牒案』『平安遺文』第9巻4623号所収)
959 天徳3 己未 ○賀茂忠行(陰陽師)が勅を奉じて箱の中の念珠を言い当てる。
960 天徳4 庚申 ○4月、賀茂保憲、天文博士に昇進する。

○7月25日、五龍祭行われる。 

○11月28日、安倍晴明、建礼門の前にて安摩(舞楽)を舞う。

○9月23日、内裏に火災が発生し、温明殿の霊剣が焼失する。
 →
(『日本紀略』)この炎上を三善清行の子である三善浄蔵が予言していたとされる。
961 天徳5
応和1
辛酉 ○6月28日、安倍晴明、天文得業生として天徳4年(960)に内裏の炎上によって焼失してしまった護身剣と破敵剣の再鋳造に、天文博士の賀茂保憲・祭郎暦得業生の味部好相らと共に携わる。 (丙申月/庚申日
962 応和2 壬戌 ○賀茂保憲、陰陽頭となる。この年、来る応和4年が甲子革令に当るという勘文を提出する。
964 応和4
康保1
甲子 ○初めて改元が“甲子革令説”によってなされ、「康保元年」に改まる。
966 康保3 丙寅 ○12月27日、小野道風没す(71歳)。(庚寅月/丁亥日
967 康保4 丁卯 ○6月23日、安倍晴明、日時勘申する。
 →
冷泉天皇の政務の開始日を意味する「政始(まつりごとはじめ)」の日を、7月15日と勘申する。
968 康保5
安和1
戊辰 ○安倍晴明、朝廷に出仕。
972 天禄3 壬申 ○12月6日、安倍晴明、天文博士となる。
974 天延2 甲戌 ○5月14日、安倍晴明、円融天皇の御願によって相地をし、比叡山に建立する大乗院の場所を決め、比叡山に登る賀茂保憲に随行する。

○12月3日、安倍晴明、天文密奏する。
 →鎮星(土星)が第四星を星食で隠した為。

○賀茂保憲、造暦の功績により従四位下に進む。
977 貞元2 丁丑 ○2月22日、賀茂保憲没す(80歳) (癸卯月/癸丑日
978 貞元3
天元1
戊寅 ○7月24日、晴明邸に落雷し、邸が破損する。(庚申月/丁未日
979 天元2 己卯 安倍晴明、『占事略決』をこの頃に著す。→京都大学図書館所蔵本の奥書に己卯年とある(年号は天元6年としているが、この年号表記は錯誤ではないかと推測される) この書は六壬占について書かれている。
980 天元3 庚辰 ○安倍晴明、花山天皇の命で那智山の天狗を封ずる。
984 永観2 甲申 ○7月27日、安倍晴明、日時勘申をする。
 →円融天皇の譲位の日時を8月16日巳刻とし新帝となるべき皇太子の立太子の日時を同日の申刻、と勘申する。この勘申には文道光(
ふみのみちみつ)と共同で勘申する。(壬申月/乙亥日

○7月28日、前日(27日)の陰陽家による日時勘申が問題とされ、文道光と共に改勘を要求されることとなる。(
壬申月/丙子日

○7月29日、改勘する。   (
壬申月/丁丑日
 →
円融天皇の譲位日時を8月27日巳刻とし、立太子の日時を同日の未刻・申刻と改勘し、日時勘文を藤原実資のところに持参する。

○丹波康頼、『医心方』を朝廷に献上。(
いしんぼう
 →
全30巻。漢文で書かれる。現存する日本最古の医学書献上後、長く宮中に秘蔵され続けたが、江戸期・正親町天皇によって典薬頭・半井家に下賜されている。国宝に指定。独自の見解は殆ど見られず、隋・唐の医書を広く猟渉して、総論・針灸・内科・外科・製煉製剤法・石薬・婦人科・産科・小児科・延年法・養生法・食養法・房内(性交法)など広汎な内容を収録している。  
985 永観3
寛和1
乙酉 ○4月19日、安倍晴明、藤原実質の妻の出産が遅れたことで、妻の解除をする。  (辛巳月/癸巳日)
  →しかし産気づく様子はなかった。

○5月29日、安倍晴明、花山天皇に日時勘申をする。
 →花山天皇が喪服である錫紵(
しゃくじょ)を解く日についての日時勘申。(壬午月/癸酉日

○安倍晴明、大嘗祭において吉志舞の奉行をする。(
『園太暦』
986 寛和2 丙戌 ○2月16日、安倍晴明、文博士正五位下として、壬式占六壬式占によって占申する。  (辛卯月/甲寅日
 →
太政官正庁に蛇が出たことを、六壬式で占った結果、丑・未・辰年生まれの人が物忌の該当者となる旨を占申した。

○2月27日、安倍晴明、六壬式占によって占申する。
  (
壬辰月/乙丑日
 →
太政官正庁に鴿(はと)が入って来たことを占った結果、辰・午・亥年生まれの人が物忌の該当者となる旨を占申した。

○6月23日、安倍晴明が、天文の異変から花山天皇の出家を見抜く。

  
乙未月/庚申日

○賀茂守道生まれる。(
光栄の子供
987 寛和3
永延1
丁亥 ○2月19日、安倍晴明、一条天皇が凝華舎より遷御するに際して、反閇をする。

○3月21日、安倍晴明、藤原実質が二条第に渡るに際して反閇をする。

○安倍晴明の次男・吉昌が天文博士に任じられる。

○現存する最古の「宣明暦」による、具注暦が作られる。
988 永延2 戊子 ○7月4日、安倍晴明、藤原実資の病気の女児の為に鬼気祭を行う。

○8月7日、安倍晴明、日時勘申をする。
 →けい惑星が軒轅の女主を犯した事で執り行われるけい惑星祭の日時を、12日・19日と勘申をする。

○8月18日、安倍晴明、けい惑星祭の奉仕をしないことで、職務怠慢を摂政の藤原兼家に責められ、過状(始末書)を提出させられる。
989 永延3
永祚1
己丑 ○1月6日、安倍晴明、一条天皇の御悩によって、御占(みうら)を奉仕する。

○1月7日、安倍晴明、一条天皇が白馬節会の為に紫宸殿出御前に、御禊を奉仕。

○2月11日、安倍晴明、皇大后藤原詮子の御悩の為、泰山府君祭の奉仕をする。仏教側からは天台座主・尋禅の尊勝法も同時に行われた。

○2月16日、安倍晴明、一条天皇の円融寺行幸に際し、紫宸殿で反閇を奉仕。
990 永祚2
正暦1
庚寅 ○藤原道隆、関白となる。定子中宮が誕生。
991 正暦2 辛卯 ○安倍吉平は雨乞い祭の「五龍祭」をこの年に3度も行っている。
993 正暦4 癸巳 ○2月3日、安倍晴明、急な一条天皇の御悩の為、御禊をしたところ、忽ち験があった功で、位階を正五位上に昇叙される。
994 正暦5 甲午 ○5月7日、安倍晴明が流行の疫病を払う為に、日時勘申した百座の仁王経講経が八省殿において行われる。
995 正暦5
長徳1
乙未 ○藤原道長に内覧(関白代理)の宣旨が下りる。
 →
道長は生前、関白にはなっていない。

○この頃、安倍晴明・賀茂光栄、一条天皇の蔵人所陰陽師として活躍する。(
『朝野群載』第5巻

○丹波康頼、没す。→
医家。東漢氏系。
996 長徳2 丙申 ○紫式部、越前下向に際して、陰陽師に吉日を占わせる。
 →紫式部は父の藤原為時が越前の受領として赴任する為に、越前の国(
現在の福井県武生市)に向かった。
997 長徳3 丁酉 ○5月24日、安倍晴明、再焼失した34柄の御剣を再鋳造すべきことを申し上げる。

○6月17日、日時勘申をする。
 →
一条天皇が東三条院に行幸するにあたり、6月22日巳刻が適当である旨を勘申する。6月22日、一条天皇が東三条院に行幸するに際して、紫宸殿において反閇の奉仕をする。
998 長徳4 戊戌 ○清少納言『枕草子』。 

○賀茂光栄、大炊頭に任ぜられる。

○「具注暦」に藤原道長の『御堂関白記』が書き込まれる。

○藤原道長『御堂関白記』の記述が始まる。
 →
摂政太政大臣・藤原道長が著した日記で、別名『御堂御記』『入道殿御暦』『法城寺摂政記』とも称される。安倍晴明に日の吉凶を占わせた記述や、七曜が記されている。自筆本14巻が現存し、一級の歴史資料として“国宝”に指定されている。
999 長保1 己亥 ○7月8日、安倍晴明、一条天皇が大殿祭での内裏渡御に際し、反閇の奉仕をする。

○7月16日、安倍晴明、一条天皇の歯痛を占い勘申。
 →
天の咎ではない旨と、御祭の日時を勘申する。

○10月13日、安倍晴明、太皇大后昌子内親王の御悩の為に御占をして、行啓すべき地と、その日時を勘申する。

○11月7日、安倍晴明、日時勘文をし、防解火災御祭の日時を勘文する。

○11月、道長の長女彰子、女御になる。
1000頃     ○暦道を加茂家、天文道を安倍家が世襲することになる。しか、一方では実力主義が消え、陰陽道は儀式因習的になり技術的な進歩がなくなってゆく。
1000 長保2 庚子 ○1月28日、安倍晴明、彰子の立后が決まり、立后日を勘申するよう申しつけられる。日本史上初めての二后冊立(中宮彰子、皇后定子)がされる。

○2月16日、安倍晴明、一条天皇の法興院への行幸の日を、日時勘申をする。

○8月18日、安倍晴明、一条天皇が新造の内裏へ還御する日を、賀茂光栄と共に日時勘申するように下命される。

○8月19日早朝、安倍晴明、内裏の藤原行成の宿所で鼠が宿物をかじる怪異を占い、口舌の厄又は病の可能性を占申する。
 同日、御服機を立てる為に掘る場所が一条天皇の忌方かどうか下問される。

○10月11日、一条天皇が新造の内裏に遷御し紫宸殿に出御する際、安倍晴明が「道之傑出者」である故を以って、反閇をする。

○10月21日、叙位儀の際、安倍晴明が式部大輔代として奉仕する。

○12月16日、安倍晴明、東三条院藤原詮子の御悩及び、詮子の前典侍藤原某に邪霊が憑いた為に、調伏法があれば17日に御修法を修めるべき旨を申上する。
1001 長保3 辛丑 ○6月20日、安倍晴明、東三条院藤原詮子の御悩による不動供養の日と、一宮敦康親王のお食い初め日を日時勘申する。

○12月17日、安倍晴明、東三条院藤原詮子が藤原行成第へ渡御することの是非を賀茂光栄・県奉平らと共に占い、「御すべからず」との旨を占申する。

○12月29日、安倍晴明、東三条院藤原詮子が崩御で朝廷での追儺を中止し、私宅にて行う。

○この年、安倍晴明、従四位下となる。(位階)
 →※“従四位下”の蔵人所<令外官>における官位相当は“頭”。従って、晴明はこの年齢になって初めて、陰陽頭に相当する位階を賜ったことになる。
1002 長保4 壬寅 ○3月19日、安倍晴明、禁中で頻繁に起こる火事の為に、秦正邦・賀茂光栄・県奉平、並びに文章道・明経道の博士らと共に、諸道勘申をする。

○7月27日、安倍晴明、一条天皇の御願で「玄宮北極祭」を行う。
 →天変地妖や数々の怪異現象が起こった為に命がでる。

○11月9日、安倍晴明、藤原行成の泰山府君祭を奉仕する。
1003 長保5 癸卯 ○8月21日、安倍晴明、一宮敦康親王の御悩に対して、邪気の占申をする。
1004 長保6

寛弘1
甲辰 ○2月19日、安倍晴明、藤原道長の三昧堂建立の為、賀茂光栄と共に相地する。

○6月18日、藤原道長が、賀茂神社への参詣を前にして、息子頼道の乳母の死で穢れを帯びる「触穢(そくえ)」したかも知れないと、安倍晴明に尋ねたので、賀茂光栄と共に「触穢している旨」を占申する。

○6月20日、藤原道長が、安倍晴明に造仏の是非を尋ね、晴明は「減門日であるので宜しくない旨」を答える。

○7月14日、照りが続いたので一条天皇の勅命によって、安倍晴明が雨乞いの祈祷の為に、五龍祭を行い、夜に大雨が降った。

○8月22日、中宮彰子が大原野神社(藤原氏の神社)に行啓するに当たっての是非を尋ねられ、安倍晴明は茂光栄と共に占筮し、延期すべき旨を占申する。

○9月25日、23日に藤原鎌足の墓所がある多武峰が鳴動する怪異があった事により、藤原道長の命を受けて占う。

○12月3日、安倍晴明、原道長の命により、賀茂光栄・昌平と共に土御門第において祭を行う。

○この年、安倍晴明、左京権大夫となる。
1005 寛弘2 乙巳 ○2月10日、藤原道長が東三条の新第に移るに際して、安倍晴明が「新宅作法」を行なう。

○3月8日、中宮彰子の大原野神社への御幸につき、御所を出発する際に、反閇をする。

○9月26日、安倍晴明が没する。←『土御門家記録』による。(宮内庁書陵部『陰陽家系図』によると10月26日となっている。)(
丙戌月/辛未日
1007 寛弘4 丁未 ○紫式部『源氏物語』 →専門的宿曜師のことを「宿曜のかしこき道の人」と記述している部分がある。又近年『源氏物語』 の構成や人物が宿曜経(宿曜占術)に由来するとする考証がある。 (大妻女子大学・大久保建治教授の説
1010 寛弘7 庚戌 ○宿曜道が独自の暦算を始める。この頃、陰陽道(寮)の暦道が衰退。
1013 長和2 癸丑 ○賀茂光栄→この年以後、右京権大夫であった。
1015 長和4 乙卯 ○6月7日、賀茂光栄没する。(77歳) 従四位下、暦博士。
1016 長和5 丙辰 ○藤原道長、摂政となる。

○源隆国『今昔物語』→安倍晴明に関する話もある。

○安倍吉平→陰陽師としては異例の従四位下に進む、その後従四位上にまで進む。
1021 治安1 辛酉 ○藤原道長『御堂関白記』の記述終わる。
1026 万寿3 丙寅 ○12月18日、安倍吉平没す。  (辛丑月/庚寅日)
1027 万寿4 丁卯 ○6月29日辰刻、六壬勘文。
  →「占東大寺御塔上小虫出集怪異吉凶」陰陽頭・惟宗文高と主計頭 ・賀茂守道が東大寺で小虫が出て集まるという怪異を占う。
1030 長元3 庚午 ○賀茂守道没す。(45歳) 
1038 長暦2 戊寅 ○暦博士・賀茂道平が製作した暦に誤りが指摘される。 
1048 永承3 戊子 ○大宰府が宋暦と新羅暦を献上する。 
1059 康平2 己亥 ○暦道と宿曜道の間に、月食の計算についての論争がある。
○この頃より、仮名暦が作られ始める。 
1066 治暦2 丙午 ○賀茂家栄(いえよし)、生れる。
 →暦博士・賀茂道栄の子。陰陽頭。暦道・陰陽道の長者とされた。
1110 天仁3
天永1
丙午 ○この頃?、安倍泰親が生れる。←安倍晴明の5代目の子孫。占いの的中率の高さから「指御子(さすのみこ)」と言われていた。
1127 大治2 丁未 ○陰陽寮が消失し、渾天図・漏刻等が焼失する。
1129 大治4 己酉 ○現存する最古の仮名暦が作成される。
○暦博士と大法師・源算が、月の大小について論争をする。
1136 保延2 丙辰 ○8月12日、賀茂家栄、没す。(71歳)  (丁酉月/丁未日)
1142 康治1 壬戌 ○『五行大義』(天文鈔本)が藤原頼長の許にあったとの記録あり。
1144 天養1 甲子 ○三善朝臣が『五行大義』(天文鈔本)を書写し、安倍家所蔵本によって加点する。
1147 久安3 丁卯 ○4月8日、源頼朝、生まれる。 (乙巳月/辛丑日)
 →鎌倉幕府初代将軍。平家を討伐し鎌倉幕府を開く。
1149 久安5 己巳 ○陰陽頭・賀茂憲栄と陰陽博士・安倍泰親との間で論争が起きる。 (『本朝世紀』)
1155 久寿2 乙亥 ○『五行大義』(天文鈔本)を秘本も以って校比し、安倍家門外不出の秘本となる。
1156 保元1 丙子 ○『五行大義』(天文鈔本)が安倍泰弘によって書き改められる。
1166 永万2
仁安1
丙戌 ○安倍泰親、『陰陽頭安倍泰親朝臣記』を著す。
1167 仁安2 丁亥 ○平清盛、太政大臣となる。→平氏全盛時代へ。
1168 仁安3 戊子 ○6月22日、陰陽寮より賀茂在憲・安倍泰親が、六条天皇の方違えについて意見の奏上を行なう。
1169 嘉応1 己丑 ○安倍泰親、九条兼実に対し安倍氏が他流を批判する。(『玉葉』)
1174 承安4 甲午 ○安倍泰親宅に落雷。(『玉葉』『百錬抄』)
1179 治承3 己亥 ○11月7日戌刻、地震あり。これを安倍泰親が占い、異変の前兆であることを内泣きながら裏に奏上した。      
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「…奏聞しけるは、『今度の地震、天文のさすところ、そのつつしみ軽からず。当道三経のうち、坤儀経の説を見候ふに、年を得ては年を出でず、月を得ては月を出でず、日を得ては日を出でず、もつてのほかに火急に候』とて、はらはらと泣きければ、伝奏の人も色を失ひ、君も叡慮をおどろかせおはします。若き公卿、殿上人は、「けしからずの泰親が泣き様や。なんでうことのあるべき」とて笑ひあはれけり。されどもこの泰親は晴明五代の苗裔をうけて、天文は淵源をきはめ、推条たなごころをさすがごとし。一事もたがはずありければ、「さすの神子」とぞ申しける。いかづちの落ちかかりたりしにも、雷火とともに狩衣の袖は焼けながら、その身はつつがもなかりけり。上代にも末代にもありがたかりし泰親なり。」(『平家物語 巻第三』第二十九句 法印問答)
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己亥年/乙亥月/己卯日/甲戌時

○11月20日、平清盛が後白河法皇を幽閉。
 →これが平家に反対する勢力に蜂起の口実を与え、平家滅亡の遠因となる。
1180 治承4 庚子 ○6月頃、平清盛が馬を安倍泰親に賜わる。
 →清盛が福原行幸の際、物怪の事あり。更に望月と名づけられた名馬の尾に鼠が子を産んだことを、怪しみ、7人の陰陽師に占わせる。「重き御つつしみ」と申上があったため、この馬を陰陽頭・安倍泰親に賜った。(
『平家物語 巻第五』第四十三句 物怪の巻
1181 治承5 辛丑 ○5月29日、安倍晴光が藤原兼実のもとに安倍家に秘蔵されていた『五行大義』を持って来る。
 →兼実の『玉葉』(
ぎょくよう)に「今日、晴光持来五行大義」と記されている。安倍晴光は安倍晴明五代の孫・時晴の子。兼実はこの時は右大臣、後に摂政・関白となる。
1182 寿元1 壬寅 ○安倍泰親、陰陽頭大膳権大夫となる。
1183 寿元2 癸卯 ○この頃?、安倍泰親、没する。
1185 元暦2
文治1
乙巳 ○3月24日、壇ノ浦の合戦で平氏滅亡。
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戦は卯刻に始まる。 (庚辰月/丁未日/癸卯時
1189 文治5 己酉 ○閏4月30日、源義経、衣川の戦いで戦死。藤原泰衡が500騎の兵で僅か10数騎の義経主従を藤原基成の衣川館(奥州市衣川区)に急襲した。(庚午月/己未日

※日付は旧暦となっています。(新暦は特に注記しました)