五行推命学研究所
東洋占術及び五行学に関する情報サイト


■五行学歴史年表・日本篇(2)  鎌倉時代(1192年) 〜 江戸時代(1867年)
2015/08/25更新

 西暦  
年号
干支
出来事







 
1192 建久3 壬子 ○7月12日、源頼朝、鎌倉幕府を開く。征夷大将軍に任官された日。
      ○幕府も陰陽道を行い、頼朝の政権奪取の日も、陰陽師が吉日と決める。
1200 正治2 庚申 ○9月7日、後鳥羽上皇の命で、射覆(せきふ)が催され、六壬占によって安倍晴光が的中させる。(丙戌月/庚申日
 →「射覆」とは、蓋をした中身を占術によって当てるもので、遊びの要素と占術鍛錬の要素を併せ持つ。
1206 元久3 丙寅 ○卜部兼守が『五行大義』の巻五を書写し、卜部兼直が校比する。
 →この際に藍本としたのは安倍家本の流れを汲む安倍広基の本であった。この書籍は卜部家(吉田家)に鈔本として伝存。
1207 承元1 丁卯 ○陰陽師・安倍維範が京都から鎌倉に呼び寄せられ、これにより安倍家の鎌倉進出が始まる。(『吾妻鏡』
1210 承元4 庚午 ○安倍孝重、『朝儀吉凶勘例編』を著す。 →陰陽師、陰陽博士。
1214 健保2 甲戌 ○『五行大義・巻五』(卜部家伝・鈔本)が、藤原尹範の本により校合される。
1219 健保7
承久1
己卯 ○2月、前将軍の源実朝の祈祷をした陰陽師等が、後鳥羽上皇の命により職務を停止させられる。(『吾妻鏡』

○7月、将軍・源頼経の鎌倉下向に陰陽師安倍晴吉が随行し、頼経の為に七瀬祓を奉仕する。
1221 承久3 辛巳 ○5月14日〜7月13日、「承久の乱」が起こる。
 →この時、幕府側と朝廷側双方で陰陽師に祈祷をさせている。
1222 承久4
貞応1
壬午 ○2月16日、日蓮上人、生誕。(壬午年/癸卯月/乙未日
 →安房国長狭郡東条郷片海小湊で出生。(現千葉県鴨川市/旧安房郡天津小湊町)仏教僧。法華経信仰。日蓮宗の開祖。没後、皇室より日蓮大菩薩と立正大師の諡号を追贈される。『立正安国論』他。宿曜占術で「蒙古襲来」を占い予言したとも言われている。
1254 建長6 甲寅 ○10月頃、『古今著聞集』、成立。
 →橘成季(たちばなのなりすえ)が著した鎌倉中期の説話集。世俗説話集の代表作として、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』と並び三大説話文学のひとつに数えられている。書中に陰陽師・安倍吉平の地震予知に関する記述あり。
1258 正嘉2 戊午 ○『五行大義・巻五』(卜部家伝・鈔本)が、書き改められる。
1270 文永7 庚午 ○『五行大義・巻五』(卜部家伝・鈔本)が、校比される。
1282 弘安5 壬午 ○10月13日辰刻、日蓮上人、入滅。(辛亥月/己亥日/戊辰時
1293 永仁1 癸巳 ○『医家千字文註』(惟宗時俊/これむね・ときとし)。
 →周興嗣の『千字文』を真似て、医学版の初心者向け千字文として著された書。天地自然、人体構造、医薬の特徴と効用、鍼灸、健康法、医薬の歴史等を記述。『五行大義』からの引用もある。
1310 延慶3 庚戌 ○記録上では最古となる仮名版暦が作られる。
1317 文保1 丁巳 ○12月13日、綸旨「泰山府君知行」
○現存する最古の具注暦版暦が作成される。
1320 元応2 庚申 ○土御門長親、『建天全書』を著す。
 →公家、陰陽師、陰陽頭、権天文博士。
○『類聚神祇本源』(度会家行)。
 →伊勢・度会神道。神儒仏三教一致の思想によって、伊勢外宮・内宮の古伝を整理収集した、度会家行(わたらい・いえゆき)の代表作。天地開闢篇では『五行大義』が引用されている。
1325 正中2 乙丑 ○阿倍有弘若狭へ下向。綸旨「長日泰山府君知行」
1327 嘉暦2 丁卯 ○土御門有世、生れる。→公家、陰陽師、陰陽頭、権天文博士。
1333 南朝:元弘3
北朝:正慶2
癸酉 ○閏2月25日、『五行大義』が仏僧・智円によって相伝される。
 →所謂『五行大義』の『元弘相伝本』。五帖からなる折本。原本が愛知県豊川市為当の竹本家に現蔵されている。
○5月22日、鎌倉幕府滅亡
 →北条高時以下の一門283人が東勝寺で自害。









 
1334 建武1 甲戌 建武の中興
○10月13日、綸旨「若州名田庄土御門施入之事」→土御門家。
1335 建武2 乙亥 ○阿倍長親、若狭へ下向する。
1338 南朝:延元3
北朝:暦応1
戊寅 ○8月11日、足利尊氏、征夷大将軍の宣下を受け、室町幕府を開く
  (辛酉月/壬寅日)
1346 南朝:興国7
北朝:貞和2
丙戌 ○綸旨「若狭住事」→土御門家。
1348 南朝:正平3
北朝:貞和4
戊子 ○綸旨「若州名田庄上庄村住事」 →土御門家。
1351 南朝:正平6
北朝:観応2
辛卯 ○11月15日、綸旨「若州名田庄長日泰山府君祭料知行」(北朝より→土御門)
1355 南朝:正平10
北朝:文和4
乙未 ○5月15日、綸旨「若州名田庄上村長日泰山府君祭料知行」
 →土御門家。
1366 南朝:正平21
北朝:貞治5
丙午 ○9月21日、綸旨「若州名田庄上庄村住事」→土御門家。
1373 南朝:文中2
北朝:応安6
癸丑 ○安倍泰世、中納言となる。
1374 南朝:文中3
北朝:応安7
甲寅 ○京暦と三島暦の日付が一日ずれる。
1384 南朝:元中1
北朝:至徳1
甲子 ○安倍有家、安倍家を土御門家と称する。安倍有家は陰陽師としては始めて、従三位に叙せられる。(『公卿補任』)
1385 南朝:元中2
北朝:至徳2
乙丑 ○安倍有家、従三位に叙される。
1391 南朝:元中8
北朝:明徳2
辛未 ○土御門有世が明徳の大地震で、「明徳の乱」を予言したと伝えられている。
1392 南朝:元中9
北朝:明徳3
壬申 南北朝合一









    ○勘解由小路家は途中で断絶し、土御門家が暦博士も兼務するようになる。

○庶民にも陰陽道が広まり、鎌倉末期に作られた秘伝『ほき外伝』も出回った。
1405 応永12 乙酉 ○1月29日、土御門有世、没す。  (己卯月/丙寅日
1407 応永14 丁亥 ○最古の南都暦「応永十四年版仮名暦」が作られる。
1414 応永21 甲午 ○賀茂在方、『掌中暦』『暦林問答集』を著す。
 →正三位・賀茂在弘の子で、陰陽師、暦学者。宮内卿、暦博、諸陵頭、陰陽頭となる。
1426 応永33 丙午 ○賀茂在方、正三位となる。
1430 永享2 庚戌 ○この頃に、会津暦の発行が始まる。
1436 永享8 丙辰 ○阿倍有宣、生れる。
1437 永享9 丁巳 ○現存する最古の三島暦が作成される。
1444 文安1 甲子 ○賀茂在方、没す。
1445 文安2 乙丑 ○賀茂在貞、賀茂家を勘解由小路家と称す。
1457 康正3
長禄1
丁丑 ○幸徳井家(賀茂)、この頃より南都暦を興福寺に進上。
1458 長禄2 戊寅 ○賀茂在盛、『吉日考秘伝』を著す。
 →賀茂在貞の子。漏刻博士、暦博士、陰陽頭。暦法に通じ、当時第一人者であった。
1465 寛正6 乙酉 ○琉球王朝において初めての暦が作成される。 
1467 応仁1 丁亥 応仁の乱おこる。 
1468 応仁2 戊子 ○京暦の作製の遅れにより、南都暦が別途に作暦したため、二つの暦に一日のズレがしょうじることとなる。 
1473 文明5 癸巳 ○善積川上神社が土御門家官人の管理となる。
1474 文明6 甲午 ○賀茂在盛、従二位となる。
1488 長享2 戊申 ○安部有宣、従二位、若狭下向(55歳)。
1500 明応9 庚申 ○8月15日、山本勘助、生れる。 
 →武田信玄の軍師として名高い。宿曜占術を用いたと言われている。(※生年月日は『山本勘助一代記略』による。出生地:三河国八名郡加茂郷〔現在の愛知県豊橋市賀茂町〕)
1501 文亀1 辛酉 ○安部有春、生れる。
1503 文亀3 癸亥 ○芦屋道海、生れる。
 →陰陽師(陰陽家)。芦屋道満の十世の孫を称する。陰陽道で播磨英賀城主三木氏に仕えた。
1508 永正5 戊辰 ○経師法橋良椿(りょうちん)、「三島暦」の支配権認可され版行する。
1513 永正10 癸酉 ○3月3日、安部有宣の若狭在住に伴う高札(下知)。
1525 大永5 乙酉 ○安倍有春、従四位陰陽頭となる。(25歳
1527 大永7 丁亥 ○安倍有脩、上村で生れる。父有春27歳。
1528 享禄1 戊子 ○芦屋道建、生れる。
 →陰陽師(陰陽家)。芦屋道海の甥。和漢の学に通じ、和歌を能くした。
1534 天文3 甲午 ○安倍有春、修理大夫兼陰陽頭となる。(34歳
○伊勢国司・賀茂茂杉太夫を暦司として、他国の暦の使用を停止。
1541 天文10 辛丑 ○6月22日、『五行大義』(卜部家伝・鈔本)を、卜部兼右が書写し終わる。 
1542 天文11 壬寅 ○12月26日寅刻、徳川家康、三河岡崎城にて生れる。
  (癸卯年/甲寅月/壬寅日/壬寅時
○安倍有脩、陰陽頭となる(16歳)。 
1543 天文12 癸卯 ○種子島にポルトガル船が来て、ユリウス暦を伝える。
1544 天文13 甲辰 ○9月11日、竹中半兵衛、生まれる。
 →戦国武将。秀吉の軍師として活躍した名将。(癸酉月/丁未日)
1549 天文18 己酉 ○ザビエル、キリスト教を伝える。 
1554 天文23 甲寅 ○陰陽頭賀茂在富、養子の在種(21歳)を殺害したため、後継ぎが絶える。それに伴って、土御門有春が天文・暦博士を兼任。

○正親町天皇、『医心方』を典薬頭・半井家に下賜。
 →『医心方』は丹波康頼によって、平安期に著された医学書で、長らく宮中に秘蔵され続けていたもの。
1555 弘治1 乙卯 ○安倍有春、京都に帰殿する。
○川中島の合戦。武田信玄vs上杉謙信。
1560 永禄3 庚申 ○5月19日、桶狭間の合戦で、織田信長が今川義元を討つ。
   (壬午月/甲申日)
○安倍久脩、生れる。(ひさなが)
 →公家、陰陽師、陰陽頭、天文博士。父は久脩。
1561 永禄4 辛酉 ○9月10日、山本勘助、第4回川中島合戦で戦死。
 →勘助は武田信玄の名軍師で、宿曜占術を用いたとも言われている。
  墓所:愛知県豊川市牛久保町八幡口97の長谷寺(ちょうこくじ)。
1562 永禄5 壬戌 ○安倍久脩が、“土御門”を称する。(土御門久脩となる)
1563 永禄6 癸亥 ○丹生暦と大阪暦に違いが生じたため、大阪暦が禁止される。
1565 永禄8 乙丑 ○賀茂在富、没す。→これにより、賀茂家が断絶する。(『言継卿記』)この為、安倍有高(安倍家の次男)が在富の養子に入る。更に、安倍有高の子で土御門を称した久脩が伯父有脩の養子となっ為、結局のところは、安倍・賀茂両家を継ぐ事となる。

○この頃に、『ホキ抄』が成立する。
1566 永禄9 丙寅 ○この頃、土御門有春が名田庄と京都と間を頻繁に往来する。
1569 永禄12 己巳 ○6月19日、土御門有春、没する。  (壬申月/辛酉日
1573 元亀4
天正1
癸酉 ○7月、室町幕府滅亡。織田信長によって15代将軍足利義昭が京都から追放され、幕府は事実上崩壊した。

○12月1日、沢庵宗彭、秋庭能登守綱典の次男として但馬国出石で生まれる。  (癸酉年/甲子月/丁未日)
 →臨済宗の僧で、大徳寺住持。紫衣事件で出羽国に流罪。書画・詩文・茶道にも通じていた。剣豪・柳生宗矩とも交流があり、宗矩に与えた書簡集『不動智神妙録』は、「剣禅一致」を説いている。

○土御門久脩、陰陽頭となる。










1575 天正3 乙亥 ○この頃、北条氏政が武蔵大宮暦を停止する。

○11月1日、土御門久脩、織田信長から朱印「上鳥羽拾石」を受ける。
1577 天正5 丁丑 ○11月18日、土御門久脩、織田信長から朱印「若狭領知行」を受ける。
1579 天正7 己卯 ○2月8日、芦屋道建、没す。  (丁卯月/甲申日
 →享年52歳、陰陽師。芦屋道海の甥。
○6月13日、竹中半兵衛、病没す。(享年36歳) (辛未月/丁亥日
 →秀吉の名軍師。宿曜占術をしたと言われている。
1580 天正8 庚辰 ○12月7日、芦屋道海、没す。  (己丑月/壬寅日
 →享年78歳、陰陽師、道満の孫を称す。

○土御門久脩、天文博士となる。
1582 天正10 壬午 ○6月2日、織田信長、尾張の暦師の訴えによって、土御門久脩を招き、閏月の有無について質す。

○同日夜、本能寺の変。織田信長、明智光秀に攻められ京都本能寺で自害する。(丙午月/戊子日)
1585 天正14 乙酉 ○豊臣秀吉、関白となる。
○日本耶蘇会が、ユリウス暦を廃止して、グレゴリオ暦を採用することになる。
 →ヨーロッパでは1582年にローマ法王グレゴリウス13世によって、ユリウス暦が廃され、新たにグレゴリオ暦が採用された。 (これが現在の西暦となっている。) 
1586 天正13 丙戌 ○1月8日、土御門泰重(やすしげ)、生れる。 (庚寅月/甲辰日)
公家、陰陽師、天文博士。(西暦2月26日)
1587 天正15 丁亥 ○豊臣秀吉が禁教令でキリスト教を禁止、陰陽道にも迫害を加える。
 →祝福の舞をする陰陽師 配下の萬歳師達は室町時代頃迄は京都周辺に多く住んでいたが秀吉が萬歳師たちを下等の民とみなして京都から追放する。 そのため萬歳師たちは尾張・三河などに移動して、尾張萬歳・ 三河萬歳の祖となる。
1590 天正18 庚寅 ○土御門久脩、『泰山府君祭神前供物記』を著す。

○この頃に、日本耶蘇会が教会暦を出版する。
1591 天正19 辛卯 ○2月28日、千利休、秀吉の命により自刃。(壬辰月/甲子日
1595 文禄4 乙未 ○7月、土御門久脩、「秀次事件」に連座する。秀吉は秀次の依頼で占った事を理由に、土御門久脩を尾張に追放する。この時に、重要な家伝の書が多く焼失・散逸してしまうこととなる。(『風俗見聞録』
1598 慶長3 戊戌 ○8月18日、豊臣秀吉没す。(63歳)  (辛酉月/辛未日










 
1600 慶長5 庚子 ○9月、関ヶ原の合戦。  (丙戌月/乙卯日

○10月9日、真田昌幸・幸村父子は「所領没収並びに高野山蟄居を命じ」られ、真田家の菩提寺である高野山蓮華定院に身を寄せた。
 →幸村はここで兵術や天文を学び、捲土重来を期す。

○土御門久脩、出仕の命を受けて、若狭名田庄上村から上京し、梅小路村に住み、百八十石を受けた。
1601 慶長6 辛丑 ○土御門家、若狭(名田庄)から京都へ帰館する。
1603 慶長8 癸卯 ○徳川家康、征夷大将軍となり江戸幕府を開く
 →家康の影の宗教参謀として力量を発揮した天海僧正は、家康に進 言して江戸を京都と同様に四神相応の地として風水的に作り上げる。 又天海は大名達の誕生日から宿曜の本命星を調査し、家康や他の大 名達との相性を見て、領地等の配置換えの進言をしたと言われている。

○徳川家康、土御門家を再興。 土御門家は全国の陰陽師をまとめる立場となる。<土御門神道>誕生へとつながってゆく。
1604 慶長9 甲辰 ○武蔵大宮の暦師が、三島暦の偽暦を作ったことで、処罰を受ける。
1607 慶長13 丁未 ○林羅山が儒学者として幕府に当用される。
1613 慶長18 癸丑 ○院御経師・菊沢家に京暦発行の院宣が下りる。
1615 元和1 乙卯 ○大阪夏の陣。
 5月7日、真田幸村、討死。(49歳
 →幸村は天文を見、宿曜占術をしたと言われている。
 5月8日、秀頼・淀君ら自害、豊臣家滅亡。
 (辛巳月/甲寅日

○現存する最古の京暦が作られる。
1616 元和2 丙辰 ○4月17日巳刻、徳川家康、駿府城にて没する。
  (癸巳月/丁巳日/乙巳時
 →死因について、鯛の天麩羅にあたったとする説があるが、最近の説では、諸症状から胃の持病又は胃癌ではないかと見られている。

○「駿河御讓本」が尾張藩にもたらされる
 →家康の遺品は、多くが尾張・水戸・紀州の御三家に分譲されたが、この時、家康の蔵書3千冊が尾張家に譲られ、この移譲本を元にして、尾張藩の「御文庫」が形成された。これら家康の遺品とされる書籍類を「駿河御讓本」という。御讓本の中には『昌黎先生碑誌 二巻 二冊』も含まれ、初代尾張藩主徳川義直の蔵書印「御本」が押された、この碑誌には、推命学の祖・李虚中に対する昌黎先生・韓愈の書いた「殿中侍御史李君墓誌銘」も含まれている。
1618 元和4 戊午 ○織田有楽斎が、暦張りの茶室「如庵」を建仁寺の境内につくる。
 →有楽斎は織田信長の弟。これ以後、暦張りの茶室が流行する。
1621 元和7 辛酉 ○土御門久脩、従三位に叙せられる。
1625 寛永2 乙丑 ○6月18日、土御門久脩、没す。 (癸未月/乙未日)

○11月、天海僧正の発願により忍岡に、江戸の守りとして上野・寛永寺を建立した。→「伝教大師、皇城の鬼門叡山の霊地に営み、帝都の鎮護として千余……、今これに準擬し忍岡は江城の鬼門たり……七堂伽藍を経営し、武繁栄を祈らん」(『大猷院実紀』より)
1626 寛永3 丙寅 ○閏4月5日、くろ柳寿学、没す。
 (G暦5月30日、癸巳月/丁未日)
 畔柳寿学は徳川家康の家臣。陰陽道にも通じたテクノラート(土木建築技官)として代官・奉行などを務めた。土建系の特殊技術者でありながら陰陽師も兼ねたとされる。家康隠居の地であった駿府の町造りに貢献し、彦坂光正・友野宗善と共に「駿府城下町造り三奉行」と呼ばれる。また、岡崎の大樹寺・土呂八幡宮なども再建。また、中国・唐代の叢書『群書治要』を家康が版行する作業にも参加している。
 法名「傅叟壽学居士」。墓所は円福寺(愛知県岡崎市岩津町檀ノ上85)
1631 寛永8 辛未 ○伊勢暦の製作が始められる。
1634 寛永11 甲戌 ○現存する最古の木版活字印刷による会津暦が作られる。
1635 寛永12 乙亥 ○土御門泰重、従三位に叙せられる。

○11月、種村肖推寺(たねむらしょうすいじ/種村三郎四郎)が、尾張徳川家に献本した数々の文献(54部256冊)の中に、易書・推命書が含まれていた。
<易書>              
『康節先生易鑑明断全書 不分巻2冊』(宋・邵雍撰、不著編人)      
『火珠林 1巻1冊』(宋・麻衣道者)
『新刻筮林総括断易心鏡大成 3巻3冊』(明・夏青山撰)     
『新ィ纂集諸家全書大成断易天機 6巻図1巻5冊』(別名:鬼谷源流断易天機、明・劉世傑撰、徐紹錦校正)

<推命書>              
命理正宗 四巻1冊』(明・張楠撰、万暦3年・高応芳序、鄭継華宗文堂・氏西清堂)を献本する。
      
※種村肖椎寺献本の諸書は現在、蓬左文庫(名古屋・徳川園に所在、名古屋市が管理)に所蔵されている。ちなみに、寛永12年、高応芳の序文(本書刊行年)より60年後のことであり、更には、桜田虎門が文政元年(1818年)に『推命書』が刊行する、何と183年前のことであった。江戸初期に既に、四柱推命の原書が日本に招来されていたのでる。恐らく、推命に対する構造的知識のない当時の漢学者達には、漢文そのものは読めても理解不能であったことだろう。
※種村三郎四郎は元柴田勝家の遺臣で、後に前田家にも属したとされ、後に京都に隠棲し琵琶を弾いていたという。平成14年に放送されたNHK大河ドラマ「利家とまつ」で、俳優・高杉航大が種村三郎四郎役を演じた。
1637 寛永14 丁丑 ○10月25日、島原の乱、勃発。  (壬子月/庚申日
 →この日、代官の横暴に怒った有馬の農民に、代官・林兵左衛門が殺害されたこ事件に端を発する。この乱は九州島原地方で圧政に苦しむ農民とキリシタン及び浪人達が蜂起した大規模な内乱的一揆であったが、旧有馬氏の家臣が組織化して反乱を企てたもの。途中から一揆の旗印として宗教的なカリスマ性った少年・天草四郎(当時14歳/本名は益田四郎時貞)が担ぎ出されたもの、純粋な宗教一揆とは言えない。
1638 寛永15 戊寅 ○2月28日、島原の乱が終結。 (丙辰月/壬戌日
 →前日(辛酉日)からの総攻撃を受け、この日、原城が陥落した。この戦闘での幕府軍側の死者は約4千人、一揆側の死者は僅かに100人程度だったという。ちなみに、かの宮本武蔵もこの戦に参加し、投石で負傷している。武蔵は延岡城主の有馬直純に宛てた書状の中で「拙者も石ニあたりすねたちかね」と書いている。
1639 寛永16 己卯 ○閏11月、渋川春海、京都に生まれる。
 →暦学者。日本発のオリジナル暦である「貞享暦」を作る。
1642 寛永19 壬午 ○伊勢において白人素人暦師も作暦を始める。
1643 寛永20 癸未 ○宮本武蔵、『五輪書』の執筆を開始。 (ごりんのしょ
 →兵法書。熊本市近郊の金峰山にある岩戸の霊巌洞にて著す。『五輪書』は武蔵の代表的な著作。書名の由来は仏教の五大(五輪)に当てはめたもので、「地・水・火・風・空」の5巻からなる。
1645 正保2 乙酉 ○5月19日、宮本武蔵、没す。  (壬午月/辛丑日
  熊本城内にあった千葉城の屋敷にて。
 →剣豪・兵法者。二刀流。著書『五輪書』。書画にも秀で、重要文化財指定の『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』の他達磨図なども有名。茶や禅にも親しんだ。

○12月11日、沢庵宗彭、江戸で没す。  (己丑月/己丑日
 →臨済宗の僧。紫衣事件で流罪。文人。
1648 慶安1 戊子 ○賀茂友傅(ともすけ)、生れる。
 →陰陽頭・賀茂友種の子。陰陽頭・暦博士・従四位下となる。
1649 慶安2 己丑 ○土御門泰重、従二位に叙せられ、天文博士となる。
1655 明暦1 乙未 ○6月20日、土御門泰福生まれる。  (癸未月/癸酉日
 →陰陽師・安倍晴明の後裔、後に土御門神道を興す。
1657 明暦3 丁酉 ○水戸光圀『大日本史』の編纂を始める。

○現存する最古の丹生暦が製作される。
1659 万治2 己亥 ○現存する最古の江戸暦が製作される。
1660 万治3 庚子 ○現存する最古の泉州信太暦が製作される。
1661 万治4
寛文1
辛丑 ○賀茂友傅、陰陽頭となる。

○8月19日、土御門泰重、没す。76歳(西暦9月12日
1662 寛文2 壬寅 ○『安倍晴明物語』が刊行される。
 →著者:浅井了意。後世の晴明伝説の原型を形作る。
1664 寛文4 甲辰 ○現存する最古のなまず絵「いせこよみ」が、江戸で製作される。
1666 寛文6 丙午 ○2月22日、賀茂友信、生れる。  (辛卯月/癸亥日
 →賀茂友傅の子。暦博士。
1669 寛文9 己酉 ○遠藤黄赤子、生まれる。
 →天文家。渋川春海の弟子。天文方。

○松田順承、『春秋述暦』を著す。
1673 寛文13
延宝1
癸丑 ○小川正意、『授時暦経』『授時暦経立成 』を刊行する。
  →和泉堺の暦法家。
1674 延宝2 甲寅 ○現存する最古の仙台暦が製作される。
1676 延宝4 丙辰 ○『しのだつまつりぎつね 付きあべノ晴明出生』という古浄瑠璃が刊行される。 →晴明に関する「信太妻伝説」が巷間流布する元となった作品。

○忍術兵法書『萬川集海』(ばんせんしゅうかい/22巻・別巻1)が伊賀の忍者・藤林左武次保武(冨治林保高)によって書かれる。
 →保武は伊賀三大上忍・藤林長門守の子孫。本書中・第六巻「天時篇」には「遁甲日時之事」という項目がある。
1680 延宝8 庚申 ○新井源説、『八卦小鏡』を著す。
 →新井源説は江戸時代前期の易学家で、江戸湯島天神前に住し、易学で一家をなし「大日本一流」と称した。

○関孝和『授時発明』を著して、改暦を検討する。
1682 天和2 壬戌 ○11月12日、賀茂友傅、没す。(享年35歳。一説、12月13日

○土御門泰福、兵部少輔・陰陽頭となる。
1683 天和3 癸亥 ○土御門泰福、諸国の陰陽師を支配して免許する勅許を得る。

○渋川春海が再度改暦を出願。

○保井昔尹、生れる。(ほいひさただ
 →天文家、幕府天文方、渋川春海の子。
1684 貞享1 甲子 ○10月29日、約800年ぶりに改暦(貞享暦)が成された功績により、渋川春海が幕府天文職に就くこととなる。
 →この貞享暦は初の日本独自暦でもあり、土御門泰福は渋川に協力している。

○この頃に、土御門泰福が「土御門神道」を創唱する。
1685 貞享2 乙丑 ○6月27日、土御門泰連(やすつら)、生れる。(癸未月/丙辰日
 →公家、陰陽師、陰陽頭。著書『泰連卿記』。(西暦7月28日)

○渋川春海の貞享暦を実施。(日本初の国暦/大和暦を改称)
 ※渋川は当時まだ囲碁名である安井算哲を名乗っていた。
1696 元禄9 丙子 ○平石時光、生れる。 →暦算家、近江彦根藩士。
1698 元禄11 戊寅 ○土御門泰福、従三位となる。

○土御門泰連、陰陽頭となる。
1699 元禄12 己卯 ○『五行大義』の元禄刊本。(元弘写本を藍本としている)
 →一色時棟によって、『抱朴子』『捜神記』『二酉記』等と共に公刊される。この元禄刊本によって、『五行大義』が、一部の陰陽家や一部専門家の専有物ではなく、一般にも広く流通し始める。この元禄刊本には三つあり、京師井上忠兵衛刊/京師天王寺屋市郎兵衛刊/大阪象牙屋治郎牙兵衛刊。
1701 元禄14 辛巳 ○1月1日、日蝕が見られる。初日の出が欠けたまま昇る。←この日蝕を渋川春海は「暦法手帖」の中で予言していた。

○3月14日巳刻、刃傷松之廊下事件。(西暦では4月21日
  (壬辰月/辛丑日/癸巳時

○穴沢杳斎(ようさい)、生れる。
 →暦学家、漢学者、米沢藩士。地動説を唱えた。
1702 元禄15 壬午 ○10月1日、賀茂保篤、生れる  (辛亥月/戊寅日
 →陰陽師、暦学者、暦博士、従四位上。

○12月14日、赤穂浪士の討入事件。(西暦では翌年の1月31日
 →実際の襲撃日時は、翌朝(15日)の未明(午前4時頃/寅刻)であったが、江戸時代の習慣では、日の出までを以って1日の始まりとし、従って、寅刻までは、前日扱いとなり、14日の討ち入りとされている。 (討入日時:癸丑月/辛卯日/庚寅時)
 ※安田靖先生は母方が四十七志の一人、大石瀬左衛門の子孫であるとのこと。横浜在住の紫微斗数の某先生は赤埴源蔵の子孫とのこと。
○前年の元旦の日食を予測出来たことに自信をもった安井算哲は渋川春海(はるみ)を名乗る。「安井算哲」の名は幕府公認の碁方(囲碁)の棋院四家の安家の世襲名であった。
1703 元禄16 癸未 ○馬場信武、『秘密符法』を著す。
1704 宝永1 甲申 ○山路主住、生れる。(やまじぬしずみ
  →天文家、暦算家、幕臣、宝暦の改暦事業に携わる。
1706 宝永3 丙戌 ○馬場信武、『初学天文指南』を著す。 
1709 宝永6 己丑 ○遠藤黄赤子、『昼夜長短之図』を刊行。 
1711 正徳1 辛卯 ○8月8日、土御門泰邦、生まれる。  (丁酉月/乙丑日
 →公家、陰陽師、陰陽頭、天文博士。土御門泰福の三男。(西暦9月20日)
1714 正徳4 甲午 ○土御門泰福、従二位となる。
1715 正徳5 乙未 ○1月19日、馬場信武、没す。  (戊寅月/丙辰日
 →易学、梅花心易、軍記作者、医者。

○4月4日、保井昔尹、没す。 (辛巳月/己巳日
 →享年33歳。天文家、天文方、春海の子で家督も継ぐが春海より早く亡くなる。

○10月6日、渋川春海、没す。 (丙戌月/戊辰日
 →暦学者。「貞享暦」を作る。

○新井白蛾、江戸で生れる。
 →易学、儒学。『易學小筌』『古周易経断』等を著す。
1716 享保1 丙申 ○遠藤黄赤子、『天地儀解』を著す。
1717 享保2 丁酉 ○6月17日、土御門泰福、没する。  (丁未月/庚子日
 →墓所:京都真如堂。
1718 享保3 戊戌 ○幕府が、暦本の私製版の刊行を禁止。

○馬場信武、『通俗続後三国志』を刊行する。
1721 享保6 辛丑 ○『安倍晴明秘傳見通占巻 上下二巻』の写本が成立する。
 →土御門家に伝わる秘伝書で、相談日の十二支毎に相談者の来る方位によって、占断するもの。
1722 享保7 壬寅 ○土御門泰連、従三位・治部卿となる。

○土御門泰邦、陰陽頭となる。
1723 享保8 癸卯 ○5月25日、賀茂友信、没す。  (戊午月/癸卯日
 →享年58歳、陰陽師、暦学者。
1729 享保14 己酉 ○山路之徽(やまじゆきよし)、生れる。
 →天文家、暦算家、幕臣、山路主住の子。
1730 享保15 庚戌 ○1月4日、賀茂保ロ(やすあきら)、生れる。(庚戌年/戊寅月/癸酉日
 →陰陽師(陰陽家)、暦学者、陰陽頭
1731 享保16 辛亥 ○拝村正長、『授時暦推歩』を著す。
1732 享保17 壬子 ○賀茂保篤、暦博士となる。
1734 享保19 丁巳 ○2月6日、麻田剛立、生まれる。  (丁卯月/壬子日
 →天文学者、暦学者、医者。門下生から高橋至時・間重富・山片蟠桃らの優秀な人材を輩出した。養継嗣に麻田立達。

○7月23日、遠藤黄赤子、没す。  (戊申月/庚戌日
 →享年66歳。天文家。天文方。

○浄瑠璃『芦屋道満大内鑑』が初演される。
 →竹田出雲作。芦屋道満が善玉として扱われている。
1736 享保21 丙辰 ○『宿曜要訣』三巻(覚勝)→覚勝は奈良県にある柴水山吉祥寺の僧。この時、覚勝は日本に伝承されていた古写本の『宿曜経』を比較検討し、加えて高麗本と明本における異読をも頭注に記載して、覚勝本『宿曜経』として出版する。
1737 元文2 丁巳 ○3月、『日本居家秘用』(三宅建治編)が原刻される。
 →家相に関する書。
1738 元文3 戊午 ○船山輔之、生れる。(ふなやすけゆき
 →天文家、和算家、天文方に属す。
1739 元文4 己未 ○伊豆暦の頒布が伊豆と相模の二国に限定される。
1740 元文5 庚申 ○原田茂嘉、生れる。 →暦算家、岡山藩士。
1743 寛保3 癸亥 ○賀茂保篤、従四位上となる。
1744 延享1 甲子 ○5月28日、賀茂保敬(やすゆき)、生れる。  (辛未月/乙巳日
 →陰陽師、暦学者、賀茂保篤の次男。
1745 延享2 乙丑 ○吉田秀升、生れる。(よしだひでのり) →天文家、幕臣、天文方。 
1747 延享4 丁卯 ○1月、堀田仁助、生れる。 →天文家、暦算家、津和野藩士。

○土御門泰連、従二位に叙せられる。

○徳川吉宗、改暦の命を出し、市井の西川正休を天文方に任命する。
1748 寛延1 戊辰 ○12月23日、賀茂保篤、没す。  (己巳年/丙寅月/癸卯日
 →享年47歳、暦学博士。
1750 寛延3 庚午 ○土御門泰邦、従三位・治部卿となる。

○森篤恒、生れる。(もりあつつね
 →天文家、暦算家、水戸藩に出仕し、彰考館に入る。

○西川正休、渋川則休が上京し改暦の準備を始める。
1751 宝暦1 辛未 ○松井羅洲、生れる。
 →易学、漢文学者。後世の易学者達に多大な影響を与えた人物。
1752 宝暦2 壬申 ○7月27日、土御門泰連、没す。68歳(西暦9月5日) (戊申月/丙戌日
1754 宝暦4 甲戌 ○土御門泰邦、『暦法新書』を献上し宝暦の改暦をする。この頃、大小暦が流行。

○新井白蛾、『梅花易評註』『易學小筌』『古易精義』を著す。

○真勢中洲、尾張の国で生れる。→易学、五行易(断易)、「真勢流」。

○賀茂保ロ、陰陽頭となる。
1755 宝暦5 乙亥 ○宝暦の改暦が施行される。
 →土御門泰邦作成の改暦案は貞享暦の定数を少し変えた程度で、実効のないものであった。

○『五行大義』を、卜部兼雄が転写する。
 →天理図書館内・吉田文庫所蔵。
1756 宝暦6 丙子 ○3月8日、間重富、生れる。(はざま・しげとみ)  (壬辰月/丙子日
 →天文家・暦算家。麻田剛立の弟子。寛政改暦における中心的な役割を果たす。

○土御門泰邦、天文博士となる。

○井田亀学、生れる。→易学家。備中松山藩士。

○新井白蛾の『古易一家言』(2巻)が大阪の書店から刊行され、
 3500部のベストセラーとなる。
1757 宝暦7 丁丑 ○小説『泉州信田白狐伝』が刊行される。
 →僧・誓誉(せいよ)編述の安倍晴明にまつわる伝奇小説。

○水野南北、生れる。
 →相法家。相法で一家をなす。『南北相法』
1758 宝暦8 戊寅 ○10月4日、土御門泰栄、生れる。(西暦11月4日、やすなが
 →公家、陰陽師、陰陽頭、天文博士。  (壬戌月/丁巳日)
1759 宝暦9 己卯 ○新井白蛾、『古周易経断』(内外編共10巻)を著す。 
1760 宝暦10 庚辰 ○松尾駿淵、生れる。 →暦算家、陸奥八戸藩士。
1761 宝暦11 辛巳 ○山路徳風、生れる。(やまじよしつぐ
 →文家、暦算家、山路之徽の養子。
1763 宝暦13 癸未 ○9月1日、日食が観測されるたが、土御門泰邦の作った宝暦暦では記載がなく、暦の欠陥が指摘される。この事は麻田剛立などの民間の暦学者から事前に誤りを指摘されていた。この日の日食を川谷致真(土佐藩士の暦学家)が予測する。
  →(かわたに・むねざね)藩主山内豊敷より賞せられ、翌年に扈従格に昇進する。
1765 明和2 乙酉 ○能楽「泰山府君」を十五世観世大夫元章(もとあきら)が復活させる。以後、土御門家と縁があった金剛流によって演じられるようになる。
1767 明和4 丁亥 ○12月21日、由良時ェ(ゆら・ときざね)、生れる。
 →暦算家、伊勢亀山藩士。  (戊子年/甲寅月/辛巳日)
1769 明和6 己丑 ○足立信頭(のぶあきら)、大阪で生れる。
 →暦学家、寛政の改暦に参加、幕臣。
1771 明和8 辛卯 ○8月12日、平石時光、没す。
  →享年76歳。暦算家、近江彦根藩士。

○8月21日、麻田立達、生まれる。
 →天文学者。麻田剛立の養継嗣。

○「明和の修暦」が行われる。→幕府天文方佐々木長秀らが宝暦暦を修正する。

○土御門泰邦、正二位・兵部卿となる。
1772 安永1 壬辰 ○12月11日(14日とも)山路主住、没す。
 →享年69歳。天文家、暦算家、幕臣。
1773 安永2 癸巳 ○箕曲在六、生れる。 →暦算家。代々「伊勢暦」を版行。

○森篤恒、天文暦学を以って水戸藩に出仕する。
1774 安永3 甲午 ○4月23日、桜田虎門、仙台で生れる
 →仙台藩の儒学者、推命学の書を日本で初めて著す。著書多数。易学、五行易。(甲午年/己巳月/丙午日)
1775 安永4 乙未 ○土御門泰栄、陰陽頭となる。
1777 安永6 丁酉 ○山路諧孝、生れる。(やまじゆきたか)
 →天文家、暦算家、幕臣、山路徳風の子。
1778 安永7 戊戌 ○1月30日、山路之徽、没す。
 →享年50歳。天文家、暦算家、幕臣。
1779 安永8 己亥 ○宇仁富元(うにとみもと)、生まれる。
 →占卜家、易学、方位家、神職。宇仁館信富と同一人物?
1780 安永9 庚子 ○4月2日、横山丸三(まるみつ)、江戸小日向にて生れる。
 →淘宮術の祖。奥野氏の天源術に開運法をプラスして淘宮術を考案。
1781 天明1 辛丑 ○平沢随竜、生れる。
 →易占家、平沢随貞の孫、江戸西久保広小路に住した。
1782 天明2 壬寅 ○幕府が浅草天文台を建てる。
1783 天明3 癸卯 ○疋田慶明、『家相秘録』を刊行する。

天明の大飢饉が起こる。

○現存する最古の田山暦が製作される。
1784 天明4 甲辰 ○1月11日、穴沢杳斎、没す。84歳(西暦2月1日) 
 →暦学家、米沢藩士。地動説を唱えた。

○2月23日、金印(倭奴国王印)が福岡志賀島にて発掘される。(国宝に指定) →「後漢書」倭伝にある「建武中元二年(57)倭の奴国貢ぎを奉って朝賀す…光武賜うに印綬を以てす。」の記述に相当するものと見られている。

○5月9日、土御門泰邦、没す。74歳(西暦6月26日)(庚午月/癸亥日
1786 天明6 丙午 ○麻田剛立、自家製暦の『麻田暦』を作製する。

○間重新、生れる。(はざま・じゅうしん)
 →天文家。間重富の長男。観測器機の改良と製作に尽力した。
1787 天明7 丁未 ○12月8日、土御門晴親、生れる。  (癸丑月/辛丑日
 →公家、陰陽師、陰陽頭。

○陰陽師は寺社奉行の支配となる。 
1788 天明8 戊申 ○井田亀学、『易学余考』を著す。→この頃、亀学は京都に住す。

○幕府に、オランダ人の永続暦(太陽暦本)が献上される。
1790 寛政2 庚戌 ○この頃に、現存する最古の薩摩暦が製作される。
1791 寛政3 辛亥 ○12月13日、賀茂保救(やすひら)、生れる。  →陰陽師、暦学者。

○陰陽道にたずさわる場合には土御門家より免許を得ることになる。
 →全国に陰陽家触頭が置かれる。(『御触書天保集成』下)

○新井白蛾、金沢藩主・前田治脩の招きによって、金沢に行く。

○山路徳風、西洋暦法で七曜暦を作成する。
1792 寛政4 壬子 ○5月14日、新井白蛾、没する。  (丙午月/辛亥日
 →77歳、加賀藩屋敷内で没す。

○馬場信武の『梅花心易掌中指南』刊行される。

○幕府は天文方・山路才助に命じて『崇禎暦書』による試暦させる。
 (翌年に完成)
1795 寛政7 乙卯 ○麻田剛立、幕府から改暦の役目を依頼されたが、老齢であることを理由に辞退。

○間重富、幕府の暦作御用を命ぜられ、江戸に行く。
 →寛政改暦における中心的な役割を果たす。
1796 寛政8 丙辰 ○桜田虎門、江戸を出て麹渓書院の服部栗斎に師事する。

○足立信順(のぶより)、生れる。
 →暦学家、幕臣(天文方)。

○細川頼直、没す。(暦算家。改暦助手
1798 寛政10 戊午 ○寛政暦を頒布。
1799 寛政11 己未 ○5月22日、麻田剛立、没す。 →享年66歳、天文学者、医者。

○吉田江沢、生れる。(よしだこうたく) →天文家、易学・和算に精通、近江の人。

○林述斎、『五行大義』を『佚存叢書』(第一輯)に収める。

○寛政増続古暦便覧、懐宝長暦便覧に私年号や、今後10年間の新しい暦を加えたことにより、絶版を余儀なくされる。

○役小角、光格天皇から神変大菩薩の贈名を賜わる。
1800 寛政12 庚申 ○天文方の高橋至時が活躍する。ラランデ暦書の翻訳が始まる。
1801 享和1 辛酉 ○中井履軒が「華胥暦」(東洋的太陽暦)を作製する。
1802 享和2 壬戌 ○3月8日、賀茂保ロ、没す。  (甲辰月/己卯日)
 →享年73歳。陰陽頭、暦学者。

○4月1日、井田亀学、没す。
 →享年47歳。易学家。備中松山藩士。

○6月、吉田秀升、没す。
 →※3月18日とも、享年58歳。天文家、幕臣天文方。

○山片蟠桃が『夢の代』において「華胥暦」を継承して、享和二年暦を作製する。
1804 文化1 甲子 ○9月12日、船山輔之、没す。  →享年67歳。天文家、和算家。

○土御門晴親、陰陽頭となる。
1805 文化2 乙丑 ○土御門泰栄、天文博士となる。

○山本時憲、幕命により暦作御用手伝として、浅草天文台に奉職する。以後、天文方としての勤めをする。
1806 文化3 丙寅 ○12月25日、土御門泰栄、没す。49歳(西暦1807年2月2日
  (辛丑月/戊戌日
1807 文化4 丁卯 ○11月、原田茂嘉、没す。(享年68歳。暦算家、岡山藩士

○桜田虎門、仙台藩の儒官となる。

○福田金塘、生れる。→暦算家、和算家、司天台師範代。
1808 文化5 戊辰 ○7月20日、賀茂保行、生れる。  (辛酉月/甲申日
 →陰陽師、暦学者、権陰陽助、従四位下。

○森篤恒、『本朝五暦法』を著す。
1809 文化6 己巳 ○檜山富宣、生れる。→暦法家、彰考館に入る。

○間重新、幕府より測量御用を命ぜられる。
1810 文化7 庚午 ○1月27日、山路徳風、没す。  (戊寅月/壬午日
 →享年50歳。天文家、暦算家。

○滝沢馬琴、随筆『燕石雑志』を刊行。
 →この中で四柱推命のことを「八字」、命学家のことを「禄命家」という表現で触れている。この随筆部分は、生まれ年の「丙午」のみを忌み嫌うのは意味がないと論じている部分に、中国の推命家の説について触れたもの。
 原文は下の如し。
 「宋より以降人の命運を談ずるものは、かならず八字を唱ふ。只その年をのみ忌、その日をのみ忌というよしを聞かず。…(中略)… しかりとも禄命家の説に、生れたる年をのみ取るということは絶えてなし。かゝれば丙午の年をもや。」

○盛岡舞田屋より、現存する最古の南部盲暦が刊行される。
1812 文化9 壬申 ○賀茂保救(やすひら)、暦博士となる。
1814 文化11 甲戌 ○賀茂保敬(やすゆき)、従三位に進む。

○随筆『塵塚談』(ちりづかばなし)が書かれる。
 →著者の町医者・小川顕道は小石川養生所肝煎後見人で、当時79歳であったが、その中で文化年間に町には占い師達が多数横行していたさまを、次のように書き残している。「占卜者。人相、家相、剣相、墨色見など種類多し。諸所に居住し、渡世をする者、数百人あるべし。中にも高名なるもの立派に暮すなり。また辻々往来へ出て生計とする者一町毎に一人づつは極めて居れり。千をもって数ふべし。」
1816 文化13 丙子 ○3月24日、間重富、没する。
 →享年61歳。天文家・暦算家。

○10月3日、賀茂保源(やすもと)、生れる。  (己亥月/戊寅日
 →陰陽師、暦学者、賀茂保救の次男。

○桜田虎門、『五行易指南』(10巻)を刊行する。
 →この著作中で桜田虎門が初めて従来の「断易」を「五行易」という名称で呼んだとされている。

○村田明哲、生れる。 →天文家、陸前仙台藩士。
1817 文化14 丁丑 ○2月2日、真勢中洲没す。(4日とも)
 →享年64歳。易学、五行易、真勢流。
1818 文政1 戊寅 桜田虎門、『推命書』を刊行する。 →日本初の推命学に関する書。徐升の『淵海子平』を参照して訳したものと思われる。

○森篤恒、没す。 →享年69歳。天文家、暦算家。
1819 文政2 己卯 ○3月1日、賀茂保敬(やすゆき)、没す。  (丁卯月/癸巳日
 →享年76歳、陰陽師。

○藤井三郎、生れる。→暦算家、天文方手伝、加賀金沢藩士。
1820 文政3 庚辰 ○賀茂保久、『方家図説』を刊行する。
 →肥前草野庄玉嶋の人。大阪過書町心斎橋東に住す。字は伯岳。通称は丹後。号は峨山。
1822 文政5 壬午 ○2月、松井羅洲、没す。

○吉田徳謙(よしだ・のりかた)、『八宅明鏡便覧』を刊行する。
 →卜占家。

○根本通明(ねもと・みちあき)、秋田県仙北郡刈和野村で生まれる。
 →漢学の碩学で易学の大家。明治天皇に「易経」の講義をしたことでも知られる。東京帝国大学教授。『周易講義』他の著作あり。五行易(断易)中興の祖・九鬼盛隆が師事したこともある人物。あくまでも学者(博士)であって、占術家ではない。
1823 文政6 癸未 ○幕府が民間での作暦を禁ずる。
1827 文政10 丁亥 ○土御門晴雄(はれたけ)、生れる。→公家、陰陽師、陰陽頭。
1828 文政11 戊子 ○シーボルト事件起こる。
 →天文方・高橋景保がシーボルトに国外持ち出し禁止の日本地図を贈ったことが発覚し、投獄される。高橋景保は翌年、獄中で病死した。シーボルトも翌年に国外追放される。
1829 文政12 己丑 ○9月5日、堀田仁助、没す。 →享年83歳。天文家、暦算家。

○山路諧孝、シーボルト事件に関わった高橋景保の後任として蕃書和解御用を命じられ、暦の編集に携わる。

○松浦善右衛門、大阪に京暦の弘暦所を開設する。
1830 天保1 庚寅 ○12月17日、由良時ェ、没す。→享年64歳。暦算家、伊勢亀山藩士。
1832 天保3 壬辰 ○11月3日(新暦11月24日)、高島嘉右衛門が江戸で生れる
 →実業家でありながら「易聖」といわれる。  (辛亥月/乙巳日)

○『醫道便易大成』(平沢随貞)
1833 天保4 癸巳 ○12月21日、平沢随竜、没す。(享年53歳。易占家、随貞の孫

○浅野数馬開暦の秋田暦が発行される。

○『五行大義』(元禄刊本)が重刊される。
1834 天保5 甲午 ○11月11日、水野南北、没す。  (丙子月/壬申日
 →享年78歳。相法で一家をなす。

○横山丸三、「天源淘宮術」(「開運淘宮術」)を創始。
1836 天保7 丙申 ○桜田虎門、『鼓缶子文草』を著す。
1837 天保8 丁酉 ○山路諧孝、寒暖計を製作し、幕府に献上して褒賞を賜わる。
1838 天保9 戊戌 ○1月2日、間重新、没す。(享年53歳。天文家。間重富長男。
1839 天保10 己亥 ○10月3日、桜田虎門、没す。  (乙亥月/乙丑日
 →西暦11月8日、墓所:仙台阿弥陀寺。
1841 天保12 辛丑 ○6月10日、宇仁富元、没す。 →享年63歳、占卜家、易学、神職。

○10月21日、足立信順、没す。
 →享年46歳、暦学家、幕臣=天文方。

○山路諧孝、『西暦新編』を著す。
1842 天保13 壬寅 ○土御門晴親、正二位。『新法暦書』(天保壬寅元暦)を校閲、奏進する。

○6月28日、土御門晴親、没す。56歳  (丁未月/乙巳日

○土御門晴雄、陰陽頭となる。
1843 天保14 癸卯 ○天保暦。(初めて惑星に楕円軌道を採用した正確な太陰太陽暦

○横山丸三、落髪して丸三の道号を用いる。

○吉田江沢、『方鑑日撰発蒙捷径』を著す。
1844 弘化1 甲辰 ○天保暦を頒布。
1845 弘化2 乙巳 ○7月1日、足立信頭、没す。(享年77歳、暦学家、23日とも

○平沢白翁、『家相千百年眼』を刊行。
1846 弘化3 丙午 ○山路彰常、天文方となる。 →天文家、暦算家、山路諧孝の子。
1848 嘉永1 戊申 ○8月28日、藤井三郎、没す。→享年30歳。暦算家、加賀金沢藩士。

○賀茂保救(やすひら)、従四位上に進む。
1849 嘉永2 己酉 ○『宿曜経撮要』一巻(堅雄)
 →堅雄は東京渋谷の室泉寺第九世住職。口伝に基いて著わす。
1852 嘉永5 壬子 ○1月23日、賀茂保救(やすひら)、没す。 (壬寅月/甲辰日
 →62歳。過去帳は28日。

○賀茂保行、権陰陽助、従四位下となる。
1853 嘉永6 癸丑 ○9月、式年祭の折に、荒廃した京の晴明神社社殿を整備改修する。
1854 嘉永7
安政1
甲寅 ○賀茂保源(やすもと)、暦博士となる。

○8月13日、横山丸三、没す。(享年75歳) (癸酉月/己酉日
1856 安政3 丙辰 ○幕府、天文方に命じて『万国普通暦』の刊行を開始する。
1858 安政5 戊午 ○檜山富宣、没す。 →享年50歳。暦法家、彰考館。
1859 安政6 己未 ○6月2日、高島嘉右衛門、横浜本町四丁目に「備前屋」を開く。
  (庚午月/庚子日

○土御門晴雄、従三位に叙せられる。
1860 万延1 庚申 ○3月3日、桜田門外の変で、大老・井伊直弼死す。(新暦3月24日
  (己卯月/丁卯日

○高島嘉右衛門、罪を問われ入牢。←禁制の金銀貨の売買を行なったため捕われる。

○『干支録』(葛城昇斎伝、滝沢玄冲校)が刊行される。
1861 文久1 辛酉 ○5月30日、山路諧孝、没す。(享年85歳。天文家、暦算家、幕臣

○山路彰常、『太陰暦細草』を著す。
1862 文久2 壬戌 ○5月23日、松本義亮(よしあき)、佐賀で生れる。 (丙午月/乙巳日
 →初代天祥館館主。推命学に「四柱」の字を冠してを「四柱推命」と名づける。『四柱推命奥義秘傳録』。虎門流。
1864 元治1 甲子 ○土御門晴雄、正三位に叙せられる。
1865 慶応1 乙丑 ○10月、高島嘉右衛門、釈放される。
 →入牢中の6年の間に、『易経』を暗記し、こよりで筮竹を、割り箸で算木を作って、占い始める。釈放も占いが当った褒美で釈放されている。
1867 慶応3 丁卯 ○櫻井大路(初代)、生れる。
 →櫻井大路流観相の大家。高木乗の命理学会の顧問も務める。初代高木乗によれば櫻井大路は「仮傷官格」だとのこと。“黙って座ればピタッと当たる”のキャッチフレーズ。

※日付は旧暦となっています。(新暦は特に注記しました)