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関富士子詩集『
螺旋の周辺』より
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命名 |
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あなたは百メートル競走の花形だった |
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男たちは皆あなたの伸びやかな脚を見ていた |
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脛にはかたい毛が生えていて |
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丈高い雑草を薙ぎ倒した |
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あなたは時には槍を担ぎ |
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体育教師の太い腰に突き刺した |
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あなたは拡声器のような胸を持っていて |
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遠い山の中の獣たちに歌った |
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あなたが走ると誰ひとり追いつけず |
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ゴールで見ている者も最後には |
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低くあと言って目を閉じてしまった |
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おお錆色の蜥蜴おまえの尻尾は |
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あたしの餌それともあたしへの笞 |
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どうか肌着で隠れるところを |
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注意深く打っておくれ |
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どうかおとなしく喉と腸を過ぎておくれ |
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なにしろすっかり武装して |
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列車の下の暗がりに |
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あのひとの死体を探していたのだ一日中 |
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こなごなに乱れ飛んだ |
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顎や小指の不可思議な影を踏み踏み |
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熱い線路を歩いていたのだ |
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枕木には緑色のばったがいて |
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あのひとの目玉をくわえていた |
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いつも樹の下であたしを見ていたひとだ |
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眠り過ぎたあまりに眠りこけてこの日射しだ |
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さっきまで女神川の魚と話していた |
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赤と黄だんだらのあなたが |
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蜂の仔連れて一粒百メートルの歌をうたう |
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河岸段丘がこぞってひれ伏すと |
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昼下がりの列車がやってくる |
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例えば嵐という名と森という名のぼくたち |
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百人力納豆がおし黙って醗酵し |
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何食うといって百人力しかありはしない |
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出会いから狂わんばかりだったぼくたち |
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花の形に扉が開き |
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鯨油がストックの全部だった |
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昔は海だったぼくの胸のあたり |
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ああそれ以来 |
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おおきな河へ沈めたい |
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寝入るまぎわの呪文や睦言を |
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いっしょにいてよいつまでも |
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夜な夜なかわいがってよ |
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でもそれ以来 |
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草原を移動する女たち |
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前肢を揃えて身をすり寄せる犬たち |
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裏と表しかない背骨ひとつの魚たちを |
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救いたい |
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食人鬼のあかい森に向かって |
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やさしい獣の言葉で話したい |
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例えば嵐という名のあたしの力を |
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あのひとがいつまでも樹の下で見つめている |
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別れ |
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よろこびの声とやさしげな姿で |
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別れを言いにやってくるおまえの顔は |
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しわのよった月だそれとも豆だ古い年の名残の |
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先細りの晴れた針だ |
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戸口に立つ逆光のおまえの |
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でっぱりとくぼみはさらすものとかくすもの |
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解体と哀願があった台所 |
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絞殺と演説があった寝室 |
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水泳と煮沸があった浴室 |
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おお目をつむって調べあげた |
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手指の数と皿の数一致しない |
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では行かせなければならないか |
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おまえのばらのほおに |
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うるしの汁を報いてやろうか |
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熱い脇腹のポインターをけしかけ |
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くらげのように刺すペチコートを贈ろうか |
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ではここから出ていくものが数え忘れたものを |
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わたしが代わって数えろというのか |
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樹がそれぞれの曲線をいとしみ |
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海は巣食いはじめた自殺者たちの魂を引き受け |
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個別なはずの指のそむきがたい並列 |
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通気孔代わりの銃眼に |
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台風は自転車の速さ |
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これらおまえの姉たちの |
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正しい遺言を笑って笑って育ち |
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どの豆も実らせ不作の年を忘れたおまえ |
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おまえを行かせてやるのだから |
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もう疲れた馬が倒れるのを待つな |
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行くまえにおまえの浮力を試すな |
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結婚 |
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遠く緑の田園に立つ未知の婚約者が |
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わたしをせきたてる |
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万端整った土地買った電話引いた |
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あなたは裸一貫ネグリジェをつまんで |
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今すぐ汽車に乗るべきだ |
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すずやかな夕暮れに婚約者のいななき |
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はるかな運河に橋梁の色ひかりいろ |
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つぶてになってわたしに降るあの言葉折伏色 |
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お嫁にゆきたしかさはなし |
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いつも突然のプロポーズに |
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ティッシュなし初夜の心得なし |
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なぜってこのただなかに |
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限度を超えた意中の人なく |
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場面場面に登場する役者ひとりとしてなく |
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つらつら語り聞かせる遺言とてなく |
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予言は人体の展開図広げたことなく |
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ついに何も地に播くことなく誕生したのだから |
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泣いている婚約者の田園の明るさを |
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輝く花嫁が夜におとし入れ |
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出かけていこうわたしのすずなりの林檎を叩き落とし |
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あなたは泣いた赤鬼のだんだらパンツを点検して |
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約束しよう |
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暗い皮膚に爪の痕跡を |
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舌の苔に花を |
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数えたてた産み月の寒さを |
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睦言のひとことも取りこぼしなく交わしあうことを |
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