先日、中上哲夫さんに、
インターネット版の日記で、毎晩のおかずを載せていることを話したら、おもしろい詩があるといって、ファクシミリでこんなのを送ってくれた。買い物メモはよく書くが、詩になるとは思わなかった。うーむ、こ、これはどう読めばいいのかな。リストとあるように本当にただのメモみたい。詩らしい言葉も使われず、そのまんま、という感じである。
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(詩集『ディナーと悪夢』より 中上哲夫訳 訳詩集は未出版
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途方に暮れているわたしに、中上さんが次のように話してくれた。
最初に「蛤」があるよね。貝類はアメリカではあまり食べない。貝料理といったらもう決まっている。クラムチャウダーさ。彼女は、感謝祭のための料理に、まずクラムチャウダーを作ろうと決めたんだ。パセリや大蒜もその材料だってわかるね。「茸」もそうかな。
「蛤」の次に「肉」が来ている。クラムチャウダーと肉料理がメインだね。そのあとが「塵取り」だ。ふだんはちらかっているんだけど、感謝祭のお客が来るから、掃除くらいしなくちゃと考えたわけさ。それから「ヘアピン」。髪を止めるピンだね。ぼさぼさ頭であまり身の回りをかまわないんじゃないかな。でもちょっと身ぎれいにしようと思ったんだろう。
順序も大事だよ。まず料理のことを考えて、それから部屋が気になって、そのあとに自分のことだね。「ブランディ」と「ワイン」が並んでいる。「ブランディ」には「?」が付いているから、買おうかどうしようか迷っている。ブランディは高いし、ワインもあるしね。贅沢だから、ほんとうはいらないんだけど、買いたいんだよ。
最後に「ロースト用鍋」がある。今までロースト用鍋は持ってなかったんだ。他の鍋で代用してたんだよ。ローストビーフなんてめったに作らないしね。だけど思い切って買うことにしたんだ。
たったこれだけの詩なのに、とても切実感があるね。品物の順は重要さの順だと思う。そして、もっとあった品物を削除したこともじゅうぶん考えられる。どんなものかというと、さしあたってテーブルクロスや蝋燭、それに果物。アメリカ人は驚くほどリンゴが好きで、カフェテリアに行くと丸ごと出てくる。あと、デザートも考えられるだろう。料理のことを書いた詩はほかにもあるよ。
ディ・プリマは、一九三四年ニューヨーク生まれで、ビートでは断然若い。「買い物リスト」が収められた詩集『ディナーと悪夢』は六二年の発行で、そのとき彼女は二七歳ということになる。つまり五五年は二一歳で、そのとき彼女は結婚していたかどうかわからない。今は肌の色が違う六人の子持ちだけど。
そんなふうにいろいろ考えると、詩を読む楽しみも増すと思う。
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中上さんの読み解きを聞きながら、わたしはこの詩をつくづく眺めた。なるほど、なるほど。シンプルな単語の羅列が作品として提示されているのだ。ぶっきらぼうな何でもない買い物リストから、さまざまなことが読み取れる。ほんとうのリストをそのまま使ったのかもしれないし、あるいは、行を構成する単語をひとつひとつ吟味したかもしれない。たくさんあった品物を削除したと考えると、当然作品化を意図したのだろう。
タイトルを眺める。感謝祭は毎年あるけれど、それは一九五五年のメニューだ。彼女にとって、その年の感謝祭にはどんな意味があるのだろう。歴史的な背景はこの詩だけではわからないが、ともかく「ロースト用鍋」を買うのだから、思い切り奮発したパーティなのだ。
でも倹約した暮らしではできることは限られている。掃除ぐらいしなきゃ、と思って取っ手の壊れていた塵取りを思い出したのか。このころまだ電気掃除機はなかったか、お金がなくて買えないのか。髪を整えるのにヘアピンなのだから、ちりちりの癖っ毛が伸び放題に広がった、大柄のアメリカ女を思い浮かべる。狭いキッチンの真新しいロースト用の鍋で、肉がゆっくり焼けている。ぼってりしたミルク色のクラムチャウダーの大蒜の匂い。
第二次世界大戦が終わって数年後、ビートな女たちはあの自由な国で、どのように生きようとしていたのだろう。 作者のダイアンは子だくさんの肝っ玉母さんらしいが、このころはまだ若い女なのだ。黒い肌の子どもがひとりぐらいいたかもしれない。
こんな詩が詩集のなかにさりげなく入っていると、いろいろな想像を刺激される。なるほど詩人はこのようにして詩を発見するのだ。詩を書くとは、生活のあらゆることをとりこぼさず、ていねいにすくいあげて、シンプルに切り取る一連の作業なのだ。いったいどこをどう切り取るか。それは詩人の直感や生活者としての経験に左右される。毎晩のおかずをメモすればよいというわけではなかろう。日常がその批評性によってシャープに浮き上がってくる。 ダイアンという一人の女性が、どんな言葉で生活を詩にしていったかをもっと知りたい。こうして読者は詩人に出会うのだ。
それにしても読むということはおもしろい作業である。中上哲夫さんの導きがなければ、わたしは買い物リストをこんなふうに読むことができなかっただろう。中上さんがみつくろってくれたおかげで、あっさりしてピリッと引き締まった小品をたっぷり味わうことができた。 詩を読む楽しみって、途方もない贅沢かもしれないね。
一篇の詩をどのように読んだかを語ることは、とても大事なことではないだろうか。語り合うことで新しい発見があり、味わいが深まっていく。日記を書くのが面倒で、献立メモでごまかしているつもりだったが、いやはや。どこかの読み巧者が、わたしの家の献立から、さまざまな想像を巡らせているかもしれない。私的なメモがある普遍にたどりつくことを期待しよう。