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 甦る九月
 
|  |  |  |  | 1 |  |  |  | 旅行から帰った次の朝 |  | 新しい月がやってきて |  | わたしを机に引き戻した |  | 思い出は多くも少なくもなく |  | らんぼうに抽斗にしまわれた |  |  |  | 2 |  |  |  | 鉢の蜜柑の葉は |  | 青虫が十分育つには足りなかった |  | 青虫は葉を食い尽くした |  | と同時に蛹になった |  | 小さい茶色の蛹 |  | 普通の半分ほどの小柄な |  | でも完璧な |  | チョウになるだろう |  |  |  | 3 |  |  |  | 声が出なくなったので |  | 出し方を教わりにいく |  | あは下あごを大きく下げて |  | いは口の端をきゅっと横に引いて |  | うは唇を思いきりとがらせて |  | そんなこととは知らなかった |  | 今まで考えてもみなかった |  | それなのに |  | 声が出ていたのはなぜだろう |  |  |  | 4 |  |  |  | 古い友人たちとビールを飲んで |  | 笑いながら店を出たとき |  | 東南の空にいつのまにか近づいて |  | わたしたちを見ていた |  | 宇宙の一つ目 |  | その滲んだような赤い光 |  | のことが気にかかる |  |  |  | 5 |  |  |  | 女たちは白い息を吐きながら |  | 濁流の中 |  | 腰まで水に浸かる |  | 両手に石を抱えて岸辺へ運ぶ |  | 激しい労働の現場で |  | 少女が流れに足を取られる |  | 冷たいブルカを被って |  | 震える唇はもの言わず |  | 黒い大きな瞳だけが語っている |  | 少女の小さな髪留めのことを |  |  |  | 6 |  |  |  | 晴ればれと輝く満月のすぐ下に |  | 火星が |  | 一粒の血のように滴ったとき |  | わたしたちはなんとはなしに |  | (不安にかられて? |  | 金星のことを話した |  | だいじょうぶ |  | 秋にはまた金星が |  | 三日月の下に光るのさ |  |  |  | 7 |  |  |  | 公園のささくれたベンチ |  | 図書館の閲覧机 |  | ビシネスホテルのロビー |  | デニーズの家族用大テーブル |  | 回り続ける山手線のシート |  | 映画館の薄暗い座席 |  | デパートの休憩コーナー |  | 公民館の丸テーブル |  | 病院の待合室 |  | などに独りで座って |  | ぼんやりしているわたしを見かけたら |  | どうぞほおっておいてください |  |  |  | 8 |  |  |  | 長い夏休みの間に |  | 図書室の裏の垣根はざんばらに伸びている |  | 白い小花や赤い五弁花が咲き乱れて |  | 屈託を抱えた学生たちの肩に触れる |  | 気づいたり気づかなかったりして |  | 彼らは小道を歩く |  |  |  | 9 |  | それはある日突然に |  | 鍋で煮詰まったセミの声が途絶える |  | 鈴なりのアオマツムシがいっせいに |  | 薄い金属の羽根を擦り合わせる |  | わたしの頭上で |  | 時間が動く |  |  |  | 10 |  |  |  | 奥さまのシルクのランジェリーを |  | 五十年間 |  | 毎日手洗いしてまいりました |  | 奥さまはわたくしに遺されました |  | シルクのランジェリーを |  | やまほど |  | 奥さまはそれほどに |  | わたくしを |  | シルクのランジェリーほどに |  | 深く |  |  |  | 11 |  |  |  | レストランは混んでいる |  | 料理はまだかな |  | 遅いねえ |  | 父は子より待てない |  | そのころ厨房では大騒ぎ |  | 皿の割れる音 |  | コックの怒鳴り声 |  | やっと来た |  | お子様ランチだ |  | いただきまあす |  |  |  | 12 |  |  |  | 彼女の美しい頬の影が |  | 年ごとに広がっていく |  | いずれは |  | 頬全体が影になる |  | 光は吸いこまれ二度と輝かない |  | 彼女はそれを受け入れているように見える |  | いつも頬笑んでいるので | 
 
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