|
|
|
この夏、わたしたちは、
|
賃貸の空き部屋を探して、
|
酷い暑さの街を歩き回った。
|
荷物はほとんど持っていない。単身者用のアパートほど
|
の小さな部屋で十分だ。
|
駅前の不動産屋、新聞の折り込みチラシ、駅のミニコミ
|
紙、ネットの賃貸物件情報……。暇をみては不動産屋の
|
案内で部屋をいくつも見て歩いた。できれば二人がけの
|
ソファを置きたい。小さなキッチンと、シャワーがあれ
|
ばいい。
|
|
難しい希望ではないのに、
|
部屋はなかなか決まらない。
|
南向きだというのに、強烈な西日が差していたり、目の
|
前に巨大なマンションのドアが迫っていたりする。ベラ
|
ンダを開けると、車の騒音と排気ガスがどっと入ってき
|
たり、韓国バーのネオンサインが、白昼の蛍光管を、窓
|
に接するように剥き出していたりする。
|
かと思うと、静かな畑地に面したアパートの敷地内に粉
|
塵が舞い、吹きつけられた砂がアルミサッシにびっしり
|
詰まって戸も開けられない。あるいは、六畳だという洋
|
室がひし形にゆがんでいて、四方の角のどこに添わせて
|
も、本棚が収まりそうにない部屋もある。
|
|
不動産屋に導かれて鍵を開けてもらい、
|
空き部屋に入る。
|
わたしたちは、差し出されたスリッパに汗ばんだ足の裏
|
をさし入れて、家具のないがらんどうの部屋をぺたぺた
|
と歩いた。無人ではあるが他人のものである部屋に入っ
|
ていくのは、やや緊張する。
|
長い間入居者のない部屋は、全体がなんとなくほこりっ
|
ぽく荒れている。壁紙は張り替えられ、床は専門の業者
|
がクリーニング済みなのに、どこかうす汚れた感じ。壁
|
紙の裏には、ここを住みかとしていた人間の脂が、べっ
|
たりとついているのではないか。
|
ダイニングと洗面所を仕切るアコーディオンドアが壊れ
|
かけ、取っ手やその回りが手垢で黒ずんでいる。北側の
|
窓ガラスに付いた無数の細かい瑕が光の加減でチカチカ
|
目を刺す。窓の外に取り付けられた目隠しのプラスチッ
|
ク板は毒々しいオレンジ色で大きな罅が入っている。
|
|
へんなにおいがしますね。
|
息がうまく吸えなくて、
|
口をはあはあさせてしまう。
|
キッチンの乾ききった流しの排水口から、むっと風が上
|
がってくる。トイレからは古い排泄物のこびりついたに
|
おい。不動産屋は、やおらトイレのレバーをこれでもか
|
と押し下げる。ベランダのサッシをいっぱいに開けて空
|
気を入れ換える。空き部屋には、生活のにおいとはちが
|
う、饐えたようないやな臭気がこもっている。
|
|
トラップが乾いちゃって。
|
ときどきこうして水を流してやらないと。
|
入居すればすぐ消えますよ。
|
人が生活する部屋では、水は日常的に排水管に流される。
|
排水口には水を数センチほど溜めるトラップがついてい
|
て、溜まった水が、管の口を塞ぐ蓋の役割をして、汚れ
|
たパイプの中のにおいが逆流するのを防いでいる。
|
しかし、無人の部屋ではだれも水を流さない。水がスト
|
ップすると、数日後にはアパートじゅうの排水管のにお
|
いが部屋に流れこんでくる。それは、今もこの建物に住
|
んでいる人々が、日々排泄する物質が発するものだ。部
|
屋の中の穴という穴から、生き物のようにはい出て部屋
|
に充満する。
|
|
アパートの管という管が、
|
人間の内臓のように腐りかけている。
|
前の入居者の生活の跡は注意深くぬぐわれているが、腐
|
敗のにおいはどうしても防げない。わたしたちは刑事に
|
なったように、それらの残留物を情報として分析もして
|
みる。饐えた空気の中に、かすかなお香のかおりが混じ
|
っている。見知らぬ前の住人が、この部屋で毎日何かに
|
向かって祈る姿を想像する。
|
わたしたちは目配せをして、そっと押入れの中をのぞき、
|
ミイラ化した死体が残されていないか確かめる。部屋に
|
住み、やがて出ていった人々の、顔も知らないのに、も
|
っとも内密な部分が、犯罪の証拠のように残されている。
|
それらは微生物となって日々増殖しているのだ。
|
|
わたしたちがこの部屋に入れば、
|
においはすぐに消えてしまう。
|
部屋はたちまち新鮮なにおいでいっぱいになるだろう。
|
生きている人間によって、生活の水が流される。やかん
|
の湯気やコーヒーの香り。料理された食べ物の温かで複
|
雑なにおい。新聞のインクやかび臭い本のにおい、ソフ
|
ァで抱き合いながら、わたしたちは汗まみれになって体
|
じゅうがにおい立つだろう。
|
からっぽの部屋の真ん中に立って、それらのよい香りを
|
思い描いてみる。
|
|
ここにはどうしても住めない。
|
ほかを見ましょう。
|
もう数えきれないほどの空き部屋を見た。臭気は腐乱し
|
た死体のように激烈に、わたしたちをとりかこむ。わた
|
したちの生活が立てるにおいが、それを凌駕することな
|
どあるのだろうか。腐敗臭はすっかり体に染み込んで、
|
すでに、わたしたち自身の体から発されているのではな
|
いか。耐え切れずに部屋を出て街を歩く。容赦ない陽射
|
しが、生きながら腐乱する人間の体をじりじりと焼く。
|
そのむごたらしいほどの光に消毒されれば、少しは生き
|
延びられるかもしれない。
|
|
影のようにずずぐろい不動産屋の背中に導かれて、
|
次の空き部屋に向かっている。
|