三月が耳をぬらすので
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| | わたしは甘納豆が好きだった
| | なのにそのことをすっかり忘れていた(なぜだろう)
| | 半世紀ぶりに甘納豆を食べた
| | おいしかった
| | もう忘れない(たぶん)
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| | うちに帰りたい うちに帰りたいよ
| | きっとうちへ帰りましょう
| | 元気になったら
| | (崩れ曲がった背骨がまっすぐになったら?)
| | (脳に詰まった血の塊が溶けたら?)
| | うちに帰りたい人をホームへ送っていく
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| | 発車まぎわのバスに飛び乗る
| | ぐんと揺れて隣の人にぶつかる
| | ツカマッテ アブナイ
| | 大きな黒人の女性がほほえんでいる
| | 異国に暮らし異国の言葉をこのように話す人
| | ごめんなさい ありがとう
| | 安心してその胸に倒れかかる
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| | あの星は黄径0度にさしかかるところか
| | 空を真東から真西にめぐり
| | 今は南天にあって季節を均等に分け
| | わたしの両耳を均等に照らしている
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| | ベトナムから帰った人のおみやげ
| | 小さな手提げ袋に色とりどりの花の刺繍がある
| | 孤児の家の子供たちに会ってきたよ
| | 花びらのでこぼこをそっと撫でてみる(きれいね)
| | 袋を裏返して刺繍の毛羽立った裏側を眺める(上手だね)
| | まっすぐな白いかがり糸をなぞりながら
| | 袋を一枚縫う作業をたどる
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金井雄二個人詩誌『独合点』79号2005・5より
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| | 大きなガラスの向こうに立つ
| | 一本の木
| | 窓いっぱいに葉を茂らせている
| | なかほどの枝に腰掛けて
| | 白い帽子の人が手を振っている
| | うれしげに満足げに
| | それは窓のこちら側で椅子に座っている
| | わたしの影だ
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| | ひとり暮らしを始める人のために
| | 荷を造り
| | ホームに入る人のために
| | 荷を捨てる
| | ひとりの荷は軽く
| | 捨てるべき荷はあまりに多い
| | 六十年のへだたりのなんという束の間
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| | 語るべく集まった人々が
| | それぞれの思いを言葉にしないまま
| | 飲んだり食べたり笑ったりして別れる
| | いつものことなのだが
| | 同じ人々がまったく変わらぬ気持ちで
| | 再び会うことはありえない
| | なぜ語らなかったのか悔いながら
| | そのときの思いを忘れる
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| | ヘルメットの顎ベルトを締め
| | 男のジャンパーの裾をしっかりつかむ
| | マシンが激しくふるえて走り出す
| | 一気に加速すてきなスピード
| | 男の肩ごしに前をのぞくと
| | 道の真ん中を走っている
| | 風がひたいにぶつかってくる
| | カーブだ
| | マシンと身体が一緒に傾く
| | 男の耳元で叫ぶ
| | モウ死ンデモイイ
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| | 三月が耳をぬらすので
| | ぞっとして目覚めた
| | したたり落ちる時間が
| | 脳を水びだしにしている
| | 目じりが塩気でぴりぴりする
| | 悲しいわけではない
| | その雨は温かい
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「歴程」520号2005・5より
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| | 電話の向こうから泣き声が聞こえる
| | はなをすすりながら
| | 痛いの 痛いのよ
| | わたしにどうしろというのか
| | あなたの痛みをわたしは知らない
| | 昨日の記憶を失いながら今日だけを生きる人
| | 痛いよ 痛いんだよ
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| | *
| | 芹 菜の花 蕗のとう 独活 蕨 筍 蓬
| | 強い香りにひるみながら
| | その野生をなだめる
| | 濯いで湯がいて晒して刻んで蒸して油で揚げて
| | 営々と引き継がれた苦心惨憺
| | なおも立ち上がろうとする野生を
| | 食す
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| | たくさんの花粉が空中を飛んでいる
| | 人々は唐揚げにされる前みたいに粉まみれだ
| | くしゃみを飛ばし鼻をかむ帽子と眼鏡とマスクのあなた
| | 甜茶をお飲みなさい
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| | 中国の言葉をたくさん聞いた
| | 拗音や促音が飛び跳ねていた
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| | 梅を見たいと思いながら
| | あの梅畑に今年はまだ行かない
| | 花は家々の塀ごしに何度も見た
| | でもあの梅畑に漂う
| | 圧倒的な香りの靄をまだ浴びていない
| | 間に合うだろうか
| | 背伸びしてよその家の梅をかいでみる
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| | 大きな問題をかかえて
| | 冬じゅうあちこち動き回って努力して
| | 一進一退
| | 少しずつよい方向に向かいはじめ
| | すうっと気がかりが消えていた春先
| | 「氷解」ってこういうこと?
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| | おれはさみしい男や
| | 関東のやつらはみんなクソや
| | 人のつながりができへん
| | あんたの人生はどうや
| | 最高か ええこっちゃ
| | いつまでも続けることや
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| | *
| | アネモネが咲いた
| | 「アネモネ都市」を書いた詩人を思う
| | 夜の都市はアネモネ色に光り輝くのだった
| | 詩人は死んでアネモネが咲く
| | それはわたしの庭でもっとも
| | 色あざやかな大輪の花だ
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| | *
| | 遊歩道は立ち入り禁止
| | パワーショベルが中州で働いている
| | 蛇行する岸を削り網を張り石を積む
| | 川は改造されている
| | 水がまっすぐ流れるように
| | 明るいむき出しの岸辺に
| | 隠れるところがない
| | 鳥も魚も恋人たちも
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