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その2 |
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昭和初年代、左川ちかとともに「詩と詩論」誌上で活躍した女性詩人に山中富美子がいた。彼女が初めて「詩と詩論」十二号(1931.6)に「夜の花」で登場したとき、百田宗治は、次のように彼女を紹介している。「左川ちかと同時に《詩と詩論》のこのナンバァに掲載される山中富美子の詩はこれまでの日本の女流の詩に久しく眼を曝しつづけて来た人々を驚かせるであらう。そして彼女がいまだ二十歳に足らない妙齢の娘であることを知った時には一層その驚きを決定的なものにするであらう。これは日本の詩歌の伝統に(特に女流のそれに)ない聲である。」 夜の花 左右の端麗な決定と悲哀とにかかはらず、 かたはらまでおとづれた夜半は最早、予言を 生命としない。 おおこの室内、 すでに意味の無い輝き、沈んだガラスの神話、 或ひは冷酷な無言が、死の床に時計の夢を、 又はかたはな物語を伝へた。 深夜のすぐれた思想、まざまざしい姿態、紫の大理石 無垢の告白、それらは妖気と神託を守つてつきることを知らない。 はなやかに重く、かちえた真実をひらめかす花達に永遠の潔白を名のらせよ。 蝋燭と両手で不思議な信仰をさぐりあてる魂も 微笑と香気をともなつて洗礼の闇の寝床口、 やはらかな黒眼をもつであらう。 だが怖るべき青銅の夢の眼に見えぬ仕業は、 昔の平和と不幸な天禀とを手にしたことであつた。 愛情を強ひられる花達の純白な気温と、荒々しい不滅のささやきに、おかしがたい希望、 絶えざる予感と太陽の冷艶さを夢みながら。 地上に又とない夜の、稀な神秘の枕元で。 この「夜の花」には、「私」という言葉は出てこない。「私」自身の心情を書いてきたそれまでの女性詩とは一線を画し、「夜の花」をたどる意識とその意識をめぐる思考について書かれていく。 「左右の端麗な決定と悲哀」とは、生と死のことを言っているのであろう。深夜の室内の静寂の中に、ガラスの花瓶に生けられた純白の花達。切り花として生きる身体から切断されつつも、分岐する生と死を矛盾しながら同じ場所に存在させる「はなやかに重く、かちえた真実」をひらめかす花達。その生と死を同時に体現する花達の思想とでも呼べるものをさぐりあてようとする魂。そしてその魂をさらに見つめる黒い瞳。この詩では、意識の対象となる夜の花を意識する魂と、その魂をさらに意識する黒眼が存在するという意識の二重構造になっていることに注意が必要だ。 花達は、花園に咲いていた平和な頃も、切り花にされるべき運命をもっていたのだ。切り花になって室内を華やかに飾ることを運命として強いられた花達の死と生のせめぎ合い、絶望と希望のせめぎあいを、夢と覚睡の隙間にある意識の中で感じている魂。死に肌を接した暗闇の花達とそれに対する意識をたどりながら、何か高貴なひとときに対峙したときの緊張が表現される。 「夜の花」では、「生」と「死」を同時に併せ持つものの象徴である「花達」についての意識と、それを見つめる外側の意識との間の揺れを詩にしようとしていた。詩の中心は、象徴するもの、象徴されるものから、それらを見つめる意識へとずらされている。 富美子は、自分自身の思いを述べるという抒情から離れることのなかったそれまでの伝統的な日本の女性詩とは、全く違う場所に立って書いていた。富美子の詩は、当時、ポール・ヴァレリー的だとも言われていたようだが、確かに、フランスの象徴詩の新しい流れの影響を受けて詩を書いていたのではないかと思われる。富美子は、どのように詩に書くかという「詩の方法」についての深い洞察をもって詩を書いた最初の日本女性詩人であったのだ。 (Contralto12号 2006.3.1 発行) |
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