rain tree homeもくじ最新号もくじ最新号back number vol.1- もくじBack Numbervol.31ふろく執筆者別もくじ詩人たちWhat's New閑月忙日rain tree から世界へリンク関富士子の詩集・エッセイなど詩集など
vol.31
<詩を読む> 坂東里美

モダンガールズ
    
その1
 
 失われた詩人 ー左川ちかー

 近代詩の教科書的な文学史やアンソロジーを開く度に、いつも重苦しい気持ちになる。たくさんの男性詩人の中に与謝野晶子がいて、次は永瀬清子がいて女性詩人はそれでおしまい。近代詩の歴史の中に与謝野晶子と永瀬清子以外に優れた女性詩人はいなかったのだろうか?近代詩の歴史は男性詩人が作った男性詩人の歴史だと思い知らされる。
 一九八〇年代、新川和江・吉原幸子編集の詩誌「ラ・メール」などを中心に、女性詩人たちの大変な努力で歴史の中で埋もれ失われた女性詩人たちの掘り起こしが試みられた。しかしそれから二十年が経ち、その成果も現在の私たちが手に入れるのが難しくなりつつある。最近出版された高橋順子の『現代日本女性詩人85』(平17・3 新書館)はそういう事情の中で、失われた女性詩人たちを知る手がかりを与えてくれる。
 失われた女性詩人たちの中で、私が最も心惹かれる詩人は左川ちかだ。昭和初年代に書かれた詩の中で異彩を放つその詩は、七十年の時を経ても、驚くほどに古びることがない。
 左川ちかは、北海道余市町に生まれ、昭和五年から十一年までのおよそ五年間に八十二篇の詩と八篇の散文を発表し、昭和十一年一月に二十四歳で病死した。同年十一月に伊藤整の編集で『左川ちか全詩集』が限定三百五十部で昭森社から出版された後は、昭和五十八年に森開社から五百五十部限定で再版されただけなので、現在ちかの作品を手軽に読むことは難しい。
 左川ちかの詩に初めて出会うとき、その現代性に驚かされるが、当時は尚更のことであっただろう。昭和五年、ちかの兄、川崎昇の発行する「文芸レビュー」の事務所でちかを紹介され、初めて彼女の詩を読んだ北園克衛はその作品の価値を理解し、すぐに彼の「白紙」のメンバーに加えた。ちかが初めて発表した作品は、次に挙げる「昆虫」である。北園が驚いたのも無理はない。

   昆虫

昆虫が電流のやうな速度で繁殖した。
地殻の腫物をなめつくした。

美麗な衣裳を裏返して、都会の夜は女のやうに眠つた。

私はいま殻を乾す。
鱗のやうな皮膚は金属のやうに冷たいのである。

顔半面を塗りつぶしたこの秘密をたれもしつてはゐないのだ。

夜は、盗まれた表情を自由に廻転さす痣のある女を有頂天にする。
               
 (「文芸レビュー」昭5・8)


 このように、最初の作品から、ちかはそれまでの伝統的な日本の詩歌のもつ抒情やリズム、美意識とは全く違ったところで詩を書いていた。それは、詩作に先立ってA・ハックスレーなどの翻訳を始めていたことや、身近にいた兄の友人、伊藤整がJ.ジョイスの〈意識の流れ〉など西欧の新しい詩の手法を紹介する評論を「文芸レビュー」に書いていたのをよく読み吸収していたからであろう。
 ちかの新しさは、その詩法となによりも与謝野晶子から始まる近代女性詩の女性として詩を書くという枠組みから自由だったことだ。さすがに北園克衛は、ちかを紹介するのに、その新しい詩法についての賛美に徹していて、ちかが女性であるかどうかはまったく問うことがない。
 「ちかを知る人はほとんど尠い。進歩的な詩人に於いてすら、彼女の真の才能を識る人が凡そ幾人あるであらうか。そんなに彼女は若いのである。しかし既に彼女のエスプリは洗練され尽くして朗朗たる一個の王国をなしている。(中略)真に優美な詩は、僕たちの頭脳をハシッシュのように刺激しない、それらは常に、その時代のモオラリズムやヒユマニズムの判断に遠く、僕たちの頭脳を洗練し、燦しいものに遭遇させるポエヂイの原理に依存する処のものなのである。」(中略)「詩人の発見されるチャンスは、ポエヂイがいかにユニイクな秩序をもつて、そしていかに整然と言葉にデフォルメエシヨンをされてゐるか。即ちポエヂイのフレキシビリテの適切さにある。大謄さが正確と調和する時、そこは軽妙なまた都雅なロマネスクですらあり得る」(「今日の詩」昭7・6)
 ちかの詩は絵画的構図を持っているので、特異なイメージであっても全体を把握するのはそれほど難しくない。「昆虫」では電流のような速度で繁殖する昆虫のイメージから始まる。このようなグロテスクなイメージから詩を書き起こした女性詩人はちかより先にはいなかっただろう。当時流行していたシュルレアリスムの絵画をちかはよく見ていたと書いているので、その影響もあるかもしれない。「昆虫」を読むとき、ちかの生涯に照らして「この秘密」を妻のある伊藤整との恋愛にからめて読まれることが多いが、それはこの作品をつまらなくしてしまうと思う。あくまでも昆虫の金属のような冷たい皮膚のイメージを思い浮かべ、その鱗のような皮膚をかぶった都会の女を頭の中に描いてみよう。不気味で悲しいほど美しい姿を。都会に暮らす女は昼間は昆虫の殻をかぶって、心は閉ざしたまま生活している。外の世界に対して顔半分を塗りつぶして生きているというイメージは現代でも十分共感できる。夜、誰も見ていないところで、女はその金属のような冷たい殻を脱いで乾かし、昼間閉ざしていた心を解放するのだ。「秘密」は詩を書く私。精神を解放し、大胆自由に嬉々として詩を書く私。誰の心にも一つや二つ「痣」ぐらいはある。もし伊藤との恋愛を読むなら、「痣」程度にしておいた方がよい。北園克衛はちかのことを「病弱であったし、口かずもすくなかった」「生まれつき謙譲で静かな性質であったが、詩の世界では王女のように大胆にふるまっていた」と書いているが、そのようなイメージが近いと思う。夜、盗まれた表情は自由に廻転するのだ。ちかの書いた初めての詩として、その後の作品展開を十分に期待させるものだ。 
 ちかの詩はその後、春山行夫「詩と詩論」、百田宗治「椎の木」、北園克衛の「白紙」「マダム・ブランシュ」「今日の詩」「文学」「カイエ」「海盤車」等、当時の最たる前衛の詩誌に発表された。
 西脇順三郎は、ちかの詩について次のように書いている。「非常にすなほな詩であるが、真から何者か詩的熱力をもつてゐられて、決していいかげんに人工的に作られてゐるものでなく、本当に詩に生きてゐられた感じがあります。そして非常に女性でありながら理知的に透明な気品のある思考があの方の詩をよく生命づけたものであると思はれます。」(「気品ある思考」昭11・3「椎の木」)
 西脇の言うようにちかの詩は「決していいかげんに人工的に作られてゐるものでなく」、ちかの心の内実を基礎として作り上げられている。しかし、その内実の感情に流されることなく、客観的理知的な把握の後、濾過され透明な思考となり、豊かな想像力で洗練された詩として構成されている。それがちかの詩を「よく生命づけた」ということであろう。だから、ちかの詩を読むとき、遡って彼女の生涯に当てはめ言及することも可能だが、そういう読み方をすると、ちかの詩の世界を狭く読むことになり、その詩の作品として自立した生命に触れられないだろう。 
 次に挙げる「緑」という作品は、私たちが普通イメージする「緑」とは全く違っている。

   



朝のバルコンから 波のやうにおしよせ
そこらぢゆうあふれてしまふ
私は山のみちで溺れさうになり
息がつまつていく度もまへのめりになるのを支える
視力のなかの街は夢がまはるやうに開いたり閉ぢたりする
それらをめぐつて彼らはおそろしい勢で崩れかかる
私は人に捨てられた
                            
(「文芸汎論」昭7・10)


 緑の過剰、生命の過剰に押しつぶされそうになるという特異な感覚。自然と一体になるといった母性的な凡庸な意識からは遙かに遠い感覚だ。本来は生命を育む緑に溺れそうになり、幾度も前のめりになるのを支えなければならない。崩れかかってくる緑の中で「私は人に捨てられた」のである。この孤独は、たくさんの生命の中にいるのにもかかわらず感じられる人間存在の孤独について発せられた言葉ではないだろうか。しかしそこには、単なる感傷はない。唐突に発せられたようなその言葉に、孤独の中に自分を支えて立ち、生命の過剰に対して意識的に独りであろうとした意志が感じられる。
 「捨てられた」と終わる詩がもう一つある。

  

海の天使



揺籃はごんごん鳴つてゐる
しぶきがまひあがり
羽毛を掻きむしつたやうだ
眠れるものの帰りを待つ
音楽が明るい時刻を知らせる
私は大声をだし訴へようとし
波はあとから消してしまふ
私は海へ捨てられた


(「短歌研究」昭11.8)

 
 揺りかごはごんごん鳴り、しぶきは舞い上がり、大声を出して訴えようとしても波にかき消されてしまう。この不安と危機感、安堵する場所のない「私」が描かれている。「私」は海に捨てられることによって「海の天使」になるのだ。孤独と死の予感に立ち向かうことによって「私」の詩が立ち上がるのだ。この時代、人間の不安、危機感、孤独について詩を書いた女性詩人は他にいただろうか?この点でも、ちかは同時代の女性詩人から突出していた。
 左川ちかの詩がなぜ埋もれてしまったのか。もとより近代詩の中で、殆どの女性詩が無視されていたということもあるが、女性性や母性をテーマにしなかったということが一番大きな要因ではないだろうか。ちかの詩には「愛の詩」すらひとつもない。
 与謝野晶子と永瀬清子の二人がなんとか詩史に残ったのは、長く生き、第一線で詩を書き続けたということの他に、この二人は女性であること、母であることを詩にした代表選手であったからであろう。この時代、女性詩人に期待されるテーマはこの二つだけだったのだ。昭和初年代にあって、同時代の女性詩にはない人間存在の不安、危機感、孤独を詩にしたちかは、そこからは遙かに遠く、残れるはずもなかったのだ。
 それに、モダニズム詩自体が、詩史の中で一過性の「へぼ筋」として扱われ、スポイルされてきた経緯がある。モダニズム詩の中で、それ以前にスポイルされてきた女性詩でなおかつ女性性も母性も詩にしなかったちかの詩は、二重三重のスポイルにあって来たのではないだろうか。
 現在の研究ではどうだろうかと調べてみると、驚くことに『都市モダニズムの奔流ー「詩と詩論」のレスプリ・ヌーボー』(澤正宏・和田博文編 平7 翰林書房)のようなモダニズム詩を専門に扱うの研究書でも左川ちかを始め「詩と詩論」で活躍した女性詩人は全く無視されている。今でも女性詩人は引き続き無視にあっているのだ。男性研究者によって研究が進められた欠陥があからさまだ。文学研究の中でも小説の分野では、女性作家の再評価が進んでいるが、近現代詩では研究が立ち後れていると言わざるを得ない。
 それにしても現在でも、女性詩の形容に「子宮的思考」の女性詩などとひとくくりにする論が後を絶たない。女性詩といえば、めんどくさいので、結論として、女性特有の感性だとか身体性だとか「子宮的思考」とか言っておけば用が済むとでも思っているのだろうか。子宮で詩が書けるのなら苦労はしない。ちかの詩はそういうところには帰結しない力を七十年も前から持っていたのだ。ちかの詩は女性詩に期待された女性性、母性、あるいは子宮的思考と形容されるような(女性特有の?)身体性という枠組みから飛び去ることを可能にする自由のの扉を開けたのだ。
 先に挙げた『現代日本女性詩人85』の高橋順子も書いているが、女性詩人と特別に取り上げなくてもすむような時代に早くなって欲しいものだ。左川ちかなど優れた詩人の詩はどんどん読み継がれていって欲しい。失われた女性詩人の詩集が再評価され、文庫本などで手軽に読める日が来ればいいと思う。
(「蘭」60号2005.9.30 所収)
tubu< 詩を読む>渋沢孝輔の鳥たち(関富士子)へ
<詩を読む>「モダンガールズ その2」夜の花 −山中富美子−(坂東里美)へ横組み
rain tree homeもくじ最新号もくじ最新号back number vol.1- もくじBack Numbervol.31ふろく執筆者別もくじ詩人たちWhat's New閑月忙日rain tree から世界へリンク関富士子の詩集・エッセイなど詩集など
vol.31