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その4 |
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上田静栄(旧姓友谷)は一八九八年大阪に生まれた。後に家族と共に朝鮮に渡り、京城(現ソウル)の女学校を卒業後、文学を志し上京。田村俊子の内弟子となった。一九二四年に林芙美子との二人誌「二人」を出し、また、岡本潤や小野十三郎とも同棲するなどダダやアナーキズムの詩人たちとの交流の中で詩を書き始める。しかし、その後、「薔薇・魔術・学説」、「馥郁たる火夫よ」、「詩と詩論」などで活躍していたシュルレアリスト上田保と結婚し、夫やその周辺から多くのものを吸収してモダニズム詩に向かっていく。第一詩集『海に投げた花』(一九四〇年)ではモダニズムの手法を学んだ静栄の試みが発揮されている。 液状空間 夕暮、わたしたちは市街へでました。 つねに勇ましい都市の中へ。 雑多な金属と雑多な鉱石との打軋る中へ。 黄金の水と飛ばない硝子の鳥等の中へ。 無限にながい群衆の魂をわがものとして。 さうしてわたしたちは、 悲しい液体性の空間からのがれるのでした。 液状空間とはなんであろうか?ウエットな感情が支配する「わたしたち」のいる空間だろうか。静栄はこの詩の中で感情を表現する言葉として、湿度のある言葉を意識的に排除している。「わたしたち」がでていく市街は、金属や鉱石の硬質なイメージの都市だ。黄金の水、飛ばない硝子の鳥。都市に溢れる人々はひとりひとりの感情など持ち合わせていないかのように、無限に長い列にしか見えない。そういう都市に私たちは出て、感情過多な詠嘆の空間から逃れ出るのだ。柔らかい心の内を述べるのに、それからは遠い硬質な金属や鉱物のイメージを結びつけるモダニズムの方法を用いて新しい抒情詩を作り出そうとしているのが見て取れる。この時代、四季派を中心として、日本の伝統的な自然回帰の詩や詠嘆的な抒情詩が多く書かれていたことを考えると、かなり意識的に硬質な言葉を採用することによって、感情に流されず、知的な詩を構成しようとする静栄の意志が伺える。 もう一つ、静栄の詩を書く意志が強く表れている作品が次の「抵抗」だ。 抵 抗 私のまはりに、 砂をかむやうな音をたててゐる時計を、 ありとあらゆる古時計を、 ギリリッと一つのこらずネヂきつてしまひたい。 そして、 大理石の円柱のやうに冷たく立つてゐたい。 勇ましい砲弾のやうに真白な空間をとんでゆきたい。 巨大な反射鏡となつて美しい星の電波をよんでゐたい。 古い日本の伝統的な詩の湿度のある抒情や韻律など、惰性化した古い詩の流れを「ギリリッとひとつのこらずネヂきつてしまひたい」そして、「大理石の円柱のやうに」理知的な構成によって詩を書きたい。力強く雄々しい「抵抗」宣言だ。詩の始まりにダダやアナーキズムの影響を受けた精神が感じられる。この作品の収められた詩集『海に投げた花』の出版が、太平洋戦争開戦間近の一九四〇年であり、この年の三月にシュルレアリスム運動に弾圧が及び「神戸詩人クラブ」に属する詩人十四名が検挙されていることを考えると「抵抗」という言葉さえ今とは違った響きがある。 静栄の詩は、難解になることなくモダニズム詩の方法を上手く取り入れている。ダダ、アナーキズム、シュルレアリスムを通過し、異なったイメージの言葉をぶつけて新しいイメージを作り出しながら、感情を抑えた知的な構成で組み立てていく彼女の詩は、戦後書かれていく現代詩のスタイルの先駆けとなっているのではないだろうか。 (「Contralto」11号2005.11.1 所収)
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