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vol.32
<詩を読む> 

金子光晴と旅
関富士子

2006年8月26日「歴程」詩のセミナー「金子光晴と旅」の講演原稿を改稿して大幅に書き加えました。

 金子光晴は、昭和3〜7年の足掛け5年にわたって、妻、森三千代とともに、東南アジアとヨーロッパを旅した。この恐るべき放浪の旅は、金子光晴の詩を語るときに非常に重要だ。この旅なくして金子光晴という詩人は存在しなかった、といっても大げさではない。
 金子光晴の旅行記、「マレー蘭印紀行」(昭和十五年刊)は、マレー半島、スマトラ、ジャワなどの見聞を記録したものである。東南アジアの人々や南洋の自然を活写してたいへんおもしろい。
 詩人は当時30歳代半ばである。日本人経営のゴム園や鉱山に滞在しつつ、原稿の売れるあてもなしに、ホテルや船の上で書きつづった。彼が描いた人々は、長期のヨーロッパ諸国による植民地支配で過酷な労働を強いられる現地の人々、最下層の苦力たち、中国から来た華僑、日本から流れてきた娼婦たちの姿だ。それからまた熱帯地方の鬱勃たる森、巨大な川、ゴム園、椰子の木の茂る情景、人食い虎やマラリアを運ぶ蚊の恐怖などが、実に生き生きと、悪臭もにおい立つほどにリアルに描写されている。
 わたしは植物が好きなので、金子光晴の詩に登場する植物を採集して、だいたい書かれた年代と思われる順に並べてみた。紀行文では世界を覆いつくすほどの植物たちだが、詩では実はそんなに多くは登場しない。ほとんどはやはり東南アジアの旅をテーマにしたもので、椰子の木の類である。金子は旅行中はあまり詩を書く気がしなかったらしい。下記の引用作品は、昭和50年版の中央公論社刊『金子光晴全集』から採っている。
 この全集でたまたま、金子光晴が「歴程」誌に初めて寄稿した文章が収録されているのを見つけた。「詩にかえて」という短文だ。時期は昭和11年だから、旅から帰って4年後のことだ。

マレーシアの地図 
マレーシア政府観光局公式サイト
インドネシアの地図 
インドネシア共和国大使館公式ホームページ
 

詩にかえて

 深刻そうなこと、利口そうなことを、ナイーブらしいことを、ひとをたぶらかすそんなゼスチュアで自分もごまかされたさに、君、詩なんておかしくって書けるか(ね、心平ちゃん)。

 だが、そんな僕だって、航海を考えるとき、いいな、航海は、実に。……水は元来酔っぱらいで、水の底の小ぐらい宙ぶらりんを、木の葉をそめるま青さでとかすその色を、のびちぢむてすりからのぞいてた、ふみとどまれぬ一点を、流される思想を……。
 そのからふみの波のうえに、婚礼のような御馳走をならべ立てる大食堂が走るのを思うとき、僕はこの文明の根底がかんかんにかかっているのをはっきりみた。僕は、宙ぶらりんよりほかに、もう陸などへどこへも帰りたいと思わなかった。あの頃の漂泊の僕の心には、多分、「詩」があったようだ。いや、僕が海といっしょに、酔っぱらっていたのかもしれない。

(金子光晴「歴程」昭和11年4月)

 
 「詩にかえて」というタイトルで、「ね、心平ちゃん」と言っているが、金子光晴は「歴程」の主宰、草野心平より八歳年長の兄貴株だ。前年の昭和10年に金子はのちに著名になる詩「鮫」を、改造社発行の「文藝」に発表している。これを受けて、当時気鋭の心平が原稿を依頼したのだろうか。金子はそれに応えて、詩の代わりに文章を寄稿したという状況かもしれない。
 「いいな、航海は、実に。」と言っている。金子は、旅そのものが好きで、日本を離れ、遠い海外に出かけることに大きな希望を抱いていたのだとわかる。そして帰国後もその気持ちは変わっていないようだ。
 親の残した財産を蕩尽し、無一物で、幼い子供を残し、まだうら若い妻を連れての無謀ともいえる旅だった。妻の希望のヨーロッパへ向かうはずが、旅費が足りず足止めをくったのだが、金子はこの地を気に入ったらしく、結局中国や東南アジアを3、4年も放浪して歩いている。得意の絵を描いては売って旅費を作ったらしいが、若いころに山師たちとマンガン鉱山を掘り、大損したこともある金子だ。ひとやま当てたいという野心も大いにあったと思う。
 しかし現実はそんなに甘くなかった。「この文明の根底が秤にかかっているのをはっきりみた。」とあるように、波に翻弄され酔っ払うばかりの船の旅と同様、時代の情勢は秤の上の危ういバランスの上にあり、いつ戦争へ傾いてもおかしくない状態だった。詩人はそれを身をもって感じ取ったということだろう。
 前置きが長くなったが、さて、金子光晴において植物はどのように表現されているのだろうか。戦後すぐの昭和24年に刊行された『女たちへのエレジー』
から4編を読んでみる。
 
ニッパ椰子の歌(全編)

ニッパは
女たちよりやさしい。
たばこをふかしてねそべつている
どんな女たちよりも。

ニッパはみな疲れたやうな姿態で。
だが、奥宸ネほど
いきいきとして。
聰明で
すこしの淫らさもなくて、
すさまじいほどCらかな
い襟足をそろへて。

ニッパ椰子 
「植物園へようこそ!」 ニッパ椰子  
シンガポールの市場にて(部分)

 野育ちで誰にもなつかず、大柄で、ごつごつ四角ばつて、まだ芯までい、いといふよりも黒い、そのならんだ一本一本のすきまから荒い息づかひがきこえ、凄愴な氣配がたちのぼつて人に迫る。
 まだ未熟な、奥地のカンボンから枝をおろしたばかりの芭蕉ピーサン

芭蕉(ピーサン) 
「マカッサル清月堂物語」水原庸光著
 ピーサン(バナナ)の記載あり。戦時中に、海軍受命業者としてインドネシアで菓子作りをした人物の興味深い文章。

バナナ 
「果族物語」 バナナ物語

雨三題(部分)

三、芭蕉

ながい袖を飜へす。
またその上に袖をかへす。
芭蕉から芭蕉へ
わたる騒がしい雨。

瑠璃、玳iの色に透く
ひろばからひろばの瀧つP。
うつ音はげしく破れ葉の背を
濛々として追ふ水煙り。

ああ、このあかるい一すぢの熱情。
若さをわがものとして
芭蕉から芭蕉を踏んで、
はてしもしらずゆきたいな。

いりみだれた
葉と葉の起伏が、
海原のやうにきこえゆくはてまで、
スコールと一緒にわたつてゆきたいな。

 
無題(部分)

ココ椰子は八つの乳房。バナナはびつしり並んだわが指があとからあとから重つて成長してくるので、數へきれず、途方にくれてゐるといつたていたらく。足二本、手二本であらねばならぬひうまにずむでは思ひも及ばぬはみだした生きやうで、いきてゐるこの世界。

ココ椰子
「楽園マニア」 ココヤシ




 ニッパ椰子の葉は「青い襟足」ココ椰子の実は「乳房」、バナナはあとからあとから重なって成長してくる、数え切れない「指」というぐあいに、植物の姿を人間の体にたとえて表現している。
 「芭蕉」は「ピーサン」とルビがある。日本にも芭蕉(ばしょう)はあって、バナナのような実が成るが食べられない。しかしマレーシアでは「芭蕉(ピーサン)」はバナナのことらしい。「マレー蘭印紀行」でも、ホテルでの朝食はいつも芭蕉2本にコーヒー、という記述が見られる。市場で売られているピーサンを「野育ちで誰にもなつかず」と表現している。
 これらの描写には、植物のあふれかえるような生命のエネルギーが感じられる。そして、そこに住む人々、特に女性たちの姿が、植物の向こうに重なってくるような気がする。しかもそれは二重写しどころか三重に重なり合って見えてくるのだ。
 現実の疲弊したマレーシアで、生活に疲れて投げやりにたばこをふかす女たちの向こうに、精悍で聡明で清らかなニッパ椰子、明るい一筋の熱情をもつ芭蕉、過剰なまでの生命力に途方にくれるココ椰子が見える。そしてこれらはそのまま、この土地に本来存在する健康的で野生味あふれる女たちそのものではないだろうか。
 つまり金子は、詩の本領である比喩表現を用いて、植物を描きながら同時に人間をも描いているのだ。
 このことがはっきりわかるのは、「ボイテンソルフ植物園にて」だ。
芭蕉(ばしょう)
「季節の花 300」 芭蕉(ばしょう)

ボイテンゾルフ植物園にて

髪油のひほひのする木。

禿頭の木。

……かったゐばかり聚つてる部落。

尿のたまつてる木。

散歩してる木。
(この植物園に案内してくれたのは藝術家先生だつたが、この人は他の雑貨屋さんと同様、猿に餌をやることしか興味がない。)
きみのわるいぐしやぐしやに手をつつこむやうな森や、沼。

灰色の葉にかくれる灰色のカメレオン。灰色の兜蟲。灰色の蛾。そいつたちの灰色の心臓。

おもい鎖でつながれてる木。

ぬかるみでもがいてる木。

(『女たちへのエレジー』昭和24年刊より)

ボイテンゾルフ植物園
「とろぴかる あいらんず」ボゴール植物園
 この植物園のおぞましさはどうだろう。ボイテンソルフ植物園とは、現在のインドネシア、ジャワ島にあるボゴール植物園のことだそうだが、詩で描かれている木は、明らかに人間そのものの姿だ。詩の一行一行がそのまま1本の木のようにぶっきらぼうに突っ立っていて、それぞれがどうしようもなく人間なのだ。
 木々を見ながら人間を連想してしまう詩人は、そこに人間の悲惨までも思わずにはいられない。これはたいへん辛いことではないか。放浪に近い旅のさなかで、詩人自身の精神も疲れはてているのではないだろうか。
 しかしながら、「マレー蘭印紀行」を読んだあとでは、印象が変わる。「おもい鎖でつながれてる木」「ぬかるみでもがいてる木」は、紀行で活写した現地の鉱山で、泥まみれになって土を掘り、「自分たちは土でできている」と言わしめるクーリーたちの姿を思わせる。
 中央の(  )内では、見物人の一人である作者自身の立ち位置を客観視して奥行きがある。
 このような金子光晴の植物描写で、わたしがとても好きなのは、「エルヴェルフェルトの首」に描かれた芭蕉(ピーサン)だ。昭和50年の手元にある中央公論社版の全集では、詩集としては刊行されなかった未刊詩集『老薔薇園』の中の一編としてまとめられている。
 
エルヴェルフェルトの首(部分)

(前略)
辻馬車サードを近々と曳かせてエルヴェルフェルトに、顔をよせてみた。頬はこけてゐたが、顴骨が高く逞ましい骨ぐみの偉丈夫らしい骨格をうかゞふことができた。壁のうしろは、一めんにくろぐろとした老芭蕉林で、びりびりした葉がやぶれた旗か僧衣のやうに、首のまはりに縦横に垂れさがつてゐた。
 その破れた葉は宙空で、えものをがつちりくんだやうに、くみあつたまゝひつそりとしてゐた。そして恐しい殺氣が、すきまもなくみなぎつてゐるやうにおもはれた。やがて、その葉はいきづまる緊張をくづして、コツコツと骨をたゝくやうな聲をたてゝわらひ出した。驟雨スコールがやつてくるまへぶれである。
 
 エルヴェルフェルトという人は、インドネシアで18世紀初めに、オランダの植民地支配に反逆した罪で、百年間も晒し首にされ続けた人物だ。現地生まれの白人らしい。
 繁茂する芭蕉の破れた葉を雨粒が叩き、サーッと驟雨がやってくる様子が実感されるが、同時に、当時のジャワの人々の民族運動の高まりを思わせる。さらに、詩が書かれた当時も続く、長い植民地支配への恨みが「恐しい殺氣」となって、晒し首がかっと目を開けて「コツコツと骨をたゝくやうな聲をたてゝわらひ出」すような臨場感がある。
 金子光晴は、東南アジアをさまよったあげく、旅費を調達してなんとか、妻の三千代をヨーロッパに向かわせる。そのあとようやく本人もシンガポールから船に乗り、アムステルダム経由でパリに行き、のちにベルギーに入る。ブリュッセル郊外に多く見られる薔薇園を題材にしたと思われる「老薔薇園」を読んでみる。
 
老薔薇園(部分)

 うす絹の肌着はよごれ易い。ちょつと汗ばんでも、四五日ぬがずきつゞけただけでも、うす黄ろく染まり、くろく垢づく。
 桃色のヅロースや、レモン黄のシュミーズ、白の乳かくしなどが、そこらいっぱい、レビュウガールのたまり場でゞもあるやうにぬぎちらしばらまいている。
 絹のこまかい皺は、くっきりと影をおつて、年代で色が褪せてゐる。
 それをみてゐると、すぐそれを身につけてゐた娘共のあたたかい肌のぬくもりで又、ぬぎちらしたかつかうで、無邪気な、或ひはみだらな性格が知れて、心がそゝられはするのだけど、ポンパヅールの時代、マリー・アントワネットの時代、その頃らしい香りをかぐと、たちまち、その汚れものの山は、病的、末梢的、虚無的なものにみえてきて、そのうへにさす秋の陽の光りさへも、いたみ、悲しみ、いたいたしくひつつゝて、聲も立てず互ひにひつそりとしづまりかへつてゐるやうにおもへる。
 肌着とみえたものはじつは、薔薇だ。老いた薔薇の園である。
(後略)
ベルギーの薔薇園
 B-weblog ベルギーのばら園を訪ねる
 汚れて黄ばんだ絹の肌着のように、老いた薔薇の園。それは、第二次世界大戦間近の疲弊したヨーロッパの象徴として描かれている。絢爛たる歴史の垢にまみれて、エロチシズムの中の老醜がにおうような描写を堪能できよう。
 この10年前、20代半ばでパリやベルギーに滞在し、西欧文明の恩恵をたっぷり受けて日本に帰った金子光晴は、詩集『こがね虫』を出版して、大正末期のモダニズム詩の最先端に立つ。ところが、その同じ詩人が、10年後に訪れたヨーロッパで、西欧文明の明らかな翳りをとらえ、その没落のさまを、季節の終わりの薔薇園の描写によって痛切に表現したのだ。この二度目のヨーロッパ体験は詩人自身も自己を問い直す歴史的な転換点となった。
 金子と三千代は、二年ほどヨーロッパに滞在したようだが、ありとあらゆる下働きをし、借金を重ねたあげく、とうとういられなくなって三千代を先に帰国させる。そして、再びシンガポールに舞い戻った金子光晴は、ここで有名な詩「鮫」を書くことになる。アジアにおける各国の植民地支配を痛烈に批判する詩だ。
 
 (部分)

コークスのおこり火のうへに、
シンガポールが載つかつてゐる。
ひゞ入つたゐ焼石、蹴爪の椰子。ヒンヅー・キリン族。馬来マレー人。南洋産支那人パパ・ナンキン。それら、人間のからだの焦げる凄愴な臭ひ。
合歓木スナの花と青空。
荷船トンカン
檳榔の血を吐く――赤い眩迷。

鮫は、リゾール水のなかで、鼻っぱしらが爛れかけてゐる。
奴らの眼は紅く、ぽっと腫れあがってゐる。
合歓木(スナ)が日本のネムノキと同じであれば、
「植物園へようこそ!」 ネムノキ

檳榔(ビンロウ)
「薬用植物ギャラリー」 ビンロウ
 「鮫」は6章にわたる長編詩で、引用したのはほんの一部である。開戦前のシンガポールは、コークスの火の上に載っているかのようだ。もう火がつきかけている。たくさんの人種がその狭い島の上で焼かれているのだ。
 実際にシンガポールの沿海には鮫がうようよいたらしいが、この詩の鮫は、オランダやイギリスなど、東南アジアを苦しめる西欧諸国の植民地政策を暗喩であり、それは日本も同罪であった。
 この詩を懐に入れて、足掛け5年の放浪の旅から日本に戻った金子光晴は、急速に軍国化し、思うように発言できなくなった日本の状況に直面する。しかし、中野重治などの尽力で昭和10年に雑誌に詩「鮫」を発表し、日中戦争が始まった昭和12年には詩集『鮫』を出版する。ここには、金子をのちに日本で唯一の抵抗詩人と言わしめた「オットセイ」も収録されている。詩集は実際にはほとんど人の手に渡らなかったようなのだが、この時期に出版されたということに意義があるわけだ。
 金子光晴だけが、日本で唯一の抵抗詩人と聞くとちょっと驚く。詩人たちは、そんなにみんながみんな、戦争に反対できなかったのか、と戦後生まれのわたしなんかは驚くわけだが、現実にはそういうことだ。反体制の詩人たちは沈黙をしいられ、ほとんどの詩人が自らすすんで戦争鼓舞の詩を書いた。
 わたしはそれを批判するつもりはない。もし現代の今この時が戦前という時代になったとしたら、いったい個人がどのくらい国に抵抗できるのか、考えると正直自分でも自信がない。
 ではなぜ金子光晴だけがあの時代に抵抗詩を書くことができたのか。このあたりのことを、金子自身はのちに、詩人としては無名で中野重治のように監視されていなかったと言っているが、戦後の昭和24年に出版された詩集『鬼の児の歌』のあとがきでは次のように書いている。
「晦渋な詩風は、全くあの時期に、発表の目的で作ったためだから、あしからず。」
 「オットセイ」「鮫」などの詩はよく知られている作品だが、ほかにも「蛾」とか「鷹」など、生き物をタイトルにしたものが目につく。これらは動物そのものの姿をみごとに活写しているのだが、もちろんそれだけではなく、「オットセイ」は「みわたすかぎり頭をそろえて、拝礼している奴らの群集」「衆愚」の暗喩であり、「鮫」はシンガポールの港にたむろする軍艦の暗喩で、植民地支配が東南アジアを食い物にしている状況を描いたものだ。
 つまり、金子が用いた「晦渋な詩風」、暗喩、寓意などは、当時の官憲の目をくらますための有効な手段だったわけだ。
 詩的表現を主題の隠蔽方法として使わなければならないほどの、不幸な時代だったわけだが、今読むとそれほど晦渋というほどでもない。金子ものちに対談などで、キーワードが解ければあとはするするわかるんだけど、官憲は読んでもよくわからなかったのだろう、と言っている。しかし、抵抗詩は読まれなければ意味がないわけだから、戦争が始まったあとも、発表することをいつも念頭においていたということだ。
 今の時代に、彼の詩から学ぶことは非常に多いといえる。
 発表しなければ意味がないと知りつつ、発表できたものは数編で、ほとんどは大量に書き溜めていたものを、戦後数年のうちに4冊の詩集として出版した。『女たちへのエレジー』『蛾』『落下傘』『鬼の児の歌』の4部作である。
 下記に引用した3つの詩は、戦時中に書かれたものから、植物が登場しているものをピックアップした。4冊でたったこれだけである。
 東南アジアの旅で金子光晴の描いた植物、ピーサンやココヤシやニッパ椰子は、「鮫」や「オットセイ」ほど比喩として激越ではないが、彼の思想と南方への愛着と、詩の表現が一体化して、実に説得力のある豊かなメタファーになっていることに感動する。しかし、これらの植物はどうだろう。
 
薔薇(部分)
薔薇 W

うちつづく人類の暗澹たる時代。
薔薇は陵辱されつくしたのだ。
もぎとられ、ふみにじられて、
人生から掃いてすてられたのだ。

人間はその頬からも、
心からも、薔薇を失つた。
薔薇は病み、むしばまれた。
寝汗をかいた。血を吐いた。
人間の文明に欺かれて、
薔薇は労賃でさいなまれ、
薔薇は金できりうりされた。

色あせた薔薇よ。忘れられた薔薇よ。
もう一度生きかへつてこい。
もう一度、あの棘だらけな枝で、
おまへのきよい血統をまもるんだ。
人の世に花と咲いて、
天女の姿をみせてやるんだ。


(『蛾』昭和二十三年刊より)

 
 (全編)

くし萱。風にうなる電線。

みそ萩。くさつた根太と十一月の蚊。

犬稗。虱と貧窮。
にはなづな。薄命で
とり目の女。

薊たんぽぽ。ふれるなり
すぐとんでゆくかるい綿。

草よ。
誰の目にも立たぬ草よ。

その影と影のさびしさが、
わが國土にもつれあひ

この國の土をつかんで
はなれない。蔓や枝。

みわたすかぎり風に伏し、なびく草。

さながら、僕の心のさびしさが、
芽をふき、花をうけてゐる
くさむらをわけて、僕はゆく。
ヅボンの裾をぐつしよりぬらせて。
(『女たちへのエレジー』昭和24年刊より)
 
さくら(部分)

(前略)
さくらよ。
だまされるな。

あすのたくはへなしといふ
さくらよ。忘れても、
世の俗説にのせられて
烈女節婦となるなかれ。

ちり際よしとおだてられて、
女のほこり、女のよろこびを、
かなぐりすてることなかれ、
バケツやはし子をもつなかれ。
きたないもんぺをはくなかれ。

(『落下傘』昭和24年刊より)
 
 「薔薇」Wでは、それまで情景を描写する手法をとっていた詩人が、直接的になまの声をあげているように感じられる。人間の最後の誇りが奪われつつある状況を嘆き、その回復を願っている。
 しかしながら、「草」の詩に登場する「くし萱」「みそ萩」「にはなづな」「薊たんぽぽ」は、「もつれあい」「風に伏し、なびく草」である。その寂寥が日本の国全体を覆いつくしているのだ。日本の植物は、南洋の植物の力強さとは対照的に、なんと弱弱しく寂しいことか。戦時中金子一家は、一人息子の持病の喘息をわざと悪化させて徴兵を逃れ、厳寒の富士山の麓に疎開生活をしていた。
 「さくら」はむろん、「烈女節婦」とおだてられて、すすんで男たちを戦場に送っていた日本の女の暗喩である。
 金子の抵抗詩は、ただ一方的に国の政策を批判するというだけのものではないことがわかるだろう。自分もまたその一人である一般民衆が、状況に流されて被害者として苦しむばかりでなく、むしろ戦争の高揚感を募らせていく姿を暴いて容赦がない。わたしたちが最も自戒すべきはこのことであろう。
 最後に、金子光晴が戦後10年を経て出版した詩集『非情』から、「Sensation」を読む。
 
Sensation

――日本は、氣の毒でしたよ。(僕はながい手紙を書く)燎原やけはらに、
あらゆる種類の雑草の種子が、まづかへつてきた。(僕は、そのことを知らせてやろう。)

地球が、ギイギッといやなきしりをたてはじめる。……山河をつつむウラニウムの粘つこい霧雨のなかで、かなしみたちこめるあかつきがた、

焼酎のコップを前にして、汚れた外套の女の學生が、一人坐つて、
小聲でうたふ――『あなたの精液を口にふくんで、あてもなく

ゆけばさくらの花がちる』いたましいSensationサンサシオンだ。にこりともせず
かの女は、さつさと裸になる。匂やかに、朝ぞらに浮んだ高層建築ビルデイングのやうに、そのまま

立ちあがつてかの女があるきだすはうへ、僕もあとからついてあるいた。
日本の若さ、新しい愛と絶望のゆく先、先をつきとめて、(ことこまごまと記して送るために。)

(『非情』昭和30年刊より)
 
 「サンサシオン」は「感覚、扇情」などの意味。ここで描かれているのは敗戦直後の日本の女の姿だ。「ウラニウムの粘つこい霧雨」とは原爆の黒い雨のことか。軍国日本を支えた「さくら」は、ここでは「汚れた外套の女の學生」に変わっている。捨て鉢な風情のいたましい姿だが、これが日本の現実だったろう。
 しかしながら、裸で立つ彼女を「匂やかに、朝ぞらに浮んだ高層建築」にもたとえているではないか。それは「日本の若さ、新しい愛と絶望のゆく先」なのである。金子らしく冷徹に日本のこれからを見つめている。彼はだれに手紙を書いているのだろう。海外にいる友達のだれかれ、あるいは未来の日本に生きるわたしたちへか。(2006.9.29)
金子光晴の詩はちくま文庫『金子光晴全集』で読むことができます。
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<詩を読む>宮沢賢治「小岩井農場」の登場人物たち(3)パート三(関富士子)へ

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