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                     道元物語(パート1)

 偉人の生き方に学ぶというテーマで、曹洞宗の開祖である道元の一生についてまとめてみました。彼の求道に対する真剣な取り組みには、思わず襟を正してしまうものがあります。

 道元(どうげん)
 鎌倉時代初期の禅僧。日本における曹洞宗の開祖。晩年に希玄という異称も用いた。同宗旨では高祖と尊称される。諡号は、仏性伝東国師、承陽大師。一般には道元禅師と呼ばれる。
 徒(いたずら)に見性を追い求めず、座禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがあるという修証一等、只管打坐の禅を伝えた。『正法眼蔵』は、和辻哲郎、ハイデッガーなど西洋哲学の研究家からも注目を集めた。(ウィキペディアより)



 パート1

 頭脳抜群の道元はなぜ出家したのか?
 道元は、鎌倉幕府が樹立されたばかりの正治二年(一二〇〇)一月二日、内大臣久我具(くがみちとも)を父、摂政関白藤原基房(ふじわらもとふさ)の娘(不詳)を母として、京都に生まれました。いわば名門中の名門で、政治家として成功が約束されているようなものでした。
 ところが、八歳で母を亡くし、人生の無常を感じました。この悲しい出来事が、出家への道を志す契機となったともいわれています。
 当時政権を握っていた鎌倉幕府の源氏は、三代目の実朝が暗殺されて、わずか三代で滅んでいます。安定しない政局が続き、世間では「末法の世」がささやかれていた時代でした。
 道元は、すでに九才のとき、仏教の難解な理論書である「倶舎論(くしゃろん)」を読破していたといいますから、大変に頭脳明晰だったことがわかります。名門の上に抜群の秀才だったわけです。
父の死により家運が傾きかけていたので、道元は一族の復活の期待をかけられていました。道元もそれに応えようとして勉学に励んでいたのかもしれません。
 ところが母親は、亡くなる前に道元にこう頼んでいたというのです。
「お父さんの供養のためにも出家して欲しい」
 権力闘争の中に我が子を巻き込みたくなかったという思いもあったようです。そして道元は、十三歳のときに、比叡山の麓に住む母方の伯父である良顕を訪ね、出家を求めました。最初は驚いた良顕でしたが、その志の強固なることを知り、道元を出家させる手助けをします。仏門への第一歩を踏み出した道元は、翌年には、延暦寺の天台座主公円僧正のもとで剃髪して得度を受けています。さらに延暦寺の戒壇で大乗菩薩戒を受け、仏法房道元と名乗り、天台僧として本格的な修行生活に入ったのです。
 道元は、公円僧正について熱心に天台教学を学びました。ところが、当時の比叡山は宗祖伝教大師(最澄)の精神を忘れて権力闘争に明け暮れ、僧兵を有して朝廷への強訴を繰り返すなど、世俗に堕していました。道元はそれに深く失望したようです。
 しかしそれ以上に、天台宗の教えの中から、非常に大きな疑問を抱く難題にぶつかり、それが道元に新たな活路を開くきっかけとなったのです。
 それは天台宗の基本理念を示す「本来本法性、天然自性身」という教えの意味についてでした。「本来本法性、天然自性身」とは「人は誰でも仏性、つまり仏になる種をもっており、生まれながらにして、そのまま仏である」というのです。
 道元は思いました。
「それなら、なぜ人は悟りを求めて苦しい修行をしなければならないのか?」
 本来、仏であるというのなら、仏になるための修行など必要ないではないか、というわけです。
「なら、修行はいったい何のためにやるのだ?」
 しかし、この疑問に対して比叡山の学僧たちは、納得のいく答えを与えてくれませんでした。
そこで道元は、比叡山での修行に見切りをつけ、山を下りてしまいました。以来、この疑問が求道の推進力となり続けるのです。この疑問が頭から離れることがいっときもなかったのです。

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