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                     道元物語(パート4)

 パート4

 如浄に会った瞬間、道元はどうなったか
 こうして、天童山をはじめ、杭州の経山や台州の天台山などを歴訪して修行に励み、すでに二年近くが経とうとしていましたが、
「もともと人間は仏であるというなら、なぜ修行などする必要があるというのか?」
 という疑問は未だ解決できないままでした。
 絶望的な気持ちで帰国を考えていたとき、天童山に新しい住職が来たことを耳にしました。何でも世俗の名利を省みない厳しい禅風で弟子を指導しているというのです。
 道元は再び天童山に戻り、新しい住職に面会を求めました。
 その新しい住職、如浄との出会いにより、道元はすべての疑問から解き放たれ、曹洞宗の確立に向けて道が開かれたのです。
 このときの出会いについて、道元は『正法眼蔵』の「面授」の巻で次のように述べています。
「まのあたりに師に出会う。これ人に会うなり」
 如浄に会った瞬間、道元禅師は今までの自分というものがあとかたもなく消え去り、如浄の尊い人格が、いや釈尊や歴代祖師の人格が自分自身のものになった感覚がしたといいます。
 目と目があった瞬間に、道元は自分が求めていた本当の師であることを直感し、感激に震えました。
 一方、如浄も二六歳の道元を稀にみる大器だと見抜きました。如浄は道元を見ていいました。
「おまえだけは私の部屋に入ってくるときに、いちいち威儀を整えなくてよろしい。いつでもいいから入ってきなさい」と特別に扱ったといいます。
 如浄は、当時の貴族化し官僚化した禅風を嫌い、もっぱら祖師禅(達磨から慧能への系譜)の流れを伝え、修行に厳しい禅者でした。
「弟子たちよ、慈悲をもって、このような導きかたを許してください」
 こういいながら草鞋で頭を叩いたり、激しく叱責したといいます。弟子たちは涙を流して感激したといいます。このようなすぐれた師のもとで、道元は猛烈な修行の日々を重ねていくのです。
 道元は昼も夜も坐禅をしました。酷暑極寒(こくしょごくかん)のおりには病気になってしまうと、多くの僧が坐禅をやめてしまいましたが、道元は「病気でもないのに修行をしなかったら中国まできた意味がない。病気で死んでも本望だ」と覚悟して坐りつづけました。
 にもかかわらず、「本来は仏である人間が、なぜ修行などするのか」という疑問が解けません。
 そんなことをしているうちに、一緒に修行をしてきた明全が四二歳の若さで病気で亡くなってしまいました。宋に来てから二年たったときです。
 これまで師として兄として慕っていた明全がいなくなり、道元は人生のはかなさを知りました。以来、いっときも時間を無駄にすることのないよう、志なかばで早逝した明全のぶんまで、さらに熱心に修行に励んだのです。
 ある日の早朝、みんなで坐禅していたとき、一人の雲水が居眠りをしていたので、如浄が厳しく叱りつけました。
 そのとき、その言葉が道元に悟りをもたらしたのです。長い間自分を悩ませてきた疑問が、まるで雷に打たれたかのように解決したのです。
 もちろん、それは、その言葉のみの力ではなく、これまでの長い修行によって蓄えられていたものが、その刺激によって一気に放たれたといった方がいいでしょう。
 道元は如浄のもとに面会に行き「身心脱落しました」と告げました。すると如浄も喜び「身心脱落、脱落身心」といって、悟りを開いたことの証明である印可を道元に授けたのです。
 身心脱落とは、今まで自分を束縛していたさまざまな思いから解放され、とらわれなき自由な境地を獲得したことを意味しています。
 では、これまでの道元の疑問は、どのように解決されたのでしょうか。
 確かに、人間は仏性をもっているのですから、仏になるために修行などする必要はなかったのです。 では、坐禅は何のために行なうのでしょうか?
 何のためでもありません。
 坐禅こそが仏の姿そのものだからです。つまり、坐禅は仏になるための訓練や修行などではなく、仏そのもの、つまり、本当の人間の姿、ありのままの姿そのものなのです。
「何のために?……」
 という疑問そのものが、とらわれだったのです。
 何の目的もありません。「ただ坐禅をするだけ」です。「只管打坐」です。
「修行と悟りとは別ではなく一体である」
 これを「修証一如」といいますが、これが永年の疑問に対する答えであり、釈尊から達磨へ、達磨から諸祖を通じて伝えられてきた禅の心だったのです。
 道元はあるところでこんなふうに述べています。「悟りという臭いがなくなって、はじめて悟った人となる」。

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