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                     道元物語(パート5)

 パート5

 空手にして郷に還る
 その後、道元は二七歳の春まで如浄のもとで修行を続け、嘉禄三年(一二二七)、日本に帰りました。
 そして、その年、如浄は示寂します。まるで道元に法灯を渡すというこの世での使命を終えたかのように。
 日本に帰るとき、如浄は道元にいいました。
「名利(名誉や利権)を避け、国王や大臣といった権力者に近づくことなかれ」
 かつて真言密教の宗祖空海が、やはり中国から帰国したときには、密教の知識と一緒に膨大な数の経典や法具や曼陀羅や仏像などをもって帰りました。
 道元は、これとは対称的に、帰国したときの思いを「空手にして郷に還る」と表現しています。
「てぶらで帰ってきたぞ。何ももってきてはいないぞ」といっているわけです。
 すべてを捨て去るという禅の境地を端的に表現した、道元らしい言葉であるといえるでしょう。
 帰国した道元は、故郷である京都に落ち着き、建仁寺や深草の安養院にて、『普勧坐禅儀』や『弁道話』などを著し、釈尊正伝の真実の仏法である禅を広めるために活動を始めます。
 一方、「建仁寺には、典座職がおかれてあるものの、名ばかりで、典座の仕事が仏道修行の大切な仏事であることを心得ていない」と嘆いてもいます。
 三十四歳のとき、道元は宇治に興聖寺を建て、曹洞禅の道場としての第一歩を踏み出しました。
 この興聖寺において、およそ十年にわたって坐禅の仏法を説きました。修行に参じる弟子たちも増え、日本の仏教界において道元の存在は大きなものとなっていきました。九五巻にも及ぶ代表的な著作『正法眼蔵』の多くが次々と書かれたのもこの頃です。
 文暦元年(一二三四)冬に大日能忍門下・日本達磨宗の懐奘(えじょう)が道元を訪れ、弟子入りします。
 嘉禎三年(一二三七)春に『典座教訓』が著されます。しだいに、深草の興聖寺教団の修行生活が規定されました。仁治二年(一二四一)、懐奘に勧められたのでしょうか、同門下の義介(ぎかい)、義尹(ぎいん)、義演(ぎえん)などがあいついで入門してきたので、道元の教団は充実してきました。
「坐禅こそ釈尊の悟りの根本であり、誰でも正しく仏法を得られる唯一の法門である」という宣言と共に、男女の差別や身分の差別などを否定しました。
 このように、急速に教団が発展してきたため、天台宗徒など旧仏教各派からの圧迫が激しくなります。
 道元は、立場を守るために自分が伝えた禅宗こそ国家護持のための正法であることを『護国正法義』を著して力説したとされますが、比叡山側はそれに対する非難を朝廷に訴え、朝廷もその言い分を認めたので、道元に対する天台宗徒の弾圧はいっそう激化していきました。
 そんなとき、篤信者であった波多野義重の寄進を受け、迫害を避けるために、寛元元年(一二四三)、越前(福井県)志比庄に修行の道場を移しました。道元、四十四歳のときです。
 越前に入ると、はじめは吉峰寺や禅師峰寺(やましぶでら)などの古寺に移り住んでいましたが、やがて大仏寺が建立されました。
 この大仏寺を永平寺と改称したのが、寛元四年(一二四六)、四十七歳のときです。そして、いっそうの力を傾けて、『正法眼蔵』の示衆と門弟の育成に力が注がれました。

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