道元物語(パート6)
パート6
純粋なまでに求道心を貫く
四八歳のとき、ただ一回だけ、執権・北条時頼の招きを受けて鎌倉に出向き、説法教化を行ないましたが、半年ほどで永平寺に戻り、時頼が寄進を申し出てもすべて断っています。
如浄から世俗の名誉や権力に近づくなと教えられ、また道元自身の生まれながらの純粋性ゆえのことなのだと思いますが、それを端的に物語っているこんな逸話も伝わっています。
ある弟子が、時頼から土地の寄進を受けたといって、喜びいさんで道元に報告にいきました。
「喜んでください。こんなに寄進をいただきました」 すると道元は烈火のごとく怒り、その弟子の袈裟衣をその場で引き剥がして追い出したのです。
そればかりではありません。汚らわしいといってその弟子が坐禅していた畳を取り払い、さらにその床下の土まで掘り起こして捨てたというのです。
物品をもらうために権勢に近づくようなものは仏道修行者ではないということを弟子に示したのだと思いますが、それにしても厳しい求道心です。
道元は、必ずしも寺に隠遁して世俗との交わりを避けたわけではありませんでしたが、どちらかといえば、自分の教えを後世に正しく伝えることを重視していたようです。そのため、膨大な執筆を行ない、また一箇半箇の接待(少数の本物の弟子の養成)につとめました。
そんな道元を病が襲ったのは、五十四歳のときでした。身体に腫れ物ができたようです。
病が悪化していったため、外護者の執拗な招請があり、永平寺を懐奘にゆだね、八月に療養のため京都へ向かいました。京都に入った道元は、俗弟子の覚念の住んでいた高辻西洞院で二十日ばかり療養されましたが、建長五年(一二五三)八月二十八日、弟子たちに見守られながら示寂しました。
おわり