HOME書庫道元物語

                    道元物語 (パート2)

 パート2

 戒律を犯しても他を救う
 山をおりた道元は三井寺(みいでら)の公胤(こういん)を訪ね、教えを請いました。
 しかし、ここでも満足な答えは得られませんでした。公胤僧正は、建仁寺の栄西の門を叩いてみたらどうかと教えてくれました。
 すぐに道元は建仁寺に向かいました。
 臨済宗の宗祖栄西は、道元が訪ねたあくる年に亡くなっており、どの程度、栄西から教えを受けたのか、あるいは両者が対面したのかどうかさえはっきりしていません。確かなことは、栄西なき後、栄西の弟子の明全に師事し、明全を通して栄西の教えを学んだということです。
 道元は、次のようなエピソードを伝えて栄西を絶賛しています。
 あるとき、栄西の寺へ貧しい人が来て物乞いをしました。「食べるものがなく、家族がみな飢え死にしようとしています」。
 ところが、栄西の寺も貧しく、僧侶が食べるぎりぎりの食料しかありませんでした。すると栄西は薬師如来の像の光背を作るためにとっておいた胴ののべ金をもちだし「これを売って食料にかえなさい」と渡したのです。
 すると弟子たちが驚いて尋ねました。
「仏物己用(仏のものを私用に使う)の罪にはならないのですか?」
 これに対して、栄西はこう答えました。
「その通りです。しかし、たとえこの罪によって地獄へ堕ちるようなことがあっても、餓死しようとしている人は救わなければならないのです」
 道元はこの話を引き合いにして、今の修行者も、このような心を忘れてはけいないと付け加えています。
 栄西の門下で、それなりに意義のある修行はできたようですが、心に抱き続けているあの疑問が解決される気配はまるでありません。道元は思いました。
「やはり、本場の中国で学ばなければダメだ」
 そして貞応二年(一二二三)、二十四歳になった道元は、明全と一緒に、博多港から日宋貿易の商船に乗り込み、中国に渡りました。
 二人がたどり着いたのは、寧波(ニンポー浙江省東部の港町)です。この地は、かつて日本の遣唐使の上陸港として知られ、宋・元の時代は禅僧の遊学地だったのです。
 無事、明州に到着し港に滞在していたとき、一人の老僧が船に椎茸を買いに来ました。
 聞けば、この老僧は中国の五山のひとつ阿育王山の広利寺(こうりじ)の典座(てんぞ)だといいます。
 典座とは禅寺の食事係のことで、修行僧に食べさせようと椎茸を買いにきたというのです。
 道元は中国の僧に会えたことを喜び、話を聞きたくて引きとめ、ここに泊まっていくように勧めました。しかし老典座は、自分がいないと明日の食事に差し支えるからといって断りました。道元がいいました。
「でも、お寺には他にも炊事をしている人はいるのでしょう。あなたがいなくても食事は誰かが作るでしょう。それにあなたは高齢なのですから、典座の仕事など辞めて、どうして坐禅修行に専念されないのですか?」
 それを聞いて老典座がいいました。
「お若い外国の客人よ。あなたは、本当の修行とはどういうものか、学ぶということが何であるかも、おわかりでないようだ」
 そして、早足に帰っていきました。
 道元は、このときのことを『典座教訓』という著書の中で触れ、修行というのがどういうものか理解できたのは、この老典座あってのことであり、私にとっての大恩人であると述べています。

このページのトップへ