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                     道元物語(パート3)

 パート3 

 すべてが学問であり仏道
 それから二ヶ月ほどして、道元は五山のひとつである天童山を訪ね、無際了派禅師のもとで修行を始めました。すると隣に位置する阿育王山から、あのときの老典座が会いにきてくれました。そして再び、あのときの問答について教えを請います。
 老典座は答えます。
「文字(学問)を学ぶ者は、そもそも文字とは何かを知らなければなりません。同じように、仏道を歩もうとする者は、仏道とは何かを理解する必要があるのです」
「文字(学問)とは何なのですか?」
「一、二、三、四、五」
 これは数を数えているのではなく、一から十まで、つまりすべてが学問だといっているわけです。
「では、仏道とは何なのですか?」
「偏界不曽蔵(世界中あまねく現れていて隠しだてのないもの)」
 つまり、どんなことも修行であるというわけです。はるばる椎茸を買いにくるのも、典座の雑務も、すべてが学問であり仏道なのだといったのです。
 道元はまた、この寺において別の老典座からも貴重なことを学んでいます。
 ある夏の、もっとも暑い日中に、汗まみれになってきのこを干している典座を見かけました。年齢を尋ねると六八歳だといいます。道元はいいました。
「なぜ下働きの者を使わないのですか?」
「他是非我(それでは、自分がしたことになりませんよ)」
「せめて、もう少し涼しくなってからにしたら?」
「なぜ別のときを待たなければならんのかね?(今やらずに、いつやるのかね?)」
 典座という職務は、修行経験の長い僧でないとなれないといいます。世間的な常識からいえば、ベテランの僧侶が下働きのような仕事をしているのですが、実はそんな典座こそが、仏道修行の姿だといわれているのです。
 炊事だとかその他の雑用を、修行とは関係のないものだと考えていた道元は、目から鱗が落ちるような思いにかられたに違いありません。
また、中国で修行中、ある寺で、こんなこともありました。古人の語録を読んでいると、四川省出身の僧で、道心厚い人が尋ねました。
「語録を見て、何の役に立つのですか?」
「国に帰って人を導くためです」
「それが何の役に立つのですか?」
「衆生に利益を与えるためです」
「結局のところ何の役に立つのですか?」
「……」
 僧は立ち去っていきました。この問答の意味を道元は考えました。
 何のため? 何のためなのだろう。なるほど、語録や公案などを見て、古人の行なわれたことを知ったり、あるいは、迷っている者のためにそれを説き明かしたりすることは、……もしかすると、自分の修行のためにも、他人を導くためにも、あまり意味のないことかもしれない。
 古人の語録を学ぶことは確かに大切ですが、そこに何が書かれてあるかといえば、仏祖の踏み行なった修行の様子や実際の修行生活の中での言葉のやりとりです。それは、言葉ではありますが、実際の修行が書かれています。
 この言葉を知るだけで、はたしてすべてが満たされるかといえば、そうではありません。その言葉が発せられるみなもとにあるものを追体験せずして、その言葉の真意をつかめるでしょうか。学ぶことが修行ではありません。学んで実践すること、それが修行です。日々の実践が修行なのです。
 道元はこのとき、次のように悟ったといいます。
「この私が、いくら語録や公案などを見て、古人の行なわれたことを知っても、それは知識にすぎない。自分がもっぱら坐禅・修行して、仏法を自ら究明して、肝心要のことを明らかにしさえすれば、その後には語録の一文字も知らなくても、人に教え示すのに、用い尽くすことはないはずだ。そうだ、だから、あの僧は「結局のところ何の役に立つのですか?」と言ったのだ。なるほどこれは真実の道理だ。

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