三宅幸子先生は、終戦直後から51年間の長きにわたり小林聖心女子学院小学校に奉職されました。先生のご生涯は、戦後の小林聖心女子学院の歩みと共にあったように思います。全身全霊をもって小学校教育にあたられました。
児童にとリ、厳しいところもあったようですが、きっぱリと厳しくおこって下さることに対し、児童は、自分達のためにしてくださったことと有り難く思っておりました。わからないこと、難しいことは、丁寧に教えてくださり、がんばったことに対しては、大いにほめてくださったようです。宿題は、たくさんあり不平を言っていたようですが、根気よく勉強する大切さを教えて下さったと後から感謝しているところもありました。
1990年(平成2年)定年で退職されましたが、その後、9年間は、小学校の図書館に勤務され、小学生の読書指導をして下さいました。
「図書館に入ると先生が、いつも優しい笑頗で、迎えてくださり、私は先生のいらっしゃる図書館で安心して、静かに考えながら、本が読めました。」と回想している児童。読書の傾向がかたよらないように一人一人に本を紹介して下さったり、感想文も丁寧に見て下さリ、必ずコメントを書いて下さったりなど細かいご指導をして下さいました。児童にとりそれは、励みになつたようです。
1980年代には、フランス、ジョワニーにある聖マグダレナ・ソフィアの生家を訪ねられたリ、フランス、ベルギー、イタリアの聖心の姉妹校も訪問され、学院に息づ信仰に触れられ、またこれらの旅を通して国際性を身につけられて行きました。
マリア様への信仰も厚く、いつも小さなロザリオを手に持たれ、祈っておられたお姿が、浮かびます。5月のマリア様の月には、ひもでロザリオを作られ、各クラスに配って下さいました。クラスごとに全員で天使祝詞の祈りを唱えたものでした。
建学の精神を具体化し、実践された例として銀杏募金があります。今年3月に病院にお見舞いに伺った時、「先生が始めて下さった6年生の銀杏洗いの作業と銀杏募金が24年間も続き、ハイチの国に毎年、30万円のお金を送金しているのですよ。」とお話しましたら、「最初の募金額は79100円でした。」とはっきり金額を覚えておられたので、驚きました。
銀杏募金が、三宅先生の発案で始められたいきさつは、次のようです。校庭にある銀杏の木々に9月頃から10月終わリ頃まで、黄色の実が沢山なり、ポタポタと地面に落ちていきます。児童、生徒達の通り道に銀杏の木々があるので、実は、いつのまにか踏み潰され、いやな臭いを放っていました。掃除の時間にそれらは、掃き集められ、捨てられていました。
1977年にベトナム難民の方達が、関西周辺に一時来ておられました。その方達のために何か役に立ちたいということで、当時の小学生達が銀杏を拾い、6年生が銀杏を洗うという作業が始められ、銀杏をお母様方に買って頂く銀杏募金が、始まったのでした。当時の6年生は、現在30歳半ばで、小学生の保護者として、学院に関わっておられる方達も数人あり、「自分達が、始めた銀杏洗いが、ずっと続いているのは、感激です。」という声を開きました。発案された先生にとってもお嬉しいことだと思います。
この年以来、6年生の銀杏洗いは、続けられていて、骨惜しみなく人のために働くことを実践できる機会となっています。2学期、下級生が銀杏を拾い、6年生が洗う作業は、今や、小学校の特色になつています。
今の小学生も時折歌う、大好きな「児童会の歌」、「運動会の歌」、聖フィリピン・デュシェーンのことを歌った「船の旅」、卒業式の時に歌う「感謝の歌」の歌詞は、すべて三宅先生の作詞です。「感謝の歌」の歌詞は、先生が、小林で長年培われた教育のお姿がにじみ出ているように思います
小林聖心50周年に、三宅先生がお作りになった感謝の歌は、この年以来、小林聖心の小学校の卒業式に歌われています。そして、※印の筒所は、毎年数を重ね、この3月には、28度回ったと歌って、6年生が巣立ちました
三宅先生がお亡くなリになっても、歌い継がれていくことでしょう。安らかに。
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