「プライベート・ナース -まりあ-」 プレイノート

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忘れないで 愛に満ちた世界に 君は生まれてきた

出会い

 ある日、本棚を片付けていたら、古い一枚のディスクが転げ出てきた。
 DPSの体験版ディスク。
 なにか、やってない面白いゲームでも入ってないかと、収録タイトルをずらっと眺めて……目に入ったのが、「プライベートナース-まりあ-」のタイトルだった。

 キャラの絵柄は嫌いではないし、気にはなっていたタイトルだったのだが――。
 元はパソコンのアダルトゲーム、さらに「個人付きの看護婦がヒロイン」という、ベタベタな「エロゲーテイスト」溢れる設定(てかPC版は本気でエロいらしいが)に恐れを為して、本編はおろかこの体験版ですら、大放置したままだった。

 そもそも「ギャルゲー」はあまりやらないし(プレイしたのは「トゥハート」くらいか。嫌いというより照れくさいからなのかもしれない)、ノベルゲーも、文章を読むなら本で読むよ、というタイプなので、「かまいたち」のような有名どころさえも未プレイだ。

 なのに、なぜか、無性に気になった。
 気になって、気になって、しかたなかった。
 そのくせ、それまでにプレイしていたゲームのディスクを、PS2から抜き出そうとはしなかった。
 そこに入っていたものは、すでに再再再プレイくらいの、それほど熱中しているわけでもない、ヒマ潰し用のものにすぎないのに。
 なぜだろう。やはり、その「設定」にまだ、恐れを為しているからか。それとも……。

 しかし、ついに意を決して、体験版ディスクをセットした。
 なつかしいOP画面に並ぶ収録タイトルたちの中に、本作のタイトルを見つけ、早速クリックする。
 そして、運命は変わった
舞い降りる朝

 ……つらいの?
 ……苦しいの?

 でも大丈夫…… 大丈夫。 
 大丈夫だよ

 わたしが今 そこにいくから……
 わたしが…… いくからね


 大樹の木洩れ日の中から、不思議な、神秘と慈愛に満ちた声が響いてくる。
 そんな画面から、物語は静かに始まった。

 ……と思った瞬間、画面はフツーのAVG風のものに切り替わり、ガンガンと激しく扉を叩くSEが、やかましく鳴り響く。
 夢から抜け出せないでいる主人公・「力道広樹」をよそに、扉を叩く音は、もはやノックの域を遥かに超え、鉄の扉であろうとブチ壊そうとしてるとしか思えないレベルになる。私も思わず、かけていたヘッドホンをとっぱずしたくなる。
 たまらず飛び起き、扉を開けた広樹の前に、「見慣れた人影」が飛び込んでくる。

「ヒロちゃん、まだ寝てたの? 遅刻しちゃうよ?」
 隣に住む、元気(すぎる?)な幼馴染・「宮森彩乃」だ。
 着替えを手伝おうか、などと言い出したり、かなりのおせっかいキャラのようだ。まあ、幼馴染キャラとしては王道だよな、と……この時は軽く思っただけだった。

 しかし、広樹は、そんなおせっかいを少し煙たく思っているようで、とりあえず彩乃を外に待たせると、着替えて出かける……寸前に、「少しだけ食欲があるような気がして」立ち止まった。「食べられる時に食べておくべきか」とまで考える。
 それはあまり、フツーの感覚とは言いがたいため、不安を誘うが……まあどちらにせよ、時間がないので外へ出る広樹。

 ここで、彼らにとっては恒例らしい「じゃんけん勝負」
 彩乃はスクーターで送ろうとするし、広樹は自分の足で歩くべきだと主張(女子の後ろに乗せてもらうのが気恥ずかしいというのもあるらしい)、その登校手段を決めるための勝負だとのこと。後には選択肢によるミニゲームになったりするが、ここではシナリオで広樹の勝ち。
 ふたりは、いささか急ぎ足で「歩いて」学校へ向かう。しかし……

「ヒロちゃん、ちょっとペース早くない?」
 心配そうに覗き込む彩乃。
「平気平気、今日はそんなに悪くないんだからさ」
 広樹の答に、そういえばこの主人公は、病気を抱えていたのだったな、と思い出す。
 冒頭の空腹云々も、その影響か。
 しかし、ちょっと早足で歩いただけで、そんな顔をさせるというのは……どれだけひどいのだろうか……。
 その後も、さかんに心配する彩乃に対し、おせっかいを煙たがる広樹はますます足を速めたりする。意地を張り続ける広樹にキレた彩乃がスタタタタと走っていき、「実力の違い」を見せ付けると、ムキになった広樹が、それを追いかけ……。
 そこで、広樹の意識は途絶えた。彩乃の悲鳴も、もう耳に届かなかった。



 暗い闇の中で目覚め、「地獄に落ちたのか」とあわてふためく広樹は、頭へのスリッパの一撃で、ようやくきちんと目を覚ます。
「ほら、言わんこっちゃ無い。ヒロちゃん、その負けず嫌いな性格、直したほうがいいよ」
 目を開けると、キツめの言葉(と、スリッパで殴って起こすという過激な行動)とは裏腹に、心配そうな顔で覗き込む、彩乃のどアップ。
 そこは、「常連」である保健室のベッドの上だった。
 もう放課後だと聞かされて愕然とする広樹は、悄然と、保健室の「ヌシ」である「沙生美緒」先生に礼をして帰路につく。彼を送るため、わざわざスクーターを持ってきてくれたという彩乃に、感謝しながら……。

 スクーターの威力で、あっという間にアパートに着いた広樹は、やれやれとばかりに部屋に入るが、なぜか彩乃まで乗り込んできたから、目を三角にした。
「なぜお前が入って来るんだよ。お前の家はあっちだろ」
「ヒロちゃんがちゃんと休むか、確認してから帰ろうかと思って」
 まったく悪びれずに答える彩乃に、さらに文句を言おうとした所に、電話がかかってきた。運命の電話が。

 それは、広樹の母親からの電話だった。
「お前が煮え切らないから、頼んじゃったからね」
「ふざけんな!ハッキリ断ったろう」
「んじゃ、元気におやり」
 ぶち。謎の会話を残して、切れる電話。
「き、切りやがった、あのババァ……」
「なに? 今の、おばさんから?」
 今度は、電話の内容について聞きほじり始めた彩乃。そこに、聞かれたくない事情が含まれているらしく、教えるどころか、さっさと彩乃を追い出そうとする広樹。だが……、
「アタシ、ヒロちゃんのおばさんに言われてるんだからね!『私がいないときは、広樹のことをお願いね』って」
 こう言われると、今日のことといい、確かにお世話になってるし、それをうるさがりながらも、実は深く感謝もしている広樹としては、それ以上強い言葉も言いようがなかった。
 そこに、ノックの音がした。
 彩乃への反撃手段を奪われ、言葉に窮していた広樹は、大喜びで玄関にかけよった。場合によっては、来客にかこつけて、彩乃を追い払ってしまおうと考えつつ。
 気が急いていた彼は、相手をよく確かめもせずノブを回し、その「救いの女神」を迎え入れた――。

 そこに立っていたのは……大きな傘を差した、不思議な服装の女の子だった。
 彩乃より、少しだけ幼く見えるような。


 そんな描写とともに、足元からゆっくりとスクロールして、大きなパラソルを差した、変わった形の、緑色のナース服の少女が、画面いっぱいに現れる。
「……キミ……は?」
「こんにちは。あなたが広樹さんですか?」
「……………………」
 見た目に相応しい、上品かつ可愛らしい声で聞いてきた少女だったが、広樹はなにやら言葉を失っている。
「もしかしてわたし、お家を間違えました?」
「いや……多分合ってるけど」
「そうですか、それではやっぱり、あなたが広樹さんですね!」
「……ああ」
 どこかマヌケな会話をしつつ、広樹は、その少女の背中から吹く風のようなものを感じていた。どこか遠い、森林の香りを運び込んできた……かのような。
「あの……キミは一体?」
 なぜか、恐る恐る聞く広樹に、少女は元気に答えた。
「わたし……まりあっていいます。これから一ケ月間、よろしくお願いしますね、広樹さん!」
 まりあの会心の笑顔、画面いっぱいにアップ。

 彼女が初めて見せた笑顔。
 その笑顔がもたらすものを、俺は何一つわからずにいたのだった……


 そんな「広樹」のモノローグを呑気に見ていた私も、これから自分に何が起きるのか、何一つわからずにいたのだ――。

プライベート・ナース
 「まりあ」と名乗った少女は、当然のように広樹の部屋に上がりこみ、ちょこんと正座して、部屋の中を見回していた。そんなまりあに、戸惑う広樹と彩乃。
「あのさ、キミは一体……」
「わたしですか? わたしはまりあですけど」
 どことなくボケ属性を匂わせる、まりあの受け答え。
「いや、名前じゃなくてさ、キミは何のために家に来たの?」
「それはもちろん、広樹さんのお世話をさせて頂く為です!」
「ひ、ヒロちゃんのお世話ぁ!?」
 キッパリ答えたまりあの言葉に、彩乃の声がひっくり返った。そして、広樹の耳元に顔を寄せてヒソヒソと囁く。
(一体これはどういう事なの、ヒロちゃん!)
(そんなの俺の方が知りたいよ! どうして突然、俺が見も知りもしない女の子の世話にならなきゃならないんだよ……んっ……あぁ!)
 頭の中でひっかかっていた「何か」が、ようやく答えに繋がった広樹は、そんなヒソヒソ話をしているやつらなどいない、と言わんばかりにニコニコしているまりあに向かって、叫んだ。
「もしかしてキミ……『プライベート・ナース』なの?」
「はいっ!」
 笑顔で答えるまりあ。
(ぐあぁ……すべて、あのババァの思惑通りってことかよ……)
 ショックのあまり、「だったら最初からそう言え」というツッコミをする余裕もない広樹。

(ヒロちゃん、この子「プライベート・ナース」って言ったよね。どこかで聞いたことあるんだよね……)
(病人の家に住み込んで、つきっきりで看病してくれる看護婦らしいよ。俺も詳しい事は知らないんだけどね)
「ふぅん、そうなんだ。住み込みで……って、住み込みぃ!?」
 彩乃の声がまた裏返った。
「あ……ぁ、あなな……アナタ、ここに住むの? 住んじゃうの?」
「ハイ! 一ケ月の間ですけど、精一杯広樹さんのお世話をさせて頂きます」
 屈託なく答えるまりあ。口をパクパクさせて驚きまくる彩乃は、やがてその口を閉じると、恐ろしい形相で広樹を睨んだ。
「へぇぇ……そんなすごい人、雇ったんだ。すっごいねぇ、ヒロちゃんも」
 そこに込められてるものは、あきらかに嫉妬混じりの皮肉であったが、他にも、怒りだの戸惑いだの、そしてなぜか、少しばかりの悲しみまで、様々な感情が押し込められた、空恐ろしい声だった。
「お、お前な、何か勘違いしてるぞ。この子を雇ったのは俺じゃねぇ、母ちゃんだよ」
「えっ、そうなの?」

 広樹はあわてて説明というか釈明をした。
 仕事で滅多に家に帰れない母が、広樹の体を心配して、プライベート・ナースとの契約を打診したという電話がこの間あったということ。そもそも、さきほどの電話も、本当に契約しちゃうよ、という確認の電話だったということ。ついでに、拒否した自分の意思は完全にスルーされたこと……。
(まさか、そっから10分とかからずに来るとは……)
 不機嫌にぶつぶつ呟く広樹に対し、彩乃のほうは、すっかり普通の態度に戻っていた。
「へぇ、そういう事なんだ。そういえば、最近のヒロちゃん、どことなく前より具合悪そうだもんね。おばさんも心配してるのよ」
「あの……」
「いい迷惑だよ。たまにしか帰ってこないくせに」
「そんな事言わないの。いつも側にいられないから、かえって心配なんじゃないの」
「あのぅ……、ちょっといいですか?」
 白熱する二人の会話に、笑顔のまりあが割り込む。
「わたし、どこにいればいいでしょうか?」
「どこって……どういうこと?」
「これから一ケ月の間、こちらにお世話になりますから……どこかに荷物を置かせて頂きたいんですけど」
「本当に……住むんだね」
 なんとなく、気を飲まれたような声の彩乃に、
「ハイ、いつでも広樹さんの側にいますからね!」
 笑顔で答えるまりあ。その答に、めまいさえ感じる広樹。
(一体、どうなっちゃうんだよ、俺の生活……)
 不便だけど、気楽な独り暮らし……。それの終わりを告げるその事実を、だが広樹は認めたくなかった。
 そもそもこれは、母の勝手な契約なのだ、自分は決して認めない。認めないぞ、と。
「あのさ、マリ……」
 広樹が、その意見を、バシッ! と言ってやろうとしたその瞬間。
「ちょっとヒロちゃん、一緒に来て」
 彩乃に腕を引っつかまれて、強引に玄関から外へ連れ出される広樹。
「いってらっしゃい、広樹さん!」
 そんなふたりを、笑顔で見送るまりあ。やはりボケ属性が濃そうだ……。
VS 彩乃

 押しかけ同居人の来襲という、突然の事態に、激しく混乱する広樹。
「ヒロちゃん……一体どうするつもりなの?」
 そこに、追い討ちをかける彩乃。
「どうするって言われてもなぁ……母ちゃんが勝手に雇ったんだしな……」
「……そうだよね。おばさんが決めたこと……だもんね」
 なぜか、いっしょになって不安げに考えこむ彩乃に、広樹は、さきほどまりあに言いかけた「結論」を伝える。
「彼女さ……マリアのことだけど、何とか断ろうと思ってる。あんなの居たら、俺の自由が無くなっちゃうだろ!」
「でもさ、ヒロちゃんの具合が悪いんだったら、いてもらったほうがいいんじゃないかな……」
 どことなく歯切れの悪い、彩乃の言葉。初めはとんだ闖入者と、敵意にも似たものを見せていたが、事情がそうならば、むしろ……と考え直しつつあるらしい。
 だがそれは、一人で居たい広樹にとっては、有難くない方向といえた。
「平気だってば! 俺は母ちゃんや彩乃が思っているほど、調子悪くないんだぜ」
 しかしこれは、かなり無理のある言い草だった。
「でもさ、今朝だって倒れたじゃない」
 すかさず、至極もっともな反論がきた。
「あ……あれは無理しちゃったからだって! これからは気をつけるよ」
「でも……」
 彩乃のほうとしても、闖入者に居座られるのは、あまり嬉しくない事態なのだろう。
 しかし、それこそ今朝ぶっ倒れたばかりの広樹の世話をしたのは彩乃自身だ。ある意味、広樹自身よりもさえ、その事実を深刻に捉え、心配しているのだ。
 それを察したのか、広樹は「切り札」を出した。

「大丈夫だって! 万が一、どうしようもなくなったら、お前んちに転がり込むから」
「……本当?」
「ああ、頼りにしてるんだぜ、お前の事」
「そっか……うん、分かったよ」
 広樹の切り札、「頼りにしてるんだぜ」が効いたのか、ようやく納得して、お向かいの家へと帰っていく彩乃。
 それを見送って一息ついた広樹は、次の戦いへと向かう。この事態を招いた張本人、「プライベート・ナース」に帰ってもらう説得をするという、ちょっと情けない気もする戦いに。
「よし、いくぞ!」
 自分の頬を叩いて気合を入れる広樹。
(流されないようにしないとな! なにしろ……)
 さらにもう一回気合を入れなおす。
(なにしろ――結構、可愛いからな……あの子)
 彩乃あたりに聞かれたら張り倒されそうなことを考えながら、広樹は自室へ向かう階段を昇った。
VS まりあ
「あっ、おかえりなさい、広樹さん! 早かったんですね」
 部屋に戻るなり、まりあの「明るい笑顔と元気な声」という先制攻撃を受けた広樹。
「ああ、ただいま……じゃ、なくて! マリアだっけ、きみ?」
「……いいえ、違いますよ」
「えっ? 確か、そう聞いたような……」
「『マリア』じゃなくて、『まりあ』です。間違わないで下さいね、広樹さん」
「は、はぁ……」
 どこが違うのかよくわからない、まりあのそのこだわりに、目を白黒させる広樹。ボケ属性疑惑を、さらに強めるプレイヤー。
(いやいや、そんな細かいことはどうでもいいだろう。彼女の名前を呼ぶのは、きっと今日限りなのだから……)
 少し苦く思いつつ、体勢を立て直した広樹は、いよいよ本題に取り掛かった。
「じゃあ、その、まりあさん?」
「まりあ、でいいですよ」
「はいはい。分かったよ。まりあ、キミに頼みたいことがあるんだ」
「はい、なんでしょうか?」
 まっすぐ見つめてくるまりあの大きな瞳に、いささかひるんだ広樹だが、視線を逸らし、息を詰まらせつつも、言い切った。
「……ここから、出て行ってくれないかな?」

「えっ、どうしてですか? わたし、広樹さんのために、まだ何もしてませんよ? 具合も悪そうに見えますし」
 怒るでもなく、むしろ心配そうに叫ぶまりあ。
「こう見えても俺は元気だよ。医者や看護婦の世話になる必要なんて、ないから」
 我ながら白々しいと思っている様子の広樹に、
「そんな事、ありません!」
 一言叫ぶと、ずいと近寄り(心配そうな顔のどアップ)、ギュギュっと広樹の手を掴むまりあ。
「こうすれば、分かります……広樹さんの身体が、悲鳴をあげているのが」
 あわてる広樹をよそに、上向きに開いたその右手を、強く握り締める。
(え……)
 広樹は、自分の身体が、それに過敏に反応しているのを感じる。怯えているのか。いや違う、彼女に……助けを求めている?
 全身の血液が、熱を持ち始めた……不思議な暖かさが、手からつま先に、そして頭にまで広がっていく。まるで風呂上りのように、軽くのぼせてしまっている自分の身体の反応を、
(こんな可愛い子に、手を握られているからだろうか……)
 などと、なんとか常識の範囲内で考えようとする広樹。だが、そんなものではなさそうだということも、うっすら感じている。
 やがて、そっと手を離したまりあは、広樹に優しく微笑みかけた。見ているだけで、安心感を与えてくれるような、暖かい、慈愛の笑顔。
「……大丈夫、きっと良くなりますよ、広樹さん」
「そ、そうかな……」
 思わず答える広樹。
(もしかしたら、彼女が側にいてくれるのなら……って、違う!)
 広樹は、軽く頭を振った。
(危うく彼女の術中に落ちるところだった。さすがに、普通の看護婦とは一味違うようだ……)

 気合を入れなおし、あくまでも断ろうとする広樹。
 しかし、「契約」を盾に、頑として受け入れないまりあ。
 戦いは続いた。

「わたしに広樹さんのお世話をさせて下さい、お願いします」
「……ヤダ! やなものはヤなんだ、絶対にヤダ!」
 まりあの微笑み攻撃に反撃する手段が尽きたのか、しまいには、駄々っ子状態になりつつある広樹だったが。
「そ、そんな……」
 うつむいて、悲しげな表情に変わるまりあの顔を見て、言葉に詰まった。
(うっ……、辛い、辛すぎる! このまま泣かせてしまったら、『女を泣かせるやつは、男のクズだ!』と、天国の父ちゃんに叱られそうだ。それは置いても、一生懸命に仕事をしようとしているまりあを苛めているようにしか思えない。これじゃ、どう見ても、こっちが悪役だ……)
「……ダメなんですか?」
「えっ?」
「わたし、本当にここにいちゃダメなんですか?」
「あ、まぁ、その……」
「そんなにわたし……迷惑なんですか?」
 なにか、仕事の範疇を越えて心底悲しげな様子のまりあの顔と声に、広樹は何も言えなくなってしまった。
 
約束は一週間

 カァ……カァ……。
 気がつくと、外はもう陽が暮れようとしていた。
 長い長い沈黙の時。
 自分のせいでもあるとはいえ、いや、自分のせいであるからこそ、広樹はめっきり気を滅入らせてしまっていた。
 それだけではなく、「病は気から」を体現するかのように、体調も、ぐんと落ち始めていた。彩乃には強がっていたが、もともと、ここしばらくは苦しく思う日々が続いていたという。どこがどう悪いとさえも言えぬ、ダルさを極限まで高めたようなもの。長年――いや、生まれてこのかた、ずっと彼は「それ」に耐え続けてきたのだ――。

「あの、広樹さん?」
「ん?」
「顔色、悪いですよ。大丈夫ですか?」
 長い沈黙を破ったまりあの第一声は、広樹を気遣う言葉だった。
「平気平気、大丈夫だよ」
 ここで本当の体調を言おうものなら、断る理由がなくなってしまう。やせ我慢を決め込もうとする広樹だが……彼の体は、その意思には応えてくれなかった。
「やっぱり、具合悪そうですよ?」
(…………っ)
 ついに、広樹の気力が尽きた。立っていられず、ベッドに座り込んでしまう。
(しかたない……本当なら、今日帰ってもらえるのが理想だったが……)
 心配げなまりあに、広樹は、先ほど思いついた妥協案を伝えた。

「……とりあえずさ、しばらく様子を見るってことで、どうかな……」
「えっ? それって……」
「これから10日……いや、一週間なら、ここにいていいよ」
 どこか投げやりに言う広樹。
「それだけしか、ダメなんですか?」
 不服そうに頬をふくらませるまりあ。そんな顔も、ちょっと可愛らしかったりする。
「いや、その一週間で、俺の気が変わったら……契約通り一ケ月、キミのお世話になるよ」
「……ありがとうございます、広樹さん!」
 笑顔に戻るまりあ。――だが。
「まだ喜ぶのは早いよ。俺の気が変わらなかったら、一週間後には諦めてここを出て行ってもらうからな。これ以上は譲らない……ダメだったら、今すぐ帰ってくれ!」

 目を閉じて、じっと真剣に考えこむまりあ。
 やがて目を開けると、広樹をまっすぐ見つめて、答えた。
「……わかりました。一週間以内に、広樹さんに認めてもらえばいいんですね!」
「ああ、俺は一度交わした約束は、絶対守るからな!」
「はい……わたし、広樹さんに認めてもらえるよう、頑張りますねっ」
 この殊勝な笑顔が、一週間後にどうなっているのか。
(それを考えると、気が重いが……今日のところはこれで良しとするしかないか)
 広樹は、ぐったりした頭の中で考えた。
(だが、今からしっかり準備しておかないとな。七日後に、キッパリ『No!』と言えるように。俺は、絶対、流されないぞ!)
 偉そうなことを言ってる割に、よく考えるとやたら後ろ向きな考え方だったりするのだが、この時の広樹は、そんなことには気づいていなかった。そして、プレイヤー自身も……。

 ともあれ、脳内で新たな決意を固めている広樹に、まりあは驚愕の一言を告げる。
「あのう……わたし、広樹さんと一緒の部屋にいてもいいですか?」
 予想外の一撃に、広樹の頭がのけぞる。
「い……一緒!? 冗談じゃない、迷惑だ!(というか、眠れなくなっちまうだろ!)」
「でもわたし、なるべく広樹さんの側にいないといけないんです」
「ダメ! 用の無い時は、そっちの部屋にいてくれ! それだけは、約束だぞ!」
 左に見えるふすまを指差す広樹。そこは、滅多に帰ってこない、彼の母の部屋だった。
「はい、わかりました」
 今度は、まったく逆らわず、いつのまにか運び込まれていた荷物とともに、まりあは隣の部屋へと入っていった。
「それじゃ……おやすみなさい、広樹さん」

「おやすみ……だって?」
 ふと見ると、窓の外は、すっかり真っ暗になっていた。ついでに見た時計はもう、夜の10時を回っていた。
 食事を取っていないことに気づいた広樹だったが、「今日もまた」腹は減っていないことを理由に、とっとと床につくのだった。

(はぁ……)
 翌日からの「不自由な日々」を思い、ため息をつく広樹。
(どうせ、なんだかんだと俺の行動を制限した末、手の施しようがなくなると、放り出すか、得体の知れない薬を渡すだけだろう。どんなに優しく接してくれても、しょせん医者なんて……そんなもんだ)
(まりあ……プライベート・ナースだかなんだか知らないが、どうせあの子だって、何もできやしない……)
(誰が何をしたって、俺のこの身体は、どうなるものでもない。頼れるのは、自分だけだ。自分の気合だけで、やっていくしかないんだ……)

 深い、深い病院不信……人間不信にさえ近いほどの、医者不信。
 そこに至るまで、どんな苦闘があったのか、それはわからない。
 だが、その闇は、たしかに彼を蝕んでいた。
 だが、どうしてだろう。そんな彼の姿に、見覚えがあったのは。
 その後ろ向きな、たぶん、多くの人に「情けない」と揶揄されるであろう惨めな独白に、共感をさえ、覚えてしまったのは。

「もう……寝よう……」
 全身を覆いつくす重い気だるさに耐えながら、広樹はひとりごちた。
 ベッドに埋めた身体が、そのまま底なしの闇に埋もれていくようだった。
(どこまで落ちていくんだろうか、俺は……)


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