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関富士子のエッセイ
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フジトミ詩とヤスオ絵の怪しい関係 1  関 富士子

初出「銀河詩手帖」167号1997年を改稿







 拒絶 藤富保男



舌  石になったから喋らない

 喋らないから笑わない

 笑わないから目が動かない

 手をふりあげたままである

 残念にも

 舌を引込めるのを忘れた

 (「Bo'r」2号1995年)


<舌と否>


 「舌」である。
 それにしても、何とにくにくしく、ふてぶてしい舌であろうか。笑った口の形から伸び伸びと垂れて、真ん中に深い筋まで入っている。

 肉厚で、艶がよく、稚気と邪気が渾然とした、エネルギーにあふれる舌である。うそつきの大好きな閻魔大王も喜んでタンシチュウか焼き肉にするだろう。

 詩「拒絶」では、石になって、喋らず、笑わず、目も動かさず、手も振りあげたまま硬直してしまった人物が、「残念にも」大きな舌を出したままでいる。

 「残念にも」を字義通り受け取ってはならない。舌だけは決して引っ込めるものか、という昂然たる態度なのだ。体全体で「拒絶」し、「舌」で意志表明をしているのである。

 大人はふつう舌を出さない。すまして口の中へ収めている。その口の中で舌を操り、言辞を弄して我が身の正当を主張する。

 舌を出すのはおおむね子供である。何か悪さをして叱られすっとんで逃げ、くるりと振り向いて大きなあっかんべーをする。あの憎たらしい得意げな顔。

 今、藤富保男の「舌」を眺めていると、忽然と了解されるものがある。この「拒絶」はこの世の社会規範のすべてへのあっかんべーではないか。そういえば、「舌」という字はちょっと「否」(ノウ)にも似ているではないか。

 もちろんこの「絵字」は、詩人の単なる思いつきではない。『新字源』によると、「舌」は独立した部首を成し、その形は「口からしたを出したさまにより、『した』の意を表す」とある。



拒否  藤富保男



拒否 静かにしてくれ

わめき散らすな

なぜ

一斉に歯ぎしりするのだ

蝉よ



いきなり音を立てるな

夜の空の奥をのぞかせてくれ

なぜ

そんなに見栄を張るのだ

花火よ



来ないでくれ

ぼくのまわりで ひとり言を言うな

なぜ

だまって体にさわるのだ

蚊よ

(詩集『やぶにらみ』より1992年思潮社刊)      身の毛


 詩集『やぶにらみ』(1992年刊)を開くと、後半に、「十二ケ月のアペリティフ」と名づけられた絵入りの詩が収められているが、ここにも「拒否」という作品がある。

 8月は彼を困惑させる季節だ。静かに夜の空の奥をのぞいていたいと願うだけなのに、蝉はわめき散らし一斉に歯ぎしりするし、見栄っ張りの花火はいきなり音を立てる。そのうえ、蚊はブーンと馴れ馴れしく体にさわりにくる。

 「静かにしてくれ」と懇願するが、蝉も花火も蚊もおかまいなし。憂鬱は秋が来るまで続く。絵には別に「身の毛」というタイトルがついている。彼にとって夏は、まったく「身の毛もよだつ」季節なのだろう。

 ここでの拒否は、前の「拒絶」よりやや弱気だが、この詩人の自己に対する他者、あるいは内面に対する外的世界への感じ方や認識を伺わせる。

 彼の幸福は、一人静かに暗やみを見つめて過ごすことにある。そして、彼にとっての他者、彼を取り巻く外界は、ただただ、無神経にその静謐を破り、ささやかな平安を乱しに来る者というわけなのだ。







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