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関富士子のエッセイ
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フジトミ詩とヤスオ絵の怪しい関係 4  関 富士子

初出「銀河詩手帖」167号1997年を改稿






対決  対決  藤富保男



 あなたは

 わたしの孤独を犯しに

 しのび込もうとする



 か

 (「Bo'r」6号)


<特に誰でもない「あなた」>

 詩「対決」においては、「あなた」という人物が、「わたしの孤独」を犯しに来る者として登場する。

 一文を四行に分けた構成だが、文末の疑問形を表す「か」を一行空けてぽつんと置いている。この「か」は、問いかけというより、確認の意味、そうか、来るか、というニュアンスであろう。

 しかし、この詩の「あなた」を自分と「対決」する他者と明確に決めることはできない。添えられた絵が人物半分だけの後ろ姿で、あとの半分は、一回り小さい影である。

 ここでは「あなた」は影のように寄り添うもう一人の自分、と考えてもよいかもしれない。



 にらむ  藤富保男



にらむ  わたしの向うは

 わたしの天



 淋しさに舌出さず



 ねずみ や

 とかげ も恐れず



 ただあなたが怖い

 (「蘭」37号 1994年)


 詩「にらむ」はなんだかよくわからない作品である。

 ここでの「わたし」は、「淋しさに舌出さず」「ねずみ や/とかげ も恐れず」、しかし「ただあなたが怖い」と言っている。

 彼をにらみつけている「あなた」とは、文脈上、初めのほうの「わたしの天」を指すのではないかと思われる。

 では、「天」とは何のことか。宗教的な意味があるとも思えない。まさか「天に唾すりゃおのれにかかる」の教訓でもあるまい。簡潔、的確な言葉遣いを身上とするフジトミ詩にしては不用意な語にも思える。

 絵を見ると、にらむように目をむき、唇をゆがめた人物の横顔。お面のように四角く、しかも三重にぶれている。

 ともかく「あなた」は「わたしの天」にいて、得体の知れない怖いものであるらしい。



   藤富保男

 

影 もしあの顔が笑いかけたら



 もしあの人が立ちあがってくれたら



 そしてもし折りたたんで

 あの平面をポケットにしまえたら



 いつも自分にまとう

 一枚の黒い面積

 (銀河詩手帖154号1994年)




 詩「影」には「あの人」という他者が登場する。「あの人」が自分に笑いかけ、立ち上がってくれることを願う。折りたたんでポケットにしまいたいとまで思う。最後の連で、「あの人」とはここでは「いつも自分にまとう/一枚の黒い面積」つまり影のことと判明する。

 絵に描かれた影は片方の手首が手袋をはめたように白く、ゆうれいのように垂れている。立っている女性の片方の手首は、黒く染まっているようにも見える。

 影は、これまでしばしば、心理学的にも文学の表現においても、近代的自我が認識する自分自身の象徴として扱われてきた。この詩では、他者を恋うようにみえながら結局は自分の影に焦がれている人物がいる。自意識というものが抱きやすい自己反復、堂々めぐりへの、詩人の嗤いが隠れているように思えるがどうだろう。

 ここに『山田』(一九八五年刊)という詩集がある。全体に何ともいえない悲しみ、淋しさ、孤独感に満ちていて、このような感情の発露は、藤富保男の詩集としては異質といってよい。

 この詩集のほとんどの作品に登場するのが、「その人」「あの人」そして「あなた」である。この人物は作者にとってはげしい恋慕の対象であり、ついに手の届かぬ遠い人らしい。彼の苦しみの原因はすべてそこにある。ところがこの人物は、なんと「特に誰でもない」のである。詩「山田」でも、

  野にダリア 一面に乱れ

 あの人 特に誰

 でもなく

 あなたでもなく

 うなりつづけて晴のち誰のちあれ (部分)

なんて調子で、「ダリア」「ミダレ」「ダレ」「ハレ」「アレ」の音が悲しくおかしく響くのみである。



詩人藤富保男の紹介
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