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関富士子のエッセイ
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フジトミ詩とヤスオ絵の怪しい関係 3  関 富士子

初出「銀河詩手帖」167号1997年を改稿






 公園  藤富保男



 昼すぎ

 帽子だけがとんで来た



 夕方

 傘が来て座っている



 けれど

 それから一年間

 ベンチには

 ずっと誰もやって来ない



 木かげの

 銅像が時々

 笑っている


公園      (「投壜通信」1995年3月号)



 <あっかんべーをする銅像>



しかし、これらの詩(2 「孤独のポエジー」)に漂う親密さ、優しさに油断してはならない。

 詩「公園」はベンチに帽子と傘だけが座っている、メルヘン的情景である。ところが、持ち主はもう一年も現れない。絵を見ると、このベンチたるやばかに長い。普通の長さの少なくとも四倍はあり、その両端に帽子と傘がある。

 つまり、帽子と傘は同じベンチに座っていながら、ひどく離れているのである。これでは話もできない。二人は長い間当惑したままである。

 要するに二人はそんな関係なのだ。どうにかしてあげたいものだが、しかしスぺースが許せば、詩人はさらにさらにベンチを延ばしたであろうと思われる。

 なぜなら、「木かげの銅像」が二人を見て「笑っている」からである。この意地悪な笑いこそ、この詩人の真骨頂である。

 


   藤富保男



神  丸くなって

 まだまだ まるくなって

 背中をまげて

 もう少しまげて

 首をはずして

 もう少し

 そう その通り

 よくできた

 ちょっと邪魔だな その髪

     (「仮象」9号)
                 



 詩「神」はたいそうな題だが、詩も絵も妙ちくりんなものだ。

 誰かが誰かに向かって、丸くなれだの、首をはずせだのと指図している。相手も懸命にそのとおり動いているようだ。褒めたりけなしたり、熱心だがへたなアマチュアカメラマンと、そのモデルだろうか。

 ようやく決まったポーズはと見ると、なんと股の間から「髪」がはみ出している。こんな写真を撮られては、権威ある「神」も形無しである。

 「詩は関係の取引である」(『藤富保男詩集』思潮社現代詩文庫「発射的な詩への見解」より)とは、彼の有名な言葉だ。関係にもいろいろあるが、それを人間に限定すれば、「取引」とは、人間存在、それに伴う人間関係を客観化し、風通しのよいものとする精神と考えられるだろう。

 私たちは、生きているかぎり人間関係から逃れることはできないが、何食わぬ顔をしてくるりと後ろを向き、舌を出すことはできるのだ。これを諧謔ともいう。

 また、こうして作品を見ていくと、詩とそれに添える絵というものの愉快な関係がわかる。どちらが先に生まれるのかは場合によるだろう。読者はやはり、一目でわかる絵を先に見ることになるが、詩を読んでみると、まず詩の展開があって、結果に絵がくるという場合が多い。詩と絵は決して重複するところがなく、それでいながら、二人は切っても切れない深い仲。絵を見、詩を読んで、また絵を眺めて、詩人の言わんとするところが、はたと明らかになるのだ。



詩人藤富保男の紹介
「フジトミ詩とヤスオ絵の怪しい関係4 特に誰でもないあなた」へ
「フジトミ詩とヤスオ絵の怪しい関係2 孤独のポエジー」へ
「フジトミ詩とヤスオ絵の怪しい関係1 「舌と否」へ
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