フジトミ詩とヤスオ絵の怪しい関係 7 関 富士子
初出「銀河詩手帖」167号1997年を改稿
<猿のおもちゃ>
近年、詩人本人がある幼なじみに言われたという話だが、かつての藤富保男少年は、友人の家に遊びに行っても、その友人の部屋に閉じこもって「絵ばかり描いてやがった」そうである。彼はいまだに少年のころの楽しい遊びに熱中しているにすぎないのかもしれない。
絵を描く少年は、言葉というもう一つのおもちゃも手に入れた。そして、このおもちゃを、誰も使わないような彼独自の方法で、自由自在に操るようになる。初期の『正確な曖昧』(『藤富保男詩集』現代詩文庫)などの詩は、日本語そのものを手玉に取った、それまで見たこともない驚嘆すべきもので、これを初めて読んだとき、私の心は笑いと喜びでいっぱいになったものだ。
本当 藤富保男
みんなが
僕を笑って みるみる大きな声で笑い出して
声は
肥りはじめ 風船のようになって上りかかっっ
さて
もう誰もいない 一人一人ずつが
一人で遠くに逃げて行ったの
だ
地下道のような空洞が僕の頭に広がる
なるべく
があったり
しかし
が歩いっていたり
冷えた水滴が落ちぃてぇいたぁりしててて
僕は花キャベツのように笑い返してから
( )のように蒸発してしまいたい
自転車にのって
あなたは馬ね鹿よ
がやってくる
あの女も どちらかの右か左かで言うと本当は嫌だのだ
あの西洋皿ふうの顎
あの夕立のような指
僕は 笑 割られて
もう
(正確な曖昧」時間社刊1961年より)
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みんなに笑われた青年が、恥ずかしさのあまり、蒸発してしまいたいと身もだえている。小さい「っ」や「て」の連続が不幸な吃音のように響く。「だ」が一行だけで呆然としている。「なるべく」や「しかし」は、副詞や接続詞の働きを忘れてとまどっている。「馬鹿」は分裂し、「笑われる」「割られる」はくっついてしまった。奇妙な焦燥感が哀れな青年を駆り立てる。
この詩を読んだとき、自分が今まで抱いていた詩というものの概念が、一気に崩れていったのだ。つまり、詩は文学であるという思いこみのことである。日本で詩として表現されてきたものの多くは、漢詩にならった『懐風藻』の時代からいわゆる現代詩まで、文学としてのお定まりの概念でがんじがらめだったのではないか。多くの詩人は、自分の作品に詩的感動をこめ、詩らしい表現法を磨き、あるいは、もっともらしい思想を詰め込み、生活の喜怒哀楽を描写し、それに伴う己の心情を吐露し、人生の感慨を述べることに汲々としてきたのではなかったか。
同様に、詩の読者は、詩にこれらのいわゆる情緒的感動を見いだすことをよしとしてきたのではなかったか。フジトミ詩はこれらのすべてに「否」(ノウ)とあっかんべーをして、息も絶え絶えの詩を救出したのだ。
詩という表現が、ほかの何やかやを表す道具として使われることなく、ただ単に詩として存在することは可能だろうか。言葉がその意味から逃れることは難しいように、人間の作る詩が、人間という存在から離れることはできず、また、離れたところでそれは私たちに何もたらさないという考えもある。
しかし、理屈はともかく藤富保男の詩では、言葉が意味や文学や人生や文法からさえも解放されて、生き生きと自由自在に遊んでいるのを見ることができた。これこそ、詩を読む喜びでなくてなんであろうか。詩の新しい表現はここから生まれる。そんな楽観的な希望を抱くことさえできたのである。
しかし、それはなんと困難な遊びであろうか。
成長の皮肉 藤富保男
「あなた まだ
猿
やっているの」と
化粧がしゃべった
「みえみえの
見栄だな」と
尻尾が口答えしている
(「Bo'r」7号1997年)
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子供はいやおうなく大人にさせられる。しかも、彼の十代は戦争という抑圧の最たるもので覆われている。あんなに拒絶していた社会規範が彼を押しつぶす。
詩という分野も決して例外ではない。大人になればなるほど人間の舌は縮かんでしまい、伸び伸びと垂らすことができなくなるのだ。
それどころか、詩「成長の皮肉」のように、すまして口の中に引っ込めて、その厚顔の上にさらにさまざまな厚化粧をした猿になってしまう。
尻尾をむき出して、詩を掻く猿のままでいることの何と難しいことか。
そんなわけでかどうか知らないが、詩人は、退屈な雨の日など一人こっそりと、こんな体操をしているらしい。
丸 藤富保男
顔をたたくと
舌がのびる
もっと のびるように
さらに顔と首をたたく
舌が次第にのびてくる
次に
そっと体をまげて
靴を脱ぐ
もう少し体をひねり おりたたむ
そして 舌を踏む
踵をしっかり 舌にのせる
そのまま体ごと口に入れる
体が丸くなって
それから
外では
雨が陽気に降って
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この詩の収められている『大あくび』(1989年思潮社刊)には絵は付いていないが、読者は詩人にならって、体を舌にのせて口に入れてしまった男の絵を描いてみよう。詩が二倍楽しめるというものだ。
詩人藤富保男の紹介
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