フジトミ詩とヤスオ絵の怪しい関係 8 関 富士子
初出「銀河詩手帖」167号1997年を改稿
<詩の掻き方>
詩人が「否」というだけで、今までにない新しい詩がそう簡単に生まれるわけはない。彼独自の詩を書く秘訣、方法があるに違いない。
詩の正しい書き方 藤富保男
まず頭をはずし
首を少し傾けて
一杯のコクテイルを嗅ぐ
これを飲んではいけない
正面をいつも向いていること
大風の日には詩を書かない
ペンがゆれるから
少し憂うつのふりをして
呼吸をとめ
一気に掻くのだ
すりむけるぐらい
やがて手だけがのびて
できあがり
(「夢人館通信」6号1995年)
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詩「詩の正しい書き方」では、詩の書き方を三段階に分けて述べている。
手を高々と伸ばして、コクテイルを飲んでいる人物は、インクつぼに差し込まれたペンのようにも見える。この詩によると、詩の正しい書き方のポイントは、
1 「まず頭をはずし」
2 「大風の日には詩を書かない」
3 「一気に掻くのだ」
これではわけがわからない、ばかにするなと怒ってはいけない。彼の箴言集『一発』(1995年刊)には、この辺りの事情が簡潔にきっぱりと述べられている。
1「■詩を考える、など言わない方がよい。詩は「思考する」世界ではない。」
つまり、頭をはずすのである。
2「■ぼくは風が吹く日がニガテである。風がガラス戸をふるわす日には詩を書かない。鎖骨がはずれ、関節が乾いた音をたて振動するからである。」
つまり、そういうわけだ。彼は風が嫌いなのである。誰にでも弱点はある。どうしても書けないときは無理をしないことである。
3 「■自己を疑わずに書けるだけ背中は掻いた方がいい。人生は二度来ない、とはうまく言ったものである。」
彼にとって詩は猿のように掻くものである。しかも、背中を掻くように思いきり。書くということを何かたいそうなことと思いこんでいる詩人に読ませたいものだ。
このほかにも『一発』には、ウィットにあふれた藤富流詩作法が格言風に並んでいる。
「■観察は完全であること。たとえ瞥見でも、その静と動とを智覚しておくことが肝要である。」
盗み見 藤富保男
かわいた喉に
一口のビールが入るように
それが
答案であろうと
それが
裸体であろうと
((銀河詩手帖160号)
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詩「盗み見」を読むと、「瞥見」の仕方がわかる。
「答案」と「裸体」は一見かけ離れているようだが、「盗み見」するものとして共通点がある。
顔の輪郭か建物の角か、縦に引かれた長い線から、鋭い視線がはみ出している。
ゆめゆめ油断をしてはならない。
特に裸体に注意。
詩人がいつこんな目であなたを見ているかわからない。
角度 藤富保男
(口上)人間のスミに置けない業につき カク度かえつつ
一行置きに ツノを出し はたと気付けば 四つカドに
鬼に角があって
なぜ人間にないのだろうか
犬に角がないのはなぜか
犬歯をむいて吠えるからか
象に角がないのは
牙と重量があるからか
鳥に角がないのは
すぐ飛んで逃げられるからか
さて人間に角がないのは本当か
解決するために
兎に角
町へ出て
直角に曲がってみた
男が二人
四角い顔をして
口喧嘩をしていた
言葉という言葉が角を立てて
やさしく萩が
四つ角の垣根を撫でているのに
(『文字の正しい迷い方』より 1996年思潮社刊)
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この詩に何かもっともらしい主題を探してはならない。ここにはただ形式があるだけ。それは、一行置きに「角」という漢字を使って詩を書くというものである。
手品師の手の内には、「角」という字の書かれた何枚かのカードがある。彼は、カードを鮮やかな手並みで切っては、一行置きに私たちの前に開いてみせる。すると「角」は次々に意味を変え姿を変えて立ち現れる。カードの裏にはそれぞれ「スミ」「ツノ」「カク」「カド」などの読みが記されていて、これらが「角」の新しい表情を作る。さらに、間に置かれた行がそれらを柔らかな粘着作用でつなぎ、最後の二行を抒情的に仕上げる。
「■詩は手品、魔術の類でないが、人のやらなかったこと、人の書かなかったことを、 今までになかった方法論のもとで書くことが何よりも重要である。」(『一発』より)
その昔、文字をもたなかった日本人は、中国の表意文字である漢字を手に入れたとき、漢字一つにいくつかの日本語をあて、いろいろな意味をもたせた。この日本語の仕組みの本質を直感的につかみ、絶妙に利用したのがこのカードゲームである。ルールさえわかれば誰にでも遊べる。
詩集『文字の正しい迷い方』には、こんな新しい遊びが満載されている。発明した詩人に敬意を表しながら、さあ、あなたも書いてみよう。ただし、彼がやらなかった方法で、彼の書かなかったことを書くことが大切だ。できるかな?
散歩 藤富保男
人と話しをしたくないから
こうして歩いているのではない
地上から離れて
太陽に少しでも近付きたい
からでもない
蛇が出るのが嫌だから
でもない
ちょっと詩を書きたくないから
竹馬にのっているだけだ
だまっていてくれ
今は 鼻唄をうたうのに忙しいのだ
((「銀河詩手帖」163号1996年)
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最後に、詩「散歩」を読む。
詩人が散歩をしている。人嫌いで有名な、孤独を愛する詩人である。しかし、彼の散歩はどうも様子がおかしい。「太陽に少しでも近付きたい」と思いあがっているのか。「蛇が出るのが嫌」なんて言う怖がりか。
なんと、彼は竹馬にのっている。しかもその竹馬がやたらに高い。ピエロのように首の回りにフリルをつけて、頭に小さな帽子をのっけて、まるでサーカスの曲芸である。詩人のくせに「詩を書きたくないから」などとうそぶいている。「だまっていてくれ」と断固たる態度で拒否しつつ、「鼻唄」をうたう詩人。彼は自分の詩を「鼻唄」と言っているのだ。これを謙遜と受け取る人はもういないだろう。彼の詩人としての強烈な自負が、彼の詩を「鼻唄」と言わせるのだ。
竹馬のてっぺんから、彼が見ているものは何だろう。そういえば、『一発』の彼の言葉にこんなのもある。
「■風景は時にそれを見る人によって、風景を超えるのは当然である。その瞬間風景がその人になってしまうのだ。」
風景はそれを見る人によってどのようにでも変わる。日々くりひろげられる日常は、私たちにとっては、ありふれて退屈な現実のように思える。ところが、同じその風景をまったく別の位置から、まったく異なる視線で見るのが詩人である。フジトミ詩においては竹馬に乗ったピエロの視線で見る。その風景がヤスオ絵になる。それはなんだかおもしろそうで、案外簡単に思われる。彼の竹馬にちょっと乗せてもらって、一緒に愉快な曲芸をしたくなる。
かくして読者は自らペンを持ち、書き始めるのである。もちろん、そう簡単に詩人になれるわけはない。でももしかしたら、ほんの一瞬、あなたにもあなただけの風景が見えるかもしれないのだ。
終わり。
*この文章は、引用の詩と絵について、作者の許諾を得ています。
*無断転載を固くお断りします。
詩人藤富保男の紹介
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