関富士子未刊詩篇より
(あのこ)の胸にしたたる膨大な昼と夜 i
今夜はあなたが外に出て
東の星がかすむまで
森へ続く小道を見張る
番である
∽
あの尾根の西端の
三本のもみの木のぎざぎざに
いつも夕日がひっかかる
∽
暮れていくあなたの脳髄
やせ細るあなたの舌
迷う血管なだれる臀
悔恨のかかと
∽
朝九時に届く督促状
(早く……来て……)
(どうか……おねがい……)
(もっと……して……)
∽
三角形の遊水池は乾いていて
誰も金網をよじ登らない
∽
教室にいる(あのこ)の靴の
かかとはつぶれている
ほおについた手のひらのあとを
ちいさな手のひらで隠している
∽
ほんとうに行くのなら
ぼくも行く
そしてあなたが帰りたくなっても
ぼくは帰らない
大きい兄さん
もうあなたのお供はまっぴらです
∽
あなたの手が冷たくなるまで
握っていてあげられるかどうか
わたしにはわからない
∽
あなたの湿った喉にあらわれた
ゆがんだ
あかい
カシオペア
∽
一晩中夢を見続ける術を
体得したわたしは言う
朝よい気分で目覚めます
∽
あなたを見つめる
ここではないどこかへ
帰るところがあるような
気がして
∽
家に着くまでに三匹の猫に会うと
死ぬと信じている
あおざめた(あのこ)が
帰ってきた
∽
あなたは横たわり
扁平な足の裏を
こちらにむけた
∽
日傘を買ってあげた
ズボンも靴も
(あのこ)を虎の森に
行かせるために
∽
あなたの太った耳たぶに
上弦の月かかります
∽
かすれた声の(あのこ)が
喉を反らせてうたう
別れの歌
∽
ほんとうのことを言いましょう
ぼくはあなたから生まれたのでは
ありません
∽
毎春ベランダから
ひとたばのフリージアを
収穫する喜びについて
∽
やがて初夏のように暑いある朝
(あのこ)はシーツに
一滴の白い血を
こぼす
∽
だれがわたしを知っているのか
見当もつかない人々と
飲み食いする
∽
裏庭でわたしを呼んでいる
身も世もなく身もだえて
あれはわたしの猫ではないのに
∽
がら空きのバスが
今通り過ぎた
わたしを見つめる(あのこ)を
ひとりだけ乗せて
(詩誌「gui」42. 1994.6 「南天に光る君の歯」 金井雄二個人詩誌「独合点」34. 1995.4「(あのこ の)胸にしたたる膨大な昼と夜」を改稿)
「(あのこ)の胸にしたたる膨大な昼と夜」 ii へ
「植物地誌(ノアザミ・イノコズチ・エンドウ・ヒルガオ・スイートピー・タマネギ)」へ
「今はその日までの」へ
「未刊詩篇」 もくじへ
(あのこ)の胸にしたたる膨大な昼と夜 ii
あなたをめぐる音楽のあわ粒
とぎれとぎれのアナウンスと歓びの声
不意の波しぶきにかすかに身を震わせて
∽
まばらな白樺の間を行く二人
彼らは少し離れて同じ歩調で
波打ちぎわを迂回し
はだかの木々のあいだをずっと向こうの中洲まで
短い上着と長靴
ときどき水をはねながら
∽
わたしがささやくたびに
あなたの膝がしら震えます
その奇妙な動き目覚めたばかりの熊のような
朦朧とした
∽
まもなく戻ってまいります
ブランコを揺らしてさしあげます
いかようにも踊ってごらんにいれます
∽
腕をねじ上げられ
リボンの結び目に
つながれている(あのこ)
∽
水の中の景色のように
光線が明らかに曲がっていて
立ち木が屈折していて
胸のあたりからわたしたちはがくんと
ゆがむ
∽
庭園にすむ二匹の兎が
グラジオラスの芽をかじったらしい
ひどい腹いた
耳が折れたらしい
∽
大きい兄さんと
小さい兄さんが
納屋で茨をたたいて
莚を編んでいる
∽
かすかな擦り打ち
汗まみれの
繊維のきしみ
気ぜわしげな
太い息
変身の胸騒ぎ
∽
ここに留まってもいい
みんなと行ってもいい
ひとりになるのが怖ければ
叫びなさい
∽
コハクチョウのはばたきが
(あのこ)のあおむけの顔に
気流を送ってくる
∽
たくさんの兄さんたち
さようなら
∽
長いことわたしたちは出会わなかった
ただ互いの見た夢だけを
検証するために手紙が交わされた
∽
にじいろの粒子が
ひとつひとつ影を帯びて
睫毛の中を飛ぶ真昼
∽
遊覧船白鳥号はまどろむ
蘆のおびただしい掻き傷
その朽ちた桟橋に歩み寄るだれか
(詩誌「gui」45. 1995.7)
「蟹を売る男」へ
「(あのこ)の胸にしたたる膨大な昼と夜 i」へ
「今はその日までの」へ
「未刊詩篇」 もくじへ