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vol.1

<詩を読む 2> 西脇順三郎「六月の朝」を読む

六月の朝の明るさ

関富士子


 西脇順三郎の詩は、「旅人帰らず」以降は、どこを取っても金太郎飴のように似たような詩句が並んでいるようにみえる。ヨーロッパ仕込みのカタカナの固有名詞の際限のない洪水は、教養のないわたしには退屈なだけである。

 わたしにとっての西脇の詩のおもしろさはというと、この博覧強記の教養人が、ヨーロッパ的思索の散歩の道筋で、突然現れる日本的風景とのミスマッチにある。ありふれた市井の日本人の口舌が、詩人との出会いによって思いもよらない奇妙な風景に変わる。さらに、その風景に触発されて導かれる詩人自身の口語的感慨の数々。これが西脇の説くところの「プラスとマイナス」(『失われた時』)の出会いというものか。


六月の朝

西脇順三郎


ひじり坂と反対な山に

暗い庭が一つ残つている

誰かが何時種を播いたのか

コスモスかダリヤが咲く。

ヴェロッキオの背景に傾く。

イボタの繁みから女のせゝら笑いが

きこえてくる。

      よくみると

ニワトコにもムクの木にも実が

出てもう秋の日が悲しめる。

キリコ キリコ クレー クレー

枯れたモチの大木の上にあがつて

群馬から来た木樵が白いズボンをはいて

黄色い上着を着て上から下へと

切つているところだ キリコ

アーチの投影がうつる。 キリコ

バットを吸いながら首を動かして

切りつヾけている。

        おりてもらつて

二人は樹から樹へと皮の模様

をつたつて永遠のアーキタイプをさがした。

会話に終りたくない。

彼はまた四十五度にまがつている

古木へのぼつていつた。

手をかざして野ばらの実のようなペンキを塗つた

ガスタンクの向うにコーバルト色の

鯨をみたのか

      アナバースの中のように

海 海 海

群馬のアテネ人は叫んだ

彼のためにランチを用意した

ヤマメのてんぷらにマスカテルに

イチジクにコーヒーに

この朽ちた木とノコギリのために――。


『西脇順三郎詩集』岩波文庫より「第三の神話」


 詩の情景はわかりやすい。草木の繁茂する初夏の午前の庭である。「女のせせら笑い」とはカケスの鳴き声ででもあろうか。木はもう実をつけて秋を思わせる。その一角の枯れたモチの木を、群馬から来た木樵が切っている。下から作者がその様子を眺めている。

 木樵が木を切る音が絶妙だ。「キリコ キリコ クレー クレー」と切るのである。古今東西の固有名詞を自由自在に操るこの詩人にとっては、もはやヨ−ロッパの天才画家連の名は、ノコギリを引くリズミカルな擬音語にすぎない。

 木樵の動作も目に見えるようだ。「アーチの投影」は、木の上でノコギリを持ちアーチ型の影になった木樵の体だろうか。「バットを吸いながら首を動かして」切るのである。鼻唄でも聞こえてきそうだ。黄色い上着に白いズボンとはおしゃれな木樵である。

 三か所行が中間に下がったところがあるが、ひと呼吸おいた感じがしておもしろい。改連というほどでもないが、作者のちょっとした留保のような印象がある。

 木から一度降りて作者との会話のあと、木樵は再び木に登る。ここで情景は一変する。「ガスタンクの向うにコーバルト色の/鯨をみたのか」。海を知らない「群馬のアテネ人」木樵は叫ぶ。「海 海 海」。

 年譜をみると、この詩の収められた詩集『第三の神話』が刊行された1956年ごろ、西脇一家は港区芝に住んでいる。「野ばらの実のようなペンキを塗ったガスタンク」の向こうに、海が見えたかもしれない。詩人とその家族は、海を見て歓声をあげる木樵のためにランチを用意するのである。

「六月の朝」は、西脇の詩としては、起承転結があってあまりそれらしくない。西脇でなくても書けるだろうと言われそうだが、この詩で見るべきは、詩の中ほどの「キリコ キリコ クレー クレー」である。これらの固有名詞が、朽ちた木をのこぎりで切る擬音語として使われると、そのリズミカルな明るい響きのなかに、ちらちらと、キリコの絵で見かけた輪を回す少女の長い影や、クレーの灰色がかった優しい色彩が現れる。

  もちろん「キリコ」「キリコ」という繰り返しは、木樵の「キコリ」の音とも響き合っている。さらに、「枯れた」「来た」「黄色い」「着て」「切って」と、K音が続くのは偶然ではあるまい。

  詩人のこのような音のセンスがわたしには喜ばしい。ほかにこんな使い方があるだろうかと思って探してみた。わかりやすいのはこれである。
「ちょうど二時三分に/おばあさんはせきをした/ゴッホ」(『鹿門』)

「ミレーの霊も晩鐘に泣くかと思ふ」(『あむばりわりあ』)は、「ミレー」「レー」が駄洒落風。

「百姓が話をしているドーリアン語は/あまりにツァラトゥストラ的で/彼等の神話がききとれなく/キツツキの楡の木をたたく音と/あまり違わなかった/コツコツ コツコツコツ コツ」(『失われた時』)は、意味が理解できず音だけを聞いた言語が擬音語になった例。

「ぬれごとのぬめりのヴェニスのラスキン/の潮のいそぎんちやくのあわびの」(『失われた時』)のナ行の連なりは何だか卑猥である。

「つれの浅草人はヘラヘラの/こいの皮を食べてシャラクを思つていた/シャラクのめとマラルメのめ」(『豊饒の女神』)は「写楽」の「目」と「マラルメ」の「メ」の音の組み合わせ。

「ヴァリテボンテボッテ・・・/平地で鐘がなる」(『えてるにたす』)の「ヴァリテボンテボッテ」は、「真善美」の意味らしいがもちろん古いヨーロッパの鐘が重苦しく鳴る音でもある。

「また悲しみはせまり/トホのように/思わず杯を置いた」(『礼記』)の「杜甫」に「トホホ」という嘆きの声を聞くのはわたしだけだろうか。

  固有名詞を普通名詞や擬音語として用い、固有名詞の権威を一度はがしてから、卑俗な市井の風景に、単純な音韻としてよみがえらせ、かすかに残留する意味をそこに二重写しにする。この詩人の柔軟な諧謔の精神こそが、わたしにとってはもっとも好ましいものなのである。



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<詩を読む 1> 川田絢音「数表をつくる」を読む

「何も」と答える女

関 富士子


  川田絢音は、もう三十年近く前単身日本を離れ、イタリアに在住する詩人である。モダニズム風の短詩から出発したが、七冊の詩集のほとんどは、異国で生きる人の寄る辺ない孤独を描いている。


数表をつくる



川田 絢音


カフェに入ると

青年がテーブルにかがんで

首からかけたおしゃぶりを吸いながら何か計算している

ノートにびっしり詰った数表



青年が

おしゃぶりをやめ 数表をつくるのもやめてしまわないように

と思う

さっき 列車で

バイエル社に勤めているという人に

イタリアで何をしているのですか

とたずねられた

何も

と答えて

列車のガラス窓に顔をつけると

遠くに高速道路の灯が無意味についていた



サン・サルヴィ病院の黒ぐろとした並木道を

うつむいて散歩する人が いつも 数人 いる

わたしたちは

ひとりで 話しながら 歩き

数表をつくり

列車に乗る

バイエル社に勤める



身体の内と外に棲んで動作をもぎとってしまおうとする何も

に刃向い

掴みかかっている


『川田絢音詩集』思潮社現代詩文庫「悲鳴」より


  たまたま入ったカフェ。おしゃぶりを吸いながら熱心に数表を作っている青年がいる。「わたし」は思う。青年がわたしに気づかずその「動作」をやめないように。さっきも列車に乗り合わせた人に尋ねられたのだ。イタリアで何をしているのですか。彼女は「何も」と答えた。

  「何も」は東洋の女へ投げかけられる好奇心を拒絶する言葉である。しかし、そう答えるたびに、彼女は実際自分がここで何もしていないことを思い知る。高速道路の灯が「無意味」に見えるように、彼女のイタリアでの生活もまた無意味であるらしい。

  人が、その場所で何もしていないということ。それは決して、日本人が異国ではつねに異端者であり生活者として存在できないということではない。どんな場所でも、人々はそれぞれが、数表をつくったり、歩いたり、列車に乗ったり、バイエル社に勤めたりしている。

  そんな普通に暮らすための何でもない「動作」すら彼女のものではないのだ。それは、「内と外から」つまり他者ばかりでなく自分から、自分の手足をもぎとってしまうような過酷な認識である。

  しかし、驚くべきはこのあとである。最終連で、彼女は「内と外」からの「何も」に対して、「刃向い」「掴みかかる」のだ。彼女は無力ではない。なにか理解を拒絶するほどのかたくなな意志が、手負いの獣のように彼女を突き動かす。だれも、彼女自身でさえも、その凶暴なまでの「動作」をもぎとることはできない。

  しかも彼女は、この凶暴な意志を、自分ばかりでなく、他の人々の「動作」(たとえば、おしゃぶりを吸いながら数表をつくること)の中にもまた見いだすのである。

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