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雑木林の坂を登るとすぐに明るい丘陵がひらけた。北側を残してほとんど刈
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り取られたとうもろこし畑。どこからか肥料のような強い異臭がする。日差し
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は夏にくたびれて黄ばんでいる。雑木林、工場、三角屋根の大きな温室ハウス。
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畑の間を抜けてハウスの方へ歩く。異臭はますますきつくなる。
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ハウスの半透明の窓から中がうかがえる。栽培されているのは見渡すかぎり
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の真紅のバラである。整然と並んだいくつかの畝は、それぞれ丈高い鉄柵で囲
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われ、柵いっぱいに葉を茂らせている。茎は十分に育って、穫り入れ間近のバ
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ラの花が数えきれないほど咲いている。すべて真紅のバラだ。ふと「ばら色」
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ということばが思い浮かぶ。ばら色、ばら色の花盛りだ。
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いや、ばら色といえば真紅ではない。「ばら色に輝くほお」とは決して真紅
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のほおをいうのではない。それは、白いほおが喜びや興奮に紅潮して血の色を
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肌に蘇らせるさまをいう。それは幸福に輝く人間の肌を形容する言葉であって、
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活をいうのであって……。
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不意に叫び声が聞こえてふるえあがった。険しい怒りと憎悪に満ちたかん高
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い声。ハウスの裏へ回るとひどい悪臭に頭を一撃された。そこは大きな屋根に
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覆われた広い囲い場で、全体が薄暗い影のなかにある。まがまがしい何ものか
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の激しい息づかい、ため息や威嚇や恐怖の声がわき上がる。
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白っぽいかたまりが、暗がりの中でおびただしくうごめいていた。その一つ
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がわたしの姿を見とがめ、からだを揺すって立ち上がった。腹の肉がさざなみ
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立ち、かぼそい蹄を頼りなげに踏みしめている。わたしを見つめる小さな目の
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回りは、赤くばら色に輝いている。わたしに向けて広がった鼻の二つの穴は、
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奥の粘膜までばら色にぬれている。バラはバラ園に、ばら色は豚舎に。
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その警戒の動きに反応して豚舎じゅうの豚が金切り声をあげた。人間の胸ほ
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どの高さの柵囲いがさらに十畳ほどに仕切られ、五十は並んでいる。それぞれ
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の囲いに十頭あまり。何頭かが糞にまみれた横腹を押し合ってわたしのほうへ
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突進したが、柵にはばまれて鼻づらをつぶすばかりだ。彼女たちのからだは興
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奮で一気にばら色に染まり、白い短毛が逆立った。
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彼女たち? そう、子豚も雄豚もいない。500頭の豚の姿をした太ったば
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ら色のはだかの女たちが、寝そべりながら水を吐き散らし、糞を垂れてはあお
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むけになって背中に擦りつけている。そのたくさんの三角の耳を斜めから差す
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夕方の光が照らして、血管の真紅の編み目を透かした。
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いつか悪臭は消え、豚は床に横たわってまどろんでいた。その腹が柔らかく
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息づくのを見るうちに、ひどい眠気に襲われた。たまらず柵を乗り越え豚の腹
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の間にしゃがんだ。はだかになって糞を胸や腹に擦りつけ、かたわらの豚に腕
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を回して寄り添った。豚は温かくおもたくわたしに重なってきた。背後から柔
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らかい鼻づらがわたしのほおに押しあてられた。屠殺される前の束の間を、ば
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ら色の姉と妹たちに抱かれ、まどろんで過ごすのだ。
(詩誌「gui」no.54 1998.8.1)
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