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vol.10

<雨の木の下で 10>



中原中也賞(1999.4.1)  関 富士子


福島県の小さな町に住む高校生ナオコとの会話。
「ねえ、おばちゃん。うちんちのガッコのセンセー、こんど中原中也賞、とったんだよー」
「えーっ、中原中也賞って、もしかしてえーと、そのセンセーって、ワゴウリョウイチ?!」(福島に住んでいるのは知ってたけど・・・)
「うん、そう、国語習ってて、担任じゃないけどあたし仲良いんだあー」
「ふうんすごいねー、中也賞はカッコイイよね。詩人のあこがれだよ。おばちゃんも昔中也に惚れていたの」
「関富士子って知ってる?って聞いたら、知ってるよ、有名だよ、って言ってたよ」
「ええー? うそばっかり、ははは」(いちど個人誌をいただいたことがあるけど、若いなーってうらやましく思ったっけ。)
「直接は知らないけど、親友の人とか、友達とか、関さんのこと知ってるっていう人をいっぱい知ってるって、言ってたよ」
「げっ、そういうこと」(片田舎の狭い町である。親友どもめ、昔の悪事がばれている)
和合亮一さん、御受賞おめでとうございます。ナオコの伯母でございます。ちょっとやんちゃですがどうぞよろしく。

そんなわけで賞の発表の記事が載っている「ユリイカ」の4月号をのぞいてみたら、荒川洋治にめちゃくちゃけなされている。個人的な人格のことまで言っていてどうかしている。北川透が推しているようだが絶対というわけでもなかったらしい。どちらにしろ受賞は時の運。良かろうと悪かろうと取った人が勝ち。萩原健次郎さんは残念でした。

和合さんの詩は数編しか読んでいないけれど、言葉にノイズがあふれていていかにも時代の子という感じ。地方性はあまり出ていないようだが、現代に生きていれば地理的にも均一化してくるのはしかたないだろう。今30代らしいが、詩集数冊分ある作品のうち、まず20代前半の詩をまとめたというのがなんだかひっかかる。若いときって昨日書いたものも嫌になったものだけれど。自信があるんだな。

でもわかっているだろうけれど、教師を辞めて福島から詩を書きに東京に出てきたりしてはいけない。受賞詩人になったところで、詩集がベストセラーになるわけでも急に注文が来るわけでももてるわけでも有名人になるわけでもお金持ちになるわけでもなく、賞金をもらって詩集制作代が浮いてよかったというところ。今までどおりひとりぼっちで書き続けるばかりなのである。

当然のことながら、詩でもなんでも、書いただけではだれも読まない。人に読まれたければ、なんらかの方法で読者の目にふれる努力をしなくてはならない。インターネットもその手段のひとつになりつつある。ある程度読まれている手応えを感じるようになると、なんだかお金をかけて詩集をだしたりするのがあほらしい。紙の無駄遣いはやめようと思ってしまう。でも現状ではやはり評価を得るという点では、まだまだ紙テキストが絶対有利のようだ。

最近何人かに詩集を作りたいけどどうなんでしょうと相談されたので、わたしはあまり詳しくないがちょっと先輩ぶって書いておく。
詩集はどんな著名な詩人でも才能ある新人でも、自費で出版するのが普通である。せっかくお金をかけて詩集を作ったら友人知人に配ったあと押入れになどしまっておかず、いろいろな詩人たちに贈呈して読んでもらう。絵描きでいえば個展のようなものだが、有名詩人には大量に送られるらしいからとても全部は読み切れない。詩の雑誌に送ったりして批評にさらされる機会をみずから求めるのは当然だろう。たいていは何の反応もないが、少なくとも読まれる機会だけは得ることになる。

わたしは詩集を三冊出したが、第一詩集は編集から印刷所の交渉から自分でなにもかもやって作った私家版である(1977年、30万円、活版刷り、ハードカバー、90P、500部)。誰に送ったらよいものやらわからず、郵送料もなくなって、半分は押入れの中に10年ほこりをかぶっていた。第二詩集は藤富保男さんがボランティア同然でやっているあざみ書房で作ってもらった(1991年、64万円。活版刷り、ソフトカバー、80P、300部)。

第二詩集を出したころは同人誌にも入っていず、詩人の知り合いもあまりなく、作品もほとんど未発表だった。たいていの賞はだれか詩人の推薦がなければ選考さえもしてもらえないのだが、数少ない公募で当時ローカルだった晩翠賞に応募したら、ちゃんと読んでくれて賞までくれた。これでどんなに励まされたかしれない。

第三詩集はやはりあざみ書房に持ち込んだのだが、藤富さんがいやいやと言って老舗の思潮社を紹介してくださった。有名出版社のほうが店へのルートもあるしいいのかと思ったが、書店には出まわらずあとのフォローもまったくなく、ほとんど反響がなくて正直なところあてが外れた(1994年、104万円、活版刷り、ソフトカバー、80P、400部)。今は活版刷りにこだわる必要もなく、電算写植できれいで安い詩集を作ってくれる出版社がたくさんある。名前だけで出版社を選ばない方がいいだろう。

中原中也賞は、晩翠賞と並んで、数少ない公募の賞である。偉い詩人の推薦がなくても選考をしてもらえる。今まで第一、第二詩集あたりが受賞している。新人向けといってもかなりとうがたっているH氏賞よりかっこいい。詩人志望のきみ、野心を持て。ばりばり書いて中也賞をねらおう。詩は食えないけれどそれでもいいではないか。詩を書く人はすでにその魔力に魅了されているのだ。だから、もしぜんぜんだめでも少しもめげることはない。

ここが肝要なのだが、いわゆる詩壇の評価というのは、たとえ褒められてもけなされても無視されても、ほどほどにうけとめておいたほうがいい。いい詩を書いていながら他人の評価にこだわり、批評に一喜一憂して神経をすりへらし、書けなくなってしまった詩人を多く目にしてきた。よい評価は励ましだが、それはしょせん他人が決めること。詩を書こうとする情動のほんとうの中心は自分の日常にあるのに、それをないがしろにして外ばかり見てしまう。インターネットも同じこと。まずよりよく生きること。発信源は個人の充実した生活にある、というのが、あたりまえのことだがわたしの自戒をこめた結論でした。






書かれなかった詩(1999.3.18)  関富士子

 ふと指折り数えてみて女は気づいた。世間で銀婚式といわれる年月、ひとりの男と暮らしていたのだった。式も指輪もお金もない結婚だったが、すこしも苦にならずにきた。  女はわがままで感情が激しく、勝ち気で自分勝手で、たびたび男を困らせたが、好きなことをしていれば機嫌がよかった。男はよく耐えて女のすべてを受け入れた。女は、たとえほかの男にむちゅうになっているときでも、男の自分への愛を疑ったことがなかった。

 女はその年月、男のすべてを奪ってすこしも恥じなかったが、ひとつだけときどきちくりと胸が痛むことがあった。

 若いころ、ふたりは詩のようなものを書いていたのだが、女は、傑作でない詩は書かれる価値がないという考えに囚われていた。そして、自分の詩が傑作からほど遠いことに苦しんだあげく、男の書いた詩さえも読むに耐えないと批判したのである。男は、女が書いた詩の最初で最良の読者でもあったのだが、それからというもの、詩を書くのをやめてしまった。女もほどなく書けなくなったのは当然だが、十数年ののちふたたび詩を書き始めて、かつてのつまらない囚われから自由になっているのに気づいた。

 男は今も詩を書かないが、ときどきその仕事机に、パウル・ツェランの詩集が開かれているのを見ることがある。女は今ともかくもぞんぶんに詩を書くよろこびを得て機嫌がよいが、白いノートを前にしているときなど、ふと、男の書かれなかった詩のことをいとおしく思うのである。


  名など
  
  名づける名などない――
  それと同音のものが
  ぼくらを、
  歌って張り渡さるべき
  明るいテントのもとにゆわえつける。

  (パウル・ツェラン詩集『絲の太陽たち』飯吉光夫訳1997年BIBLOS刊より)



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