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vol.8

(関富士子の詩)


 
キョウコ 1
  
                   関 富士子
  
 キョウコが向こうから走ってくる。ふうちゃん!と叫ぶ。廊下   
に少年たちがたむろしている。小学校のとき、わたしを陰湿に執
拗にいじめたやつら。キョウコは彼らを無視して、わたしに向か
って、顔じゅう笑って駆けてくる。わたしの歩き方はすこしこわ
ばる。
  
 少年たちの目の前で、キョウコが飛びつく。わたしはキョウコ
に抱き締められる。耳元のキョウコの声、骨張った腕、彼らの羨
望の目、この幸福を一生忘れない。
  
 つい油断をして、教室のすみでぼんやりしていると、目の前が
急に真っ暗になる。目にてのひらがはりついている。突然の闇の
恐ろしさ。頭を振って、両手で引きはがそうとする。キョウコの
手だ。すこし湿っていて、筋が思いのほか強靭で決してはがれな
い。ぼんやりしているのをねらって、目隠しをしてくる。そのた
びに、ひどい孤独に突き落とされる。何度されても、慣れること
ができない。ぞっとするほど嫌いだ。あらんかぎりの力で、ての
ひらから逃れたい。やめてよと叫んで、立ち上がって、明るい教
室でキョウコと向かい合いたい。でも、それはおかしい。これは
ゲームなのだ。
  
 わたしはたったひとり闇の中で、周囲に見つめられて、教室の
喧騒を聞きながら、なす術もなく座っている。不安といらだち。
なぜこんなことをするのか。キョウコをころしたい。
  
 わたしはそっと息をつく。がまん、もうすこし、あとすこし。
すると、キョウコのこらえきれないようなくすくす笑いが聞こえ
てくる。
――だあれだ。
わたしは答える。できるだけ元気に、楽しげに。
――キョウコ!
 その瞬間、世界はぱっと明るくなる。救われた思いでふり返る
と、キョウコの笑顔がある。みんなはおしゃべりに夢中だ。だれ
もわたしの震えに気づかない。わたしはキョウコに笑顔を返す。
わたしの顔はすこしこわばっている。
「gui」no.48 AUGUST1996より
  

  
  
キョウコ 2
  
 直径二十センチほどの、粘土の塊を配られる。固くてひんやり
して手に負えない。粘土板にたたきつけたり、床に落としたりす
る者もいて、教室はしばらく振動と大音響に活気づく。
  
 二人組みになり、互いの顔をモデルに、頭部の塑像を作る。キ
ョウコは興奮して粘土をたたく。しんねりと土が熱を帯びてきた
ころから、口数少なく熱心にこねている。指がしなやかに反り返
る。まだだれのものものっぺらぼうで、人間の目や鼻や口の形に
当惑している。わたしはためしに目のあたりを押さえてみる。い
や、キョウコの目はこんなにくぼんでいない。くちびるはこんな
に厚くない。むしろ意地悪く曲がっている。
  
 わたしはキョウコを盗み見る。すると、鋭くじっと見返してく
る。あるいは知らんふりして、わたしのひたいや眉やあごの一点
に、まっすぐ視線を当てては、すばやく粘土に戻す。無造作に、
物のようにわたしを見る。
  
 キョウコにはわたしの顔がどう見えるのか。はれぼったいまぶ
たやそばかすが恥ずかしい。自分の鼻の形を思い出せなくなる。
なま温かい粘土をのっぺらぼうに張りつけ、指の腹でいくどもな
でる。キョウコの顔はどんなだったか。前髪の生えぎわは……、
耳はどのくらい見えているか……。わたしはキョウコの顔を見る
ことができない。
  
――できた!
 キョウコが叫ぶ。わたしはちょっと驚いて顔を上げる。粘土だ
らけの手でエプロンをぎゅっと握り、満足げにうなずいている。
――見せて。
  
 わたしはキョウコの側に歩み寄って、わたしの顔の塑像に向き
合う。聡明にかがやく広いひたい、高い頬骨からそげていくあご
のかたち、小鼻のわずかな影、そして、意地悪く曲がったくちび
る。それは、わたしの顔ではなく、まぎれもなくキョウコの顔で
ある。
  
「gui」no.48 AUGUST1996より
  
  
  
  
キョウコ 3
  
 キョウコの夢を見た。夏休みじゅう会わなかった。手紙を書い
たが出さなかった。わざとではなく、それぞれにすることがあっ
て、とり紛れたまま、短い休みが終わるという感じ。あっという
まに時がたって、気持ちが追いつかないうちに、からだが育って
通学用の運動靴がはけなくなっている。
  
 夢の中のキョウコは、身体測定のときのように、正面を向いて
まっすぐ立っていた。体操服は着ずに、はだかで、わたしと同じ
やせっぽちの、ふつうの十三歳の女の子。そのキョウコが、今ま
で見たこともない表情をしていた。
  
 その顔を何といったらいいか。まるで、人間が一生でいやおう
なく身につけるであろう悪徳をすべて表したような顔、というの
か。侮蔑や我欲、欺瞞、嫉妬、冷酷、いや、何といっていいのか
わからない、あらゆる邪悪な感情をあらわにして、キョウコがわ
たしを見ている。
  
 わたしは目覚めて泣きそうになった。それはわたし自身が見た
夢だったから。わたしはまだ、大人の悪徳というものを知らない
のに、キョウコの表情にそれを感じたのはなぜだろう。わたした
ちは、十三歳からあとの人生で体験し、名づけていくはずの感情
を、もはやすっかり知っているかのようではないか。
  
 九月の初めの朝、キョウコはまっすぐわたしに歩み寄って言っ
た。
 ――おはよう。わたし、あなたの夢を見たの。
 その顔は、率直で、信頼に満ちて、純粋で、喜びにあふれてい
た。
 ――どんな夢?
 わたしは安堵と不安に引き裂かれて尋ねた。
  
「gui」no.49 december1996より
  
  
  
キョウコ 4
  
 四年生のときだ。理科でボルトという電気の単位を教わった。
授業が終わったあと、だれかが、ふうちゃんのからだには一兆ボ
ルトの電気が流れていて、ちょっとでも触ると感電死すると言い
だした。廊下でも教室でも、男の子たちはわたしが近づくと、声
をあげて飛びのいた。わざと触ってきりきり舞いをして、大げさ
にばったり倒れる子もいた。大勢が興奮してはやしたてた。
  
 初めはちょっとした遊びだった。でも、このゲームは執拗に暗
い情熱とともに続けられた。だれでもいい、一人をみんなで捕ま
えて、わたしめがけて突き飛ばしてくる。その子は顔を真っ赤に
ふくらませて必死に抵抗する。二人もつれて倒れると、わたしの
頬に白濁した鼻汁がべっとりとついている。
  
 たえまない嘲笑にあって、わたしは日ごとに汚れていくような
気がした。過酷な集団の掟がみんなを苦しめた。ゲームをやめよ
うとした者も、容赦ない仲間はずれに屈した。かれらは偽の死を
死に、生き返る儀式をくり返す。しまいには義務的に、嫌悪や憎
しみやあきらめとともに演じられる。わたしはほんとうに死にた
いと願ったが、忌まわしいストーリィのとおりに、無残に生きね
ばならなかった。
  
 中学生になってキョウコに出会ったとき、少年たちは長い悪夢
から覚めた。キョウコは臆することなくわたしをしっかり抱きし
めて、感電死しなかった。彼らは魔法を解かれて、ふつうのはに
かみがちな少年に戻っていった。
  
 ゲームを生きのびて、キョウコに導かれた世界は輝かしい。生
きていることの喜びにうっとりしながら、わたしは今でも、あの
悪夢をキョウコ自身のなかに見てふるえることがある。キョウコ
のからだには、わたしと同様、けがれた一兆ボルトの電気が流れ
ている。
  
「gui」no.50 April1997より
  
  
  
  
キョウコ 5
  
 キョウコあての手紙を書く。伝えたいことは一つだけ。キョウ
コを愛しているということ。でも、愛という言葉は不思議だ。キ
ョウコのことを思うとき、いつもなんだか恐ろしい。こんな気持
ちをほんとうに愛というのだろうか。手紙を読んだら、キョウコ
はわたしをみんなの前であざ笑うのではないか。もう二度と抱き
しめてくれないのではないか。
  
 わたしの愛をそうとは知られずに伝えたい。わたしは愛という
言葉を、森に言い換えてみた。あるいは塩に、犬に、はなむぐり
に、紫の冬芽に、荒縄に、卵細胞に、指に、鉄橋に……。また、
愛するという言葉を歩くと言い換えてみた。あるいは洗う・罰す
る・歯を食いしばる・しゃがむ・照らす・点検するに。さらに、
それらの言葉の間に、もっと・決して・なぜか・いわゆるなどを
ちりばめた。
  
 ノートは、たちまち暗号でいっぱいになった。でも、言い換え
た言葉は、まだ愛をたとえている。その文脈はまだ愛を物語る。
何日もかけて注意深くすべてを訂正して、一通の手紙を書きあげ
た。キョウコはわたしの愛の言葉を、そうとは気づかずに受け取
るのである。
  
……冠毛を吹いて横っちょにめくります。寒さで濁
った篤学のカササギに、子細な注文を盛るんでしょ
う。まして中背かひびわれたままのハコヤナギで沸
きます。もうすぐ☆や#だけかじって……。まだら
な基調講演にバスケットまで宿主ね。謹厳にうとう
とと生態をつぼめて走って。惑星探査機まで戻りた
い。ブリギッテの陣営に逆上がりたい。……
  
 キョウコはわたしの手紙をちらっと読んだだけだ。でもすぐに
こうささやいた。
――ありがとう。
あたしもふうちゃんのこと好き。
  
「gui」no.50 April1997より





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