| キョウコ 1 |
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| 関 富士子 |
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| キョウコが向こうから走ってくる。ふうちゃん!と叫ぶ。廊下
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| に少年たちがたむろしている。小学校のとき、わたしを陰湿に執
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| 拗にいじめたやつら。キョウコは彼らを無視して、わたしに向か
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| って、顔じゅう笑って駆けてくる。わたしの歩き方はすこしこわ
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| ばる。
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| 少年たちの目の前で、キョウコが飛びつく。わたしはキョウコ
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| に抱き締められる。耳元のキョウコの声、骨張った腕、彼らの羨
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| 望の目、この幸福を一生忘れない。
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| つい油断をして、教室のすみでぼんやりしていると、目の前が
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| 急に真っ暗になる。目にてのひらがはりついている。突然の闇の
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| 恐ろしさ。頭を振って、両手で引きはがそうとする。キョウコの
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| 手だ。すこし湿っていて、筋が思いのほか強靭で決してはがれな
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| い。ぼんやりしているのをねらって、目隠しをしてくる。そのた
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| びに、ひどい孤独に突き落とされる。何度されても、慣れること
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| ができない。ぞっとするほど嫌いだ。あらんかぎりの力で、ての
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| ひらから逃れたい。やめてよと叫んで、立ち上がって、明るい教
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| 室でキョウコと向かい合いたい。でも、それはおかしい。これは
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| ゲームなのだ。
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| わたしはたったひとり闇の中で、周囲に見つめられて、教室の
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| 喧騒を聞きながら、なす術もなく座っている。不安といらだち。
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| なぜこんなことをするのか。キョウコをころしたい。
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| わたしはそっと息をつく。がまん、もうすこし、あとすこし。
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| すると、キョウコのこらえきれないようなくすくす笑いが聞こえ
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| てくる。
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| ――だあれだ。
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| わたしは答える。できるだけ元気に、楽しげに。
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| ――キョウコ!
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| その瞬間、世界はぱっと明るくなる。救われた思いでふり返る
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| と、キョウコの笑顔がある。みんなはおしゃべりに夢中だ。だれ
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| もわたしの震えに気づかない。わたしはキョウコに笑顔を返す。
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| わたしの顔はすこしこわばっている。
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| 「gui」no.48 AUGUST1996より |
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| キョウコ 2 |
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| 直径二十センチほどの、粘土の塊を配られる。固くてひんやり
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| して手に負えない。粘土板にたたきつけたり、床に落としたりす
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| る者もいて、教室はしばらく振動と大音響に活気づく。
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| 二人組みになり、互いの顔をモデルに、頭部の塑像を作る。キ
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| ョウコは興奮して粘土をたたく。しんねりと土が熱を帯びてきた
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| ころから、口数少なく熱心にこねている。指がしなやかに反り返
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| る。まだだれのものものっぺらぼうで、人間の目や鼻や口の形に
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| 当惑している。わたしはためしに目のあたりを押さえてみる。い
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| や、キョウコの目はこんなにくぼんでいない。くちびるはこんな
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| に厚くない。むしろ意地悪く曲がっている。
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| わたしはキョウコを盗み見る。すると、鋭くじっと見返してく
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| る。あるいは知らんふりして、わたしのひたいや眉やあごの一点
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| に、まっすぐ視線を当てては、すばやく粘土に戻す。無造作に、
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| 物のようにわたしを見る。
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| キョウコにはわたしの顔がどう見えるのか。はれぼったいまぶ
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| たやそばかすが恥ずかしい。自分の鼻の形を思い出せなくなる。
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| なま温かい粘土をのっぺらぼうに張りつけ、指の腹でいくどもな
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| でる。キョウコの顔はどんなだったか。前髪の生えぎわは……、
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| 耳はどのくらい見えているか……。わたしはキョウコの顔を見る
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| ことができない。
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| ――できた!
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| キョウコが叫ぶ。わたしはちょっと驚いて顔を上げる。粘土だ
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| らけの手でエプロンをぎゅっと握り、満足げにうなずいている。
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| ――見せて。
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| わたしはキョウコの側に歩み寄って、わたしの顔の塑像に向き
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| 合う。聡明にかがやく広いひたい、高い頬骨からそげていくあご
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| のかたち、小鼻のわずかな影、そして、意地悪く曲がったくちび
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| る。それは、わたしの顔ではなく、まぎれもなくキョウコの顔で
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| ある。
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| 「gui」no.48 AUGUST1996より |
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| キョウコ 3 |
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| キョウコの夢を見た。夏休みじゅう会わなかった。手紙を書い
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| たが出さなかった。わざとではなく、それぞれにすることがあっ
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| て、とり紛れたまま、短い休みが終わるという感じ。あっという
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| まに時がたって、気持ちが追いつかないうちに、からだが育って
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| 通学用の運動靴がはけなくなっている。
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| 夢の中のキョウコは、身体測定のときのように、正面を向いて
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| まっすぐ立っていた。体操服は着ずに、はだかで、わたしと同じ
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| やせっぽちの、ふつうの十三歳の女の子。そのキョウコが、今ま
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| で見たこともない表情をしていた。
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| その顔を何といったらいいか。まるで、人間が一生でいやおう
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| なく身につけるであろう悪徳をすべて表したような顔、というの
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| か。侮蔑や我欲、欺瞞、嫉妬、冷酷、いや、何といっていいのか
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| わからない、あらゆる邪悪な感情をあらわにして、キョウコがわ
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| たしを見ている。
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| わたしは目覚めて泣きそうになった。それはわたし自身が見た
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| 夢だったから。わたしはまだ、大人の悪徳というものを知らない
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| のに、キョウコの表情にそれを感じたのはなぜだろう。わたした
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| ちは、十三歳からあとの人生で体験し、名づけていくはずの感情
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| を、もはやすっかり知っているかのようではないか。 |
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| 九月の初めの朝、キョウコはまっすぐわたしに歩み寄って言っ |
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た。 |
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――おはよう。わたし、あなたの夢を見たの。 |
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その顔は、率直で、信頼に満ちて、純粋で、喜びにあふれてい |
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た。 |
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――どんな夢? |
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わたしは安堵と不安に引き裂かれて尋ねた。 |
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「gui」no.49 december1996より |
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キョウコ 4 |
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| 四年生のときだ。理科でボルトという電気の単位を教わった。 |
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授業が終わったあと、だれかが、ふうちゃんのからだには一兆ボ |
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ルトの電気が流れていて、ちょっとでも触ると感電死すると言い |
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だした。廊下でも教室でも、男の子たちはわたしが近づくと、声 |
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をあげて飛びのいた。わざと触ってきりきり舞いをして、大げさ |
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にばったり倒れる子もいた。大勢が興奮してはやしたてた。 |
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| 初めはちょっとした遊びだった。でも、このゲームは執拗に暗 |
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い情熱とともに続けられた。だれでもいい、一人をみんなで捕ま |
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えて、わたしめがけて突き飛ばしてくる。その子は顔を真っ赤に |
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ふくらませて必死に抵抗する。二人もつれて倒れると、わたしの |
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頬に白濁した鼻汁がべっとりとついている。 |
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| たえまない嘲笑にあって、わたしは日ごとに汚れていくような |
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気がした。過酷な集団の掟がみんなを苦しめた。ゲームをやめよ |
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うとした者も、容赦ない仲間はずれに屈した。かれらは偽の死を |
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死に、生き返る儀式をくり返す。しまいには義務的に、嫌悪や憎 |
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しみやあきらめとともに演じられる。わたしはほんとうに死にた |
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いと願ったが、忌まわしいストーリィのとおりに、無残に生きね |
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ばならなかった。 |
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| 中学生になってキョウコに出会ったとき、少年たちは長い悪夢 |
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から覚めた。キョウコは臆することなくわたしをしっかり抱きし |
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めて、感電死しなかった。彼らは魔法を解かれて、ふつうのはに |
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かみがちな少年に戻っていった。 |
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| ゲームを生きのびて、キョウコに導かれた世界は輝かしい。生 |
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きていることの喜びにうっとりしながら、わたしは今でも、あの |
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悪夢をキョウコ自身のなかに見てふるえることがある。キョウコ |
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のからだには、わたしと同様、けがれた一兆ボルトの電気が流れ |
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ている。 |
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「gui」no.50 April1997より |
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キョウコ 5 |
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| キョウコあての手紙を書く。伝えたいことは一つだけ。キョウ |
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コを愛しているということ。でも、愛という言葉は不思議だ。キ |
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ョウコのことを思うとき、いつもなんだか恐ろしい。こんな気持 |
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ちをほんとうに愛というのだろうか。手紙を読んだら、キョウコ |
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はわたしをみんなの前であざ笑うのではないか。もう二度と抱き |
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しめてくれないのではないか。 |
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| わたしの愛をそうとは知られずに伝えたい。わたしは愛という |
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言葉を、森に言い換えてみた。あるいは塩に、犬に、はなむぐり |
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に、紫の冬芽に、荒縄に、卵細胞に、指に、鉄橋に……。また、 |
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愛するという言葉を歩くと言い換えてみた。あるいは洗う・罰す |
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る・歯を食いしばる・しゃがむ・照らす・点検するに。さらに、 |
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それらの言葉の間に、もっと・決して・なぜか・いわゆるなどを |
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ちりばめた。 |
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| ノートは、たちまち暗号でいっぱいになった。でも、言い換え |
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た言葉は、まだ愛をたとえている。その文脈はまだ愛を物語る。 |
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何日もかけて注意深くすべてを訂正して、一通の手紙を書きあげ |
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た。キョウコはわたしの愛の言葉を、そうとは気づかずに受け取 |
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るのである。 |
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……冠毛を吹いて横っちょにめくります。寒さで濁 |
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った篤学のカササギに、子細な注文を盛るんでしょ |
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う。まして中背かひびわれたままのハコヤナギで沸 |
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きます。もうすぐ☆や#だけかじって……。まだら |
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な基調講演にバスケットまで宿主ね。謹厳にうとう |
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とと生態をつぼめて走って。惑星探査機まで戻りた |
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い。ブリギッテの陣営に逆上がりたい。…… |
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| キョウコはわたしの手紙をちらっと読んだだけだ。でもすぐに |
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こうささやいた。 |
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――ありがとう。 |
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あたしもふうちゃんのこと好き。 |
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「gui」no.50 April1997より |