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vol.8


<詩を読む>



 詩がつながるとき    須永紀子 




   
初鳴き
          山本 楡美子
  
うぐいすが鳴いた朝
家並みの向こうから若い頃の
両親がやってきた。
陽が当たっていた。
田舎の従兄が
この焼きギンナンはうまい
といったことが何回も思い出された。
ふとすべてを失ってもいいと思った。
その午後 彼女が
もっと小さい島へ働きに行くことになった。
オークランド島のナイチンゲールは何色?
なんて鳴くんだろうね?
と聞きながら
弟のような研ぎ屋さんに出会い
土手に
水路に
さびしく手を振った。
野原は
静かに輝き
人はあの光のなかから来て
消えていくのだと思った。  (『長帽子』59号)


 ここ数年山本楡美子の詩は深い輝きを放っている。かすかなエロチシズムがほのみえて、はっとさせられることも多い。うぐいすのひと鳴きで現れる肉親の姿。それは魔法のようで、詩の話者は、このまま見ていられるのなら、そして彼らといられるのなら「すべてを失ってもいい」と思う。恋や愛ではない。両親、従兄、彼女と研ぎ屋。思い出の人が幻になってひとつの場所に次々と現れ、光のなかから出てきて、同じところへ消えていく。

 映画『フィールド・オブ・ドリームス』を思い出した。主人公(ケビン・コス ナー)が死んだ父の声を聞いてトウモロコシ畑に野球場を作り,そこに過去の野球選手(シューレス・ジョーなど)が集まって試合をし、また畑に消えていくという話だった。「アメリカの夢」といってもいいような映画。今は亡き人々の声を聞き、その姿を見ることのできる人が語るという点で通じるものがあると思う。

 この詩を読んだ数日後に『櫻尺』18号で、太原千佳子の作品に出会った。長いものなのだが、一部を引きたい。

もう父母がいなくなって
生き直すわたしから
B系列の線が遠ざかった
物の輪郭などといって
表から裏へ また表へ続く面を
太い線で平面に限定できた年令は
とうに終わってしまった
あの頃 物は案外大きな声を出していて
くれたのかもしれない
今は傍らに座った途端に
誰かよその人の耳に
逸れてゆく物の声
目を凝らす?
耳を澄ます? (「傍受」部分)


 ああ、そうか、そういうことだったのか。わたしは目の前が広がっていくのを感じた。二つの詩がつながったのだ。両親が亡くなって、一人になった「わたし」は、何かの気配を感じ、「物の声」を聞き取ろうとする。「者」であったものの声も。

 この詩には注があって、安西均詩集『チェーホフの猟銃』のなかの作品「手旗、颯々」終連が引用されている。「詩とは傍受であろう。幽かな〈存在者〉が、この世に絶えず/送り続けている鈍い通信を、目を凝らし耳を澄まして/傍受することであろう」。

 わたしがすばらしいと思い、惹かれてきた詩を解読することばだ、と思った。詩人は存在そのものになってこの世にはいない人々の声を聞く。感受する身体になった詩人は亡き人々の姿を見る力を持つのだ。
 そして「幽かな存在」を信じる人だけが、彼女たちのことばを受けとる幸福にあずかる。詩人の作品を通して「幽かな存在者」とつながることができるのである。

 ところで安西均は、十八年前ある雑誌に投稿した拙作を本欄に推してくれた詩人である。
何かの会でお見かけしたことがあるのだけれど、気後れして挨拶もできなかった。それが悔やまれてならない。この二つの詩を読んだことでようやくつながることができたような気がしている。


<詩を読む>駿河昌樹個人詩誌「NF」を読む(関富士子)へ
<詩>「かきまぜられた場所」「あの青い冬」「よみがえる力」(須永紀子)へ言葉の積木(関富士子・桐田真輔)へ
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vol.8


駿河昌樹個人詩誌「NF(Nouveau Frisson)」を読む

                       関 富士子



 あつかましいお願いにこころよく答えてくださって、宅配便で「NF」をいっぱいとお手紙をありがとうございました。

お手紙を読んでいたら、パリの街を軽やかに歩くひとりの男の姿が、映画を見るように浮かんできて、カタコンブの薄闇でコートのポケットに手を突っ込んで黙然と立っていたり、バリジェンヌといっしょにサラダをつついたりシャーベットをなめたり、みごとな夕空のセーヌ河畔をリンゴをかじりながら歩いていたりする背の高い男のシルエット、うーん、絵になりますね。すてきすてき。

 といい気分でさっそく新刊NF77号を開いて頭をガツンとやられました。あなたというひとはわたしに秘密の危険文書を送り付けてきたみたい。同封の端正な小歌集「均衡」でバランスをとれということかもしれませんが、もうだめ。わたしはこっそりポルノでも開くみたいに、あなたの詩を読みふけったのでした。

  ぼく、ちがうな ひとではないから      ぼくにつながっていなさい
                つながっていなさい 衰弱のとき
                          死のとき
                          あなたたちの詩は反古
 「antipoetiquesとカミーユ・デュムーリエはP.132に書いている」(NF77)より

 人名や地名など、詩のあちこちに浮遊している固有名詞は、後注も含めて「彩果」以外は知らないものばかりなので、わたしにとってはただの音に近いけれど、この詩ではそう読んで構わないらしい。言葉はページの中で浮かんだり沈んだり。若くして早くも人生に倦んただれかが、「はっは」と大文字で笑っている。
 日付を見ると6/28-30とある。guiの朗読会の次の日です。あなたは下のバーでわたしたちの朗読を聴いていてくれた。すると「あなたたちの詩は反古」というのはわたし(たち)の詩のことかもしれない。まことしやかに「字を記すひとたち」「文化のひとたち」への強い不信感、「芸術 アート 人工物 いずれゴミ すでにゴミ」と嫌悪に満ちた言葉が連なる。
  けれどそんな「ぼく」に「つながっていなさい」と言われるとなんかどうでもよくなって思わずつながってしまいたくなる。たとえあなたがドラキュラでもね。

                               させて
 くれるよね パメルダ ことばなく あなたに触れるため ぼくは両手の皮を
剥ぎ  ちゃんとあなたの胃 腸 肝臓 膵臓 胆嚢 子宮 触れる
が
胃 腸 肝臓 膵臓 胆嚢 子宮 なかにはどう触れたら    なか は
 どこ? 皮  粘膜  剥げば  なか?かな?
                     かな?
                    かな?
                   なか?
                  かな? 
                  なか?
「antipoetiquesとカミーユ・デュムーリエはP.132に書いている」(NF77)より

 世の中を罵ったついでに自分を罵っているピンクゴールドボーイ。女にも自由自在になれるらしいし。
 真に触れ得るものを切実に求めて、自分の皮膚を剥ぎ内臓をあらいざらいひっくりかえすような行為こそが詩だと言いたげな・・・。 いやいや、これがantipoetiquesと作者にささやかれても、やはり詩以外のものではあり得ないような。

  ぼくがぼくのおんなだった    気づいたよ
  それ 》人生《 終幕で
  ようするに  大文字の はじまり、        Leslie,

  ながい準備は
  もうおわっていた
という最後がなんだか叙情的で・・・。境界を勇敢に超えて言葉を肉体化し、世界にあまねく遍在することがあなたという詩人の望みだろうか。


竜飛岬いこうと決めてたので   だが、「いや、      わルいのか、読者ヨ
発ったの          倣うとは、ミメーシス的     私は、あなたのでも、ワタ
上野発の夜行列車     行動ではないか」と反省するのも   シのでも
おりた時から        ミメーシス的反省ではないか   孤立無援であるナ、
パナソニックのCDプレーヤー  沈黙、シナイコト     ナ、読者ヨ。
まッシュで           沈黙、シナイコト
ヒンデミットの交響曲「世界の調和」がんがん
かけて(もちろんわてにしか聴こえへんけどほんでもやっぱ
世界がヒンデミットしちゃってルようで
「津軽海峡ヒンデミット景色」(NF50)より(注 上記の「私」はうまく表示できないが四角で囲む 関)

「津軽海峡ヒンデミット景色」(NF50)は以前第二歌(1007-1083行)(NF70)を読んですごいと思ったが、ほんとうに1行から1006行があるかどうか疑っていたのですぐに手に取った。開くとすぐ発作的な笑いがつぎつぎに湧き起こってきて、とてもいい気持ちだ。芝居の台本仕立てのせりふとト書きが入り交じったような絶妙の展開で、ほんとうに芝居でやってもおもしろそう。ヒンデミットかけて。

               「お」の時代が終わってみれば
               終わってみて気づく
               紙の白さよ
                 白さよ
                  さよこ、どこいった?
                       こいったら!
                       こいったら!
                          たら
                          たら
                          たら

                          たら?
                          たら

    あぶなかった。
    さっきは「たら」も異常発生して
    「お」の発生で止められたからよかったようなものの
    そうじゃなかったら
    「たら」時代が続いたかもしれなかったんだからなあ。
    かっこなしで「たら」や「お」をつかうと
    まだわかんないぞ、どうなるか。
      「津軽海峡ヒンデミット景色」(NF50)より

 1006行に及ぶ詩では9ページにわたって全部「お」で埋め尽くされていたりして、何やってんだか。でもやはりこうして文字の姿で、言葉の一音一音が上がったり下がったり揺れたり大きくなったり小さくなったり太くなったり、分離したり重なったり増殖侵食するのを見るのが愉快だ。文字が大好きなわたしには官能的なほどに思える。ときどき解説や指示が入って親切な人でもある。脚本と監督と助監督と女役と男役と舞台装置と照明と猛獣使いと猛獣と観客とをひとりで全部やっちゃうなんて! すばらしい情熱と快楽。

 「津軽海峡ヒンデミット景色」によってわたしは「駿河昌樹以前」「駿河昌樹以後」という歴史上の大転回を体験しました。もちろんわたしだけのちっぽけな歴史だけれど。
それでは今夜はこのへんで。

駿河昌樹さんの詩の一部が、清水鱗造個人詩誌「Booby Trap」で読めます。
長尾高弘longtailの「Booby Trap」へジャンプ。
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