
vol.9
present for you 詩りとり詩 2・1
私はもっと克明にあきれ返れ
藤富保男
…… |
あれ わたしはどこにいる野 |
を歩き |
そんな思いは |
風吹く国境の橋を |
足を引いて |
歩い手 |
をふり |
あるい輪 |
を巡り |
その程度ほど薬と笑って |
痩せたバッグを背にして |
歩い手 |
は冷え足 |
は狂って |
ぼよよん |
と思って定まらず |
鼻毛に |
枯れたとんぼをとまらせて |
うめいて |
痛みはたち町 |
を過ぎ手 |
にさわらず |
…… |
藤富保男「私はもっと克明にあきれ返れ」をテキストに
詩りとり詩2 関富士子×北原伊久美
ジェリービーンズ
ズル休みした昼下がり |
ガリバーの食卓に供された一粒の豆が |
ガーネットとエメラルドの愛の重さ比べ |
ベッドの王女を眠らせない |
いたずら好きのプリマべーラ |
落雷が春を揺り起こす |
澄み渡った空に祝福された季節の告知 |
くちづたえて鬱々の人に |
ニンフ達煌きのランタンかかげ |
下弦の糸をはじく音 |
時の番人大鎌振るう |
古うたを詠む雛たちの膳には |
はらはらと薔薇の花散る紅に |
煮つめられた禁断のさとう菓子 |
白い白いそれは見事なブラマンジェ |
詩りとり詩2は2月23日に、無事完成しました。春らしいはなやかな作品になったでしょう。パートナーの北原伊久美さんのサイト
歌姫の紹介が
リンクにあります。
詩りとり詩1 関富士子×桐田真輔
ずぶぬれのアメフラシ
しんねりとゆく遊歩道 |
どうしてもくちびるが震えてしまうの |
喉元でくぐもる声もなえて |
丁字路の|のところにあれ天敵が |
ガラス戸に隠れてやり過ごす新年の男
|
とことん透けて心臓ばかりばくばく |
くすくす笑ってるふたごの姉妹 |
参ったな赤と黒のかわいいきみたち |
たちまちふりかかる天気雨にかききえて |
手袋を買いにこぎつねも行くか |
枯葉のゆれてる尻尾のさき |
金星は昼の三日月のそばにいるはず |
頭巾をめくって耳たてて |
天辺の奥まで見ているともう真っ青だ |
竿竹売りの声も虚空に吸われ
|
連弾の指が枝々をかすめていく |
くの字に寝てみる風の夢かずかず |
「詩りとり詩」について(1998.12.31) 関富士子×桐田真輔
先週から始めた「詩りとり詩」について、パートナーの桐田真輔さんとわたしとの間で次のようなメールのやりとりがありました。
言葉遊びについての二人の考えを述べています。
……ところで、レイントリーの言葉遊びは、わたし自身としては日本語の構造や魅力や不思議を明らかにするとても大事な実験と思っています。vol.1での「メガクリどうぶつえん」や、vol.4「たけやぶやけた」、vol.6の「おんがえし」は、いわゆるアナグラムの手法をヒントにしたものですが、表音文字としてのひらがなが、日本語の言葉を形作るうえで、その組み合わせによって多様な意味が次々に現れ、絶妙な五十音によって音楽のように響くのを楽しみました。
また、vol.2や3の「折り句の楽しみ」では、提示された言葉や音を手がかりにしてこころの奥の何かを発見したり、思いも寄らなかった光景が現れるのを実感しました。
今回の桐田さんとのしりとり詩では、そればかりでなく、しりとり遊びの手法によって、言葉が他者とともにあってそれがつねに変化するおもしろさを味わいたいのです。
ただあまり力むと自然な言葉が出てこなくなるので、気楽にやろうと思います。どうぞよろしく。
関富士子
……いわゆる口語自由詩を長く書いている人たちが、言葉の物質性を言葉として対象化してみる実験をむしろやりたくならないほうが不思議だという感触ももってきました。
発句(俳句)は芸術だけど、川柳や連句はあそびで低級だというような、またことばあそびは、こどもむけというような伝統的な考え方(^_^;)が> まだまだどこかに残っているのではないでしょうか。
そんなことはないとみんないいますが、やってることと言ってることが違う(^_^;)。。。
それはまた日本人の言霊信仰と関わる根が深いものなのかもしれません。
こういう考え方は、詩作に向き合うときに襟をただすような、なにか真剣な上昇気分がなくてはならないと言う風に考えることに繋がりますね。それを昇ることとすれば、詩からおりてくる道もまたあるはずです。
このことは、日本の詩のユーモアの欠如ということも関わっているでしょう。ユーモアを味わうにも言葉のセンスが必要ですね。精神的なゆとりも。その意味でやはりまだまだ私たちの土壌は、貧しいという感じがします。
しりとり詩、不思議な関さんワールドのなかで迷子にならないように、ついていきたいです。
桐田真輔
KIKIHOUSE
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