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vol.13

<雨の木の下で>

掲示板というものについていろいろ考えた  (1999.9.13)  関富士子



何人かの方からrain treeは掲示板やらないの、やってほしい、うちの使っていいよ、作ってあげるからどお? もう作っちゃったからいつでもどうぞ、と度重なるお誘いありがとうございます。どころか最近ではもう勘弁して、うんざりよという気分である。実は何人かに相談もしてみたのだが、気が進まないならやらない方がいいよ、始めたらそう簡単にはやめられないから、という方もいた。

わたしはあちこちの掲示板に書き込みに出かけてもいるし、楽しく読んでもいるから、掲示板そのものはそう嫌いというのでもないが、しかし自分でやるとなるととてもこまめに皆さんに機嫌良く応対する自信がない。それどころかわたしがほんとうに掲示板をやっていいの? 皆さんわたしのこうるさい気難しい性格を知らないのではないかしら、と言いたくなる。

初めはそうではなかった。知り合いが掲示板を始めるとまっさきに書き込みに出かけた。 ある日、その一つの親しくしていると思っていた詩のHPの掲示板で、そこの主催者が、わたし個人の詩の活動について、名指しであからさまなあてこすりを書いているのを目にした。わたしの尊敬している詩人の名を出して、その人にほめられるのがそんなに嬉しいかというような文面だった。そのあとに詩人たちの人間関係を批判する文章が続いた。

そのHPの主宰者には数回会っていたし、当時女性の詩人でHPを持っていたのは数が少なかったから頼みにもしていたので、その意地悪な言葉にとても驚いた。しかし、ときどき送られるメールでも、数回会ったときでも、なんとなく皮肉っぽい言い方をされたなと思い当たって、彼女の本心を知ったように思った。

それにしても、自分のHPの掲示板とはいえ、大勢が読むところで不快なあてこすりを言うとはどういうことだろう。批判されて納得できることならわかるが、言いがかりとしか思えない。日記やエッセイの欄なら無視もできるが、掲示板という場所で黙っているわけにはいかない。わたしは当然のことながら、正面からきっちり反論した。どなたかがあとですごいタンカを切っていましたねとメールをくれたがたしかにそんな感じだったろう。

その人はすぐ他意はありませんと謝ったのだが、そのあとくれた数通のメールは、ひどく感情的な罵りの言葉でいっぱいで、すっかりうんざりした。自分の掲示板で謝罪の言葉を書くはめになっていたく自尊心が傷ついたらしい。明らかに相手に非がある場合でも、喧嘩をしたら相手に逃げ道を作っておかなければならない。少し頭を冷やしてからの方が良かろうと思って、掲示板でならいつでも反論する用意があります、と返事を出しておいて、2か月ほど日をおいてから(よく考えたら3週間後ぐらいだった。98年の暮れのこと99.10.11訂正)、rain tree の新号の発行のお知らせをそこの掲示板に載せてみた。仲直りをする気持ちがあるなら受け入れるだろうと考えたのである。すると直ちに削除されて、あなたとのおつきあいはお断りしますという内容のメールが送られてきた。それならそれでいいや、と思って、返事を出さずにその後その人とつきあいは一切ない。

これは掲示板でのわたしの最初のいやあな経験で、思い出してもむかむか腹が立つ。いやなことは忘れるのがいちばんと思っていたが、今考えると、どうやらわたしはそれで相当に傷ついていたようだ。人の性格もあるからみんながそうではないだろうと思って、その後もあちこちの掲示板を散歩しているが、小さなトラブルを目にすることはあっても、まあ平和な日々が続いた。

気をつけるようにしたのは、書き込みは必要最小限にとどめて、簡潔明瞭に書き、無用な心情吐露をしないこと。なれなれしい言葉づかいは慎むこと。詩の掲示板である以上、作品をできるだけ読んで感想を書くこと、ただし、よいと思ったことだけ書き、決して批判めいたことは書かないこと、推測憶測のたぐいで勝手な意見を言わないこと、自分のHPの宣伝は相手のHPに関連があるか、関心をもってくれていることがわかっている相手に限ること、掲示板の運営者はそこを盛り上げるためにわざと挑発的なことを言ったりする人がいるらしいので、その手にのらないことなどである。

ところが先日こんなことがあった。あるやはりなじみと思っていた掲示板で、そこの運営者がrain tree についていろいろ書いてくれているのはいいのだが、そのときの気分で書き散らしたような意図のはっきりしない内容なので、どう答えたらよいのかわからない。なにかつっかかられているようで、いちいち答えるのも不毛な気がした。困惑するばかりなのでまとまった考えを聞かせてくれと答えたら、きちんと自分のまちがいを認める文章を書いてくれた。それは良かったが、その後、数日間の書き込みがきれいに削除されてしまっていた。

その人は掲示板運営については長い経験があり、わたしがもっとも信頼を置いていた人だし、謝ってもくれたことだから今はいやな気持ちはまったく持っていない。しかし、その書き込みがすっかり消えてなくなってしまったことには驚いた。つまり二人のいろいろ考えてのやりとりは表面上はまったくなかったことになってしまうのだ。実に不思議なことである。これまでウン十年、紙テキストで、少ない部数とはいえ二度と取り消せない覚悟でものを書いて発表して来た者からみれば、掲示板というものは実に奇々怪々である。(これはその後削除部分が再掲載された)

とかなんとか考えていたらそのすぐあとで、別のある掲示板でAさんがBさんに対して、ある詩のイベントの計画について自分に何の連絡もない、どういうつもりか返答せよと怒っているのを目にした。その直前にBさんのことをその掲示板で紹介したのはわたしなので黙っていられなくて、よせばいいのに詩のイベントをするのに縄張りでもあるんですかとやりかえした。わたしはやたらに威張る人間が大嫌いなのでむかっ腹を立てたのである。(これは詩マーケットの関係の話で、内容もそのまま八坂周平堂一座の掲示板に残っているから興味のある人はどうぞ。まさかこれを削除してしまったりはしないでしょう。)これもその後Aさんが率直に謝罪してくれたので一件落着。もっともその謝罪が名指しされたBさんに対してではなくわたしに向かってだったのがちょっと釈然としないところ。

こうして書くと、なんだかわたしがみんなを謝らせているみたいだが、客観的に見ればいずれも発端は向こうに原因があるのである。それでもいちいちめくじらを立てずに、なあなあで終わらせるのが上手な社交というものだろうが、自分に関係することなら、しっかり言うことは言わなければ収まらない。こちらから喧嘩は売らないが、売られた喧嘩は買うのである。こんなわたしが掲示板をうまく運営できると思う?

人はどう見ているかわからないが、わたしにとって詩の個人誌の「rain tree」はかけがえのないものだし、楽しく遊んではいるがそれは真剣に遊んでいるのである。詩はわたしにとって生きていくための最後の証しだ。このような思いは、詩を書いている者ならだれでも多かれ少なかれ抱いているはずと思う。

それにしても、インターネットでの人付き合いは難しい。だいたいにおいて、先に挙げた三つの例のようないざこざはウェブの掲示板以外では起こらないと思う。これらはいずれも、ふつうなら陰で言う悪口とか日記での憂さ晴らしとかで終わるレベルのものである。相手に向かって名指しで言うようなことではないし、言うのなら慎重に相手にも納得のいく根拠をもって書くべきなのだ。掲示板というものは慣れないうちも書きすぎる。慣れてしまっても書きすぎる。それが詩を書くという人には譲れない行為に関わってくるから、いいかげんには済ませられない。大事に思って繋いできたはずの関係が、掲示板のひとことで崩れてしまう。それはあっけないほどもろい。

ネットでの付き合いでも、以前からの知り合いでたまに会ったことがあって顔も声も姿かたちもわかっている人なら、今でも変わることなく交流が続いている。そういった普通の付き合い方をすれば何ということはないのである。わたしは仕事関係でも詩関係でもわりと言いたいことを言い、したいことをして生きてきたが、それで他人とひどくこじれたことはない。むしろほとんどの人とは何年にもわたって長いおつきあいをいただいている。詩人どうしの付き合いならたいていはその詩の顔しか知らないわけだが、感想を送りあって、淡々としたしかしかなり精神的に深い関係が自然に築き上げられていく。お互いに詩がその人にとってどんなに大事か知り抜いているのである。こんな成熟した大人の付き合いをネットでも築きたいものである。

話は掲示板から逸れていくがいいかな?

今「詩学」という詩の商業誌で、投稿作品の合評を仰せつかっている。毎月入選した作品について選者5人で寄ってたかってああだこうだと議論をする。それほど熱くなることもないのに、5人ともけっこう熱中して激論となる。しかし、終わってしまえばさっぱりしたものである。他人の作品を俎板に載せるのだから、自分は少しも傷つかないということもあるだろう。その批評が適切ならいいが、人間のすることだし読み間違いだってある。良い詩人が必ずしも良い批評家とは限らない。批評する方だって詩の力量はたいして変わらないというのがわたし自身を含めての客観的な印象である。年を食っているかいないかぐらいの違いだろう。 しかし批評される方はたまらないのではないか。それがまったく的外れだったりすると悲惨である。自分の詩に似たような詩しか良いとと思えないような人は案外多いだろう。褒めるのは簡単なのだが、難しいのは選から落とした作品をどう批評するかだ。ここで、その選者の力量がわかりそうだ。

ネット詩人なら自分のHPに並べて満足していれば済むのである。カウントが増えるのを眺めて悦に入っていればよい。しかし、ある程度書きこんでくればそれで満足できなくなる。やはり評価が欲しいのである。無事新人に選ばれれば晴れて詩人の仲間入りだが、いつまでも投稿欄ではストレスが溜まりそうだ。選者好みの詩をつい書いてしまうかもしれない。こじんまりした起承転結のあるまとまりのよい詩しか書けなくなったりする。選ばれなければ恨みも溜まるかもしれない。逆に言えば、ここを乗り切った人はかなり打たれづよく、しぶとく書いていく詩人になりそうだ。

他人事みたいに言うけれど、ああいうところに投稿するのもかなり覚悟がいるね。わたしの投稿時代は学生のころの2・3年にすぎないが、早く卒業してよかったとつくづく思う昨今である。今詩壇といわれるところで幅を利かせているのは、特別に才能のある詩人でもなんでもない。コンスタントに詩を書き発表する場を確保し、詩人としての活動を長年続けてきた人々がほとんどである。それでもよい。ひとりの真の才能も必要だが、詩は才能がなくても書かれる価値があり読まれる価値がある。だいいち真の才能など何十年に一人も出ないのである。言えるのは、そういう平凡な一詩人としてのわたし(たち)が、自分のささやかな蓄積を守るために真の才能の伸びる芽を摘むようなことをしてはならないということだ。自戒しておこう。




tubu<雨の木の下で>西脇順三郎の会に行ったこと(桐田真輔)
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