
vol.16
十一歳
ひとりの食事
十一歳
ぼくは、マジックインキをにぎりしめ
便所のベニヤ板の壁に
1960年 12月1日 曇り
と、黒く太く書いた
母はぼくを叱ったが、消すことはできず
それからは毎日一度は、金隠しにしゃがみこみ
目の高さに、その文字を見ていた。
大人の目には、いたずら書きだったから
理由は訊かれなかった
過ぎてゆく多くの一日が、少しずつ
水のようにつめたく透明にからだを満たして
いつかは必ず死ぬのだ。という思いに
その夜、ぼくは布団をかぶって泣いた。
はじめての哀しみだった。
つぎの朝、目が覚めても、ぼくは小学生だった。
自分の生んだ子が、死にはじめたことを
母は気づいてはいなかった。
食膳に出された、野菜を食べようとしない
痩せた小さなぼくを、優しく叱った。
1988.2
1986.11
<詩>「ひとりの食事」へ
<詩>「未生」へ
<詩>モクセイの木(関富士子)へ
ひとりの食事
ブラインドを巻き上げ
二日ぶりに部屋の窓を開ける
隣の家の換気扇から
魚を焼く煙
人間は食うために生きる
と 僕に諭す叔母の家だ
鯵の干物を頭から
骨も残さず食って
今日も生きている
子供のころカリエスを病んだ
左足を引きずる
叔母の丸い体が
台所の曇りガラスに映っている
皿の触れ合う音がする
何も食いたくない日もあったな
冷蔵庫に入っているのは
缶ビールとミネラルウォーターだけ
昨日食べ残した
歯形のついたフランスパンをかじる
1986.12
<詩>新しい始まりの予感(豊田俊博遺稿詩集『彗星』より)へ
<詩>十一歳(豊田俊博遺稿詩集『彗星』より)へ
モクセイの木(関富士子)へ