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vol.16
 

第4回天国と極楽展/朗読会フェスティバル


駿河昌樹
出演者の朗読写真が清水鱗造さんのHP もみの木画廊朗読会(2000.5.3) アルバム と長尾高弘さんのlongtailもみの木画廊 朗読会フェスティバルよりにあります。
朗読作品から、駿河昌樹さんの作品を2篇読んでください。不覚にも涙がこみ上げて困った朗読でした。

tubuぼくの友だちの死ななかったところという場所
tubuアナタノ ナクサレタ ムスコサン ダレ?
ダレノコトデスカ?
                  
「ぽ」4駿河昌樹詩葉・2000年5月


ぼくの友だちの死ななかったところという場所

五体不満足なひとの本が有名になって
とっても売れていて
ぼくはぼくの友だちで足が片方ないひとにその話をしたら彼はもう知っていて
読んだよ、とっても不快だ、と言った。
ぼくの友だちは足が一本ないだけだというのに五体不満足のひとよりも明るくなくって
人生に立ち向かうとかふつうのひとのように頑張るとか
そんな気概がなぜだかずいぶん足りなかった。
あんなに性格が明るくって
なんにでもやる気まんまんで
ああいうのって、つらいよ、ぼくにはあれ、できないんだよ、って、
ぼくの友だちは言っていた。
とっても不快だ、っていう彼のことばも、すごく怒ってるって感じじゃなくって
  
じぶんの居場所が、最後の最後まで
奪われちゃった、もうダメだ、もう最後のところもなくなっちゃった、
っていうような、そんな感じだった。
怒りが込み上げて、というのじゃなくって、
最後のちからまでがヒュー、と抜けていくようだった。
  
やっぱり、がんばって、ちからがあって、積極的で
そんなひとたちの世界なんだなあ、ぼくなんてダメなんだなあ。
ぼくの友だちはそう言っていた。そうして、
とっても不快だ、とってもイヤだ、でも、
どうすればいいかわからない。どうにもできない。みんながぼくに言うことは、
がんばれよ、世の中にはもっとたいへんなひともいるじゃないか、って
そんなことばかりで、
そりゃあ、ぼくもわかるよ、あの五体不満足のひとはぼくよりもたいへんなんだ。
でも、ぼくはぼくのこんなこころをどうしたらいいんだろう。
こんなに弱い、積極的になれないこころはどこからぼくに入ってきたんだろう、
これをぼくはどうしたらいいんだろう、
どうしてこんなにさびしいんだろう、こんなに暗いこころはどうしてだろう。
ぼくの友だちは
ぼくの友だちで足がいっぽんないというだけの友だちは
こんなふうにしゃべって、
というか、なんだかことばが考えから離れてペラペラになったような
いくらかは散る桜のはなびらのような感じで
ことばを口から出し続けた。
聞きながらぼくはぼくのこころのなかでちょっとまとめをしたのだ。
そうだ、すべてはこころのことだ、こころの性質なのだ。そこから来るのだ。
でも、こころの性質はこころの持ち主本人には変えられないことが多い。
がんばれといわれても怠けろといわれてもそう簡単にはいかない。
どうしよう、むずかしいなあと思って苦々しい日々を送っているあいだに
  
からだがダメになる時が来る。そうしてやっと終わるのだけど、
仏教の考えとかだと、まだまだ生まれかわって続きをやらなきゃいけない、ってんだ。
  
どんなこころを持つかはけっきょくはそれこそ運命だという気がする。
生まれるときにどんなこころの種を抱えてやってくるか選べるのだとしたら
生まれる以前にほかのこころがあるということになって
それはそれでもいいけれどもぼくらが考えてどうこうできる段階を越えてしまう。
とにかくもこころの種があって
生まれた後それが発芽して成長して環境に影響されてこころになっていくけれど
ぼくらは幼いとき環境も選べないのだからやっぱりどうこうできる状態ではない。
やっぱりおおまかにまとめると運命ということになりそうだ。
ほかのことばでもいいけれど
とにかくぼくら自身の考えではどうにもできないんだなあと思ったり
つぶやいたりしているうちに
からだという船は朽ちていくことになる。
  
散る桜の
はなびらのような感じでことばを口から出し続けるぼくの友だちの話を聞きながら
ぼくはぼくのこころのなかでこんなまとめをしたのだけれど運命ということばは
ぼくの友だちにはぼくは言わなかった。
言ったってよかっただろう、つらいよわい暗いこころのひとには運命ということばは
どっちかっていうと慰めなんだから。
神とか宇宙の意思みたいなとこがあるんだから。
かれはたぶん、うんうん、ってうなずいただろうと思う。だから、
言ったってよかっただろうと思うんだけど
どうして言わなかったんだろうなあ、わざと言わないでいようと思ったんだ。
どうしてかなあ、よくわからない。
  
ぼくの友だちとそんな話をしたあと何ヶ月も経って
  
足がいっぽんないというだけのぼくのその友だちはある日
松葉杖でのったりと駅の階段を上って駅のホームの端っこまで行って
速度を落さないで走ってくる急行に飛び込んで
おもてむきはそれほどひどい怪我がなかったけれどもうまいぐあいに頭を打って
電車での死に方にしてはけっこうきれいな最期を遂げた
と、そんな想像をほんとうに急行がすごい速さで走り込んでくるホームの端で
しながらしばらくずっと立っていたんだそうなのだ。
ぼくはそれを聞いてやっぱりさびしい気持ちがしたけれども
それでもそんな想像をして立っていたらはじめてのように晴れ晴れしたんだ、
とかれがいうのはよくわかるようでもあった。
この急行でじぶんは死ぬこともできた、
ぜったいに死ぬことができた、
それなのに死なないでこうしていまここで、死ぬべきはずだったところで、
じぶんのあり得た死を想像している。
そう思うと、死んだということと生きているということとがほとんど
同じだと感じてきた。なにかいままで
生きていることとか生きていくということとか死ぬんだろうなあということとか
そんなことがらについて考えちがいをしてきていたとわかったような気がした。
ほんのちょっとの考えちがいだけど、
それがわかるのとわからないのとでぜんぜん違うようなまちがい。
だからといってなにもかわらないんだけど
でもわかったことはわかったこと。
  
その後でぼくもその駅のホームの端っこに行って急行が
すごい速さで通過していく風のなかで目をつぶっていたりしてみた。
ぼくの友だちとちがってぼくがその場所でわかるべきことはないように思ったけれども
でももし友だちがほんとうにそこで死んでしまっていたら
ここはかれが死んでしまった場所なんだ、と思って
急行の風を受けたりしていたと思う。
五体不満足の本を書いた明るいひとはつよくてガンバリやで
ぼくの友だちはよわい頑張れないこころを持たされた運命にけっきょく
押しつぶされちゃったということになるのかなあなどとも考えたかもしれない。
でもかれはけっきょくそこでは死ななかったので
駅のホームのその端っこの急行の風のすごいところは
彼、ぼくの友だちの死ななかったところ。
だから、ぼくも
ぼくの友だちの死ななかったところという場所を
いまは持っていて
これはなかなか手には入らない場所だとぼくは思うので
ちょっと誇らしいような
いろいろ考えるのにけっこう役にも立つような気がするのだ。


                  
「ぽ」2駿河昌樹詩葉・2000年4月


アナタノ ナクサレタ ムスコサン ダレ?
ダレノコトデスカ?




はかなんで
     (世を? じぶんを?
     (いつ思いつめて 首くくってもいいようにと
はした金はたいて
奈良の仏たちに会いにいきました
     (法隆寺の
     (百済観音からはじめようと───
  
寺へむかう小さなバスのなか
ゆらゆら揺れながら
     (ゆっくり乗り込んできた
  
背丈の高いおばあさんに
席 ゆずろうとすると
いいから、いいから、と
     (立とうとする
わたしの肩を押し留める
     (のです
     (こう言っては失礼かもしれないが
無数のしわが深く刻まれ
     (かたく象の肌のようになった
長いお顔は
     (もう
九十も百も生きてきたひとのようで
     (肩を押し留める
手には
つよい説得のちからがあった
  
  
     (法隆寺で
降りる
  
おゆずりしなくて 申し訳ありませんでした 
  
言うと  
     (おばあさん
  
あたし この前 
息子亡くしてね
このわきのお寺に入れたの
  
  
息子 八十でね 
     (まだ若いのに
毎月ね こうして来てる
  
  
     (若い!?
     (八十で!? 
  
  
    アナタニハ ワタシ ナド ドウ ミエルノカシラ?
  
  
     (聞こうと思ったけれど
もう わかれみちでした
 
    
     (息子さんが八十なら
     (おばあさん 九十幾つか 百か
     (そんな歳になって
     (息子に先立たれるというのは
     (それは それ
     (どういうことなのか
  
  
まったく 
親よりはやく死んで
親不孝もの
あなたもね 元気でね ずっとね
  
  
それじゃあね と
     
     (よろよろ
ほそいからだ
     (背の高い ながいお顔の
うしろすがた
  
  
  
     (日本霊異記にでもありそうな
     (結末 というか オチ
     (つけくわえますと
     (百済観音堂に入って
     (見上げると
     
     (ああ ほとんどあのおばあさんのような
     (おすがた
     (観音さまがわたしの肩を
     (押さえたのでないとは承知のうえでしたけれども
     (それでも
  
  
    アナタノ ナクサレタ ムスコサン ダレ?
    ダレノコトデスカ? 
  
  
     (つぶやいて みて
     (いました・・・・・・・・・・・


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<雨の木の下で>少年の経歴(関富士子)
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