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vol.17

<詩を読む>

一部改稿して川端進個人詩誌「釣果」2に掲載。2000.8.1発行

釣れない幸せ 中上哲夫詩集『甘い水』を読む


 関富士子

   日曜日、ちょっと早起きして釣竿と折り畳み椅子とお弁当の入ったリュックを背負って、郊外電車に揺られる。単線の小さな駅で降り、相模川の支流に沿ってぶらぶら歩いていく。コンクリートの堤防に囲まれた、きれいでもなんでもないありきたりのドブ川である。水はどんより濁ってごみが流れてくるが、案外臭くはない。その堤防の柵にもたれて5Mほど下をのぞくと、川辺で釣りしている人がいる。

 リュックの中に入れてきて電車の中で読んだ小さな釣りの詩集『甘い水』によると、「ヤマメのつり方」はこうである。

つり道具一式肩にかついで
ヤマメのいる川へ出かけよ
(ヤマメのいない川は不可)

そうして
ポイントを求めて
果敢に攻めよ
運がよければ
たぶん
ヤマメがつれる

*ポイントについては専門書を見ること。


 ヤマメのいる川へ出かけても、ヤマメはそうそう釣れるものではないらしい。専門書を見てもポイントなんかわかりそうもない。だいいちこの詩の作者は、釣り方については「果敢に攻めよ」としか言っていない。「運がよければ」なあんて、どうやら本気で釣り方を教える気はないらしい。

 川といってもここはヤマメなんか絶対いない東京近郊のドブ川で、雑魚だってとても釣れるとは思えない。でも、ここを美しい渓流だと想像してみるのも悪くはない。目をつぶって川の流れの音を聞いていると、梢のそよぎ、鳥の声が聞こえてくる。流れに足を漬からせて、「果敢に攻めている」一人の釣り人の姿。渓流でもドブ川でも、どっちみち釣れないんだけどね。

 半信半疑で柵にもたれて見ていると、さっと釣竿が上がって、きらきら光る小型の魚がかかっている。元気に跳ねているのを針からはずし、すぐ川に放してしまう。おや、魚篭に入れないのかしら。せっかく釣ったのに。と思う間にすぐ次の魚が掛かる。さっきより少し大きく丸みがあり鈍い色の魚だ。あまり暴れずおとなしく釣り上げられる。今度は釣り人は魚篭を川から引き上げて、その魚を入れている。

 しばらく眺めたところで、上から「おおい」と声をかけた。振り向いたのは詩人中上哲夫である。縁のあるコットンの帽子を被り、メッシュの釣り用ベストにラフなシャツ、コットンパンツという姿。彼は眠ってばかりいる「ねむり男」で知られている?が、釣りときくとがばと起き上がる「つり男」になるらしい。詩集『甘い水』で「ヤマメのつり方」を教えてくれた人物である。

水虫
水草
水枕
水玉
水薬
水疱瘡
・・・・・
男はなんにでも釣り糸をたれる
そしてつぶやくのだ
そこに水があるかぎり
釣り糸をたれないわけにはいかない、と
  (「習性」)

 ふうん、そんなもんかね、と思いながら、ちょっと離れたところで折り畳み椅子を出し、そろそろと竿を引っ張り出し、もたもたと糸を結んで、餌をもらって付けて、ぽちゃんと川に放り込む。浮子が流れを揺られていく。ほっと溜息をつく。糸を垂れるだけでいいなら釣りは簡単である。「水枕」に「水疱瘡」か。水疱瘡を患って1週間、熱が引いた後の生温かい水枕のゴムの臭い。固まって黒いかさぶたにそっとつける水薬。あのぽこぽこ揺れていた水枕の中にはどんな魚が泳いでいるのだろう。魚の口から小さな水玉がひとつ、ふたつ・・・。

 なぜだかそんな連想をしていると良い気持ちである。川面の光がちらちらするのを眺めているうち、小1時間が過ぎる。まったく釣れない。隣ではつぎつぎに竿が上がる。掛かったと思った瞬間、さっと糸を引っぱるらしい。釣りとはのんびりした遊びだと思っていたが、あれではずいぶん忙しそうである。

 「魚篭は水につけておくもんじゃないんだよ。魚を入れるもんだろ。」
 はい、まったくその通り。聞けば、さっきの小型のきらきら光る魚はクチボソ、少し大きく光の鈍いのはフナである。フナ釣りに来たのだからクチボソはいらないのだそうだ。でも帰るときは結局全部川に返してしまうのだけどね。この辺のフナは煮ても焼いても食えないらしい。
 こんな釣り上手でも、詩の中では案外釣れないことが多い。

初雪


川に釣り糸をたれていると
気温が急激に下がり
川面から水蒸気がたちのぼるとともに
暗い空から白いものが落ちてくる

竿につもる雪
ぴくりとも動かない浮子
鳥も鳴かないし銃声もしない
家族や友人たちの顔をひとつずつ思い浮かべながら
つめたいサンドイッチをほおばり
コッヘルで湯をわかし
熱いコーヒーをすする

家にとじこもってばかりいては
なんにも経験できないよ
川に落ちてぬれ鼠になったり
とつぜん詩の一行がひらめいたり

こんな日もあるさ
かじかんだ手をポケットにつっこみ
つもり始めた雪を靴先で蹴りながら
家路につく


 「初雪」を読むと、釣りの醍醐味は釣れないことにあるような気もする。冬になると炬燵でねむり男を決めこんでいる中上哲夫も、こんな日に釣りをしていたときもあったのか。気温の低下と水蒸気の発生が、雪の訪れを知らせる。竿に積もる雪のように、無為の時間は流れていく。ひらめく「詩の一行」だって、メモをするでもなく川の流れに消えていく。何事も起こりはしない。

 「こんな日もあるさ」。いや、考えてみれば日々は「こんな日」の連続であり、わたしたちは何を待つでもなく川辺に座って、「家族」や「友人」のあれやこれやを思い浮かべているうち、人生は過ぎる。そんなことがたぶん「経験」というものなのだろうな、と釣れないわたしは考えるのである。


 詩集『甘い水』は、中上哲夫の既刊詩集や詩誌、未発表(「大鰻をつかまえた日」「ハックルベリー・フインのように」の2篇)の作品などから、釣りの詩16篇を集めて編んだ、40Pのコンパクトな詩集である。薄くて物足りない気もするのだが、ちょっと出かけるときについバッグに入れたくなる。「事故防止のための渓流釣り十訓」や「鏝と鰻」「マハシア伝説」など、何度読んでも思わずくすくす笑ってしまう。詩人は、糸を垂れながら魚たちを相手にこんなゆかいな法螺話を聞かせているのか。よく胡椒のきいた「湖水スープ」、ちょっと飲んでみたいね。

 でも何といっても、後半の長めの作品が好きだ。「魚の時間」を読むと、詩人は、熱に浮かされたように魚たちと一体になり、存分に遊んだ少年時代を持っていることがわかる。時代がまさに太平洋戦中戦後数年とぴったり重なることを思えば、この記憶はなおいっそう輝かしい。一瞬でも、満ち足りた体験があればこそ、大人になってどんな人生を歩んでも、人は、根源的な幸福感を抱きながら生きていくことができるのではないだろうか。だから、「大鰻をつかまえた日」の大鰻は、単なる郷愁ではなく、現在の彼を生かしている生命の源として現れる。

 気がつくと、大鰻がぼくらの網に入っていたのだ。
ぼくらは、田んぼのまん中で泥の顔を見合わせてにっ
こりした。そのとき、空を覆っていた鉛色のシーツが
さあーととり払われ、霧も消えて金色の光の矢が斜め
にぼくらの上に降りそそいだ。
 生涯であんなに誇らしげだったことはなかったね。
ぼくらは、大鰻の盥をもって町内を練り歩いたのだ。
王様のように。あとには子どもたちが家来のようにぞ
ろぞろとつき従った。

(「大鰻をつかまえた日」部分)

 釣りは、詩人の心に、少年時代の呆けたような熱中の感覚を呼び覚ます。川の水はウイスキーのように金色に輝いて、彼をしとどに酔わせるのだ。

渓はなにが飛び出すかわからない書物だ。本のページを
めくるように、ぼくらは渓を上がっていく。甘い水の甘
い魚たちに会いに。

(「渓とジャズと木苺」部分 「渓」には「たに」とルビ)

 さあ、いっしょに日のあたる川辺にすわって、かけがえのない至福のときを過ごそう。わたしたちはただ夢中のうちに生きればよい。人生が目の前で一瞬のうちに過ぎるのが見えるだろう。わたしたちは、なすすべもなく、呆然としてそれを見送るだけである。

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