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vol.17
 

<詩を読む>

夏休みに読んだ詩集 2000.8.16 関富士子

夏休みをいかがお過ごしですか。埼玉はこのごろ毎日のように夕立と雷があります。雷の光の中で読んだ本の中から、詩集をいくつか紹介します。

御庄博実第二詩集』御庄博実 1999年6月30日思潮社刊

被爆者として、医師として原爆病の治療に生涯を尽くしてきた詩人の第二詩集。太平洋戦争から50余年を経ても、怒りも憎しみも嘆きも癒されることはない。彼はその時から現在までずっと、苦しみ続けているのだ。人々のむごたらしい姿を描くことは、どんなに過酷なことか察するにあまりある。それなのになんということか、それらのすべてを優しく包んでいるのは、天性ともいえる詩のロマンチシズムである。わたしはその美しいリズムに導かれて、この世の地獄とひとりの人間の業苦の中に入っていった。

vol.17に桐田真輔さんの詩集評があります。
tubu『御庄博実第二詩集』を読む 詩「マリン・スノー」を中心に 「わたしは 海に沈んだ兄からの便りを読む」(御庄博実「小さな記憶」より)   桐田真輔


再生』田中清光 2000年6月30日思潮社刊 

   畏敬する詩人田中清光の生と死をかけた渾身の詩集。彼の肉体は病苦にさいなまれているというのに、彼の精神は天地のあわいを漂流し、原初から現在、未来までの人間の所業を見とおしている。
「川の町」をさまよう吟遊詩人の悲嘆、「泥の聖女」の官能のすさまじさ。
あなたが
はじまりなら
この世の終わりも泥なのだ
泥を吐いている顔の美しさが
あなたの絶頂の表情であって
この世とあの世とが同時に見えてくる
未生の胎内から
黒い液体が流れ出ている

(「泥の聖女」部分)


子犬のしっぽをかみたくなった日』やまもとあつこ 2000年7月20日空とぶキリン社刊

説明もいいわけもなく、シンプルに差し出された素のことばが好ましい。
久しぶりに涙の出る白昼
遠くから光の手が下りてきて
白いTシャツの
バックプリントの黒い部分だけが
はっきりと背中に
熱い

(「刻印」部分)



』 2000年7月20日七月堂刊 森ミキエ

情景がくっきりしていて、全体が明るく乾いて透明感がある。細部もきちんと描写されて安定している。若い男女が登場する、淡々とした展開の、質のいいヨーロッパの映画を見ているみたい。おしゃれだなあ。
フラメンコを踊る魚屋の姉妹は
背骨が曲がり白内障の眼鏡をかけている
リズムにのって刻むように足踏みをくり返し
くり返し 息があがっても平気だ
♪ スペイン婦人 スペイン婦人のアシクビは〜
と大声で合唱し 泳ぐように笑いあう
あなたはいっそう烈しく手拍子をうちながら
姉のためにイワシを量り
妹のためにシャコを売る

(「スペイン婦人の足首」部分)



不忍池には牡丹だけれど』山本かずこ 2000年7月25日midnightpress刊

 言葉は女の口から、取り繕うまもなく飾るゆとりもなく、あるいは包み隠しようもなくこぼれる。アルサロ勤めの女、不倫をする女、同級生だった男を誘う女、待ちつづける女、花火を見る女、メコンの小舟に乗る女。さまざまな女たちに起こる、のっぴきならない瞬間の、真に迫った心のつぶやきが、オムニバスのように繰り広げられる。初めの2篇は幼い少女に語らせる形をとっているが、ほとんどの作品は一人の女が語る独白である。読者であるわたしも女だから、古いつきあいのある女友達の、心を許したすなおで真っ正直な告白を、はらはらしながら聞かされているような気分である。

どんなえいぞうよりも わかい ふかのうな
 かのうせいを むきだしにする よくぼう
が あざやかになる ものとーんのがぞう
のなかで よくぼうが (居・魂) がため
されているのだ とおもいます
      (「みずのまち」部分)

 のっぴきならない瞬間に、彼女たちの行動を支配するのは、不可抗力のように沸き起こる「欲望」である。詩集に登場する女たちは、「欲望から、すでに、逃れられない」ことを覚悟している。それは、この社会において「欲望丸見えじょうたい」に自分自身を晒して生きようとする覚悟であろう。それを、社会のモラルを軽々と超えてしまう現代の女の生のエネルギーとみることはたやすい。

 しかし、それは果たしてほんとうに彼女たち自身の「欲望」なのだろうか。
 詩人山本かずこは、詩「美術館にて」において、女が「Dに属して」いることに気づいている。Dとは、なすすべもない運命のようなものの寓意だろうか。女は、Dの「ごきげん」に反応するようにして、「犬のように」「くるくるまわっている」。彼女たちの「欲望」はどこまでも、Dという存在が投げ掛ける網から自由にはならず、のっぴきならない衝動は、Dという縛りがあって初めてわきおこる抑圧された官能に変質してしまうのだ。
いつまでもこんなふうにして、くるくる
まわりつづけていればいい。Dから離れ
ないで、気配を感じつづける。そして、
くるくるまわる。ときどきは飛び跳ねな
がら、ね、ね。まるで、わたしに言い聞
かせているかのようだ。
     (「美術館にて」部分)
 「欲望」は女たち自身のものか。それはほんとうはDの「欲望」なのではないか。すでに真のエロスは失われていて、女は、実はこのことに長く苦しんできたのではないだろうか。

 この詩集には、「女の村」や「夏の記憶」、「村を歩く」のように、詩人自身の現在が現れているように思われる作品もある。詩人が今立っている場所、そこはわたし自身の荒野でもある。女友達の一人として、いっしょに立ち止まって、そこがどのように荒れ果てているのか、いったい回復はあるのかを見届けたい。

vol.17に桐田真輔さんの詩集評があります。
tubu山本かずこ詩集『不忍池には牡丹だけれど』を読む  散文詩「欲望」を中心に   桐田真輔




tubu<詩を読む>奥野雅子詩集『日日は橙色の太陽に沿って』を読む(桐田真輔)へ
<詩を読む>釣れない幸せ(中上哲夫詩集『甘い水』を読む)(関富士子)へ

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