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vol.17

『御庄博実第二詩集』を読む 詩「マリン・スノー」を中心に

「わたしは 海に沈んだ兄からの便りを読む」(御庄博実「小さな記憶」より)


桐田 真輔

 

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 「マリン・スノー」は不思議な印象を残す詩だ。訴えかけてくる意味としてはとて も分かりやすいのに、どうしてこんな視点から作品が書き出されたのだろうという謎 めいた感じが残る。

 この作品の中心テーマが、核爆発実験に伴って大量放出される放射性下降物、いわ ゆる「死の灰」の恐怖、にあるということはすぐに了解できる。ただ、その恐怖を、 作者はビキニ環礁での核実験(1946~58)という事実にもとづいて、ソロモン海域の 海底に眠る日本人戦没者の白骨化した死体の口を借りて一人称で語ってみせたところ に、この詩の特異なところがあるといえるだろう。

 この作品を一編だけ独立させて読むと、詩に一人称で登場する「僕」には、今も南 太平洋の海底で眠る多くの旧日本軍戦没者たちの象徴という意味しかつけられない気 がする。しかし、この詩が収録されている『御庄博実第二詩集』の全体を読むと、作 者が、この「僕」に、実在した二つ違いの「兄」のイメージを重ねているのがわかる と思う。

 特に詩集後半に収録されている詩編のいくつか(とりわけ「セピア色の夜」)で、 親しみを込めて追想されるこの「兄」とは、当時海軍少尉であり、フィリッピン沖で 戦死したとされ、作者がその戦死の広報を内ポケットにしまったまま、被爆直後のヒ ロシマの廃墟を彷徨ったとされるひとなのだ。

 おそらく作者は、戦後の五十幾年の歳月の間に、何度となく思いを馳せたであろう、 今もフィリッピン沖に眠る懐かしい「兄」のイメージに、そのせめてもの安逸な鎮魂 を妨げるものとして、降り注ぐ核汚染の恐怖のイメージを重ねた。そのことは、同時 に、自らの日々の安らぎを妨げるかのように脳裏に焼き付いてしまった被爆直後のヒ ロシマの恐怖のイメージを語ることに等しかった。

 それは、「僕はもう眠れやあしないんです」というこの詩の最終連のフレーズが、 鳩の視点から被爆地ヒロシマの四季の記憶をうたった「私は鳩・4部作」の二部「炎 又は夏」の中の「私はもう幾日も眠れやあしないんです」というフレーズに、直接に 響きあっていることからも見て取れると思う。

 こうして南太平洋の幾千メートルの深海の底に眠る戦没者の白骨死体が、時代から 忘れられている自らの由来を明かすとともに、深海に降り注ぐ美しいマリン・スノー (海雪・有機物の凝集体といわれる)をも汚染する放射性下降物の恐怖を語るという、 幻想的で味わい深い詩の形姿がつくられたのだと思う。死者の身体は白骨化して今や 海底に散乱している。しかし、それは作者と私たちを結ぶ詩の想像力のなかで「集ま れ といえばいつでも集まれる」。詩の言葉への確かな信とその持続を、この作品は 伝えてくる。

 作者自らの(戦争=戦後)体験の固有性を手放さずに、しかもそれを生の言葉で伝 えるのでなく、詩の言葉として仮構(象徴化)することである種の社会性を獲得しよ うと希求する詩の流儀(方法意識)を、かりに「戦後詩」の方法と呼ぶなら、「マリ ン・スノー」は、まさにそうした試みのひとつの達成といっていいのではないか。


 ところで、私は、この作品「マリン・スノー」を、最初に弦楽アンサンブルの演奏 をバックに青木栄瞳さんの朗読で聴く機会があって、その体験が今回『御庄博実第二 詩集』を求めて読むきっかけになったのだが、青木さんの詩の朗読時に感じたことと して、唐突にも「小林秀雄の戦争についての文章を思い出した」とに書いた(「rain tree」の「「弦が奏でる心とリズム」青木英瞳の詩の世界」の感想」を参照)。

 そのときには、その感想文に書いたように、「海や空といった変わらぬ雄大な自然 のスケール」を想起させる明朗でややゆったりしたテンポの朗読と弦の調べの調和が、 そこに一方で語られている凶事の禍々しさにもかかわず、というか、その禍々しさを も含みこむような、変わらぬ自然に対する美的感動として伝わってきて、そういえば 小林秀雄も、どこかで、こういう感じのことを書いていたな、と突然思ったのだった。 帰宅して、どこだったかな、と小林秀雄の著作をあさってみて、ようやく、みつけだ した。

「空は美しく晴れ、眼の下には廣々と海が輝いていた。漁船が行く。藍色の海の面に 白い水脈を曳いて。そうだ、漁船の代りに魚雷が走れば、あれは魚雷跡だといふ事に なるのだ。海水は同じ様に運動し、同じ様に美しく見えるであらう。さういふふとし た思ひ付きが、まるで藍色の僕の頭に真っ白な水脈を曳く様に鮮やかに浮んだ。真珠 湾に輝いていたのもあの同じ太陽なのだし、あの同じ冷たい青い塩辛い水が、魚雷の 命中により、嘗て物理学者が仔細に観察したそのままの波紋を作って礦ったのだ。そ してさういふ光景は、爆撃機上の勇士達の眼にも美しいと映らなかった筈はあるまい。 いや、雑念邪念を払ひさった彼等の心には、あるが儘の光や海の姿は、沁み付く様 に美しく映ったに相違ない。彼等は、恐らく生涯それを忘れる事が出来まい。そんな 風に想像する事が、何故だか僕には楽しかった。」(小林秀雄「戦争と平和」)


 小林秀雄の文章は、生死をかけた戦闘中の極限状況にありながら、というよりそん な状況であってこそ人が垣間見る事の出来る特権的な時間、鮮明な自然の姿が臓腑に しみるような美の感覚がありうることを伝えているが、極限状況での情景との遭遇が、 「生涯それを忘れる事が出来」ない記憶となって残るのは、そうした美の感覚ばかり ではないということには触れていない。それこそ、そこに御庄氏の被爆直後のヒロシ マ彷徨体験の記憶、「僕はもう眠れやあしないんです」という凍りつくような恐怖の 記憶の再現をおいてみるだけでいいだろう。

 ただ極限状況における、この美と恐怖というふたつの極北のイメージは、「生涯」 人の心を深いところで捉えて放さない、ということが起こりえる。そして、それを鎮 め解き放つ(対象化する)には、やはり言葉というてだてをもってするしかないのだ と思う。


マリン・スノー


僕は深い海の底
果てしなく降ってくるものは
白い輝き 炎のきらめき
幾千メートルか 僕は知らぬが
ここは暗黒の 絶対温度零度の
幾十万年かの堆積の
幾千気圧かの圧縮の
その中での恐ろしいまでの静ひつ
僕は五十幾年
身じろぎもしないでここにいる
  
南太平洋 ソロモン海域
南回帰線の近づくあたり
僕は暗黒の海に沈みながら
轟音と共に巨大な水柱を見た
それから五十年
この果てしもない堆積のなかで
ほんの一瞬といえば一瞬だが
僕の齢の二倍をこえる年数を数えている
海の果てるまで
僕は安逸の眠りを守りたいと思う
  
大きく開いた僕の眼窩
白く晒された僕の骨
既にばらばらに散ってはいるが
集まれ といえばいつでも集まれる
暗闇のなかでの 僕の骨だ
  
この安逸の堆積のうえに
いつの頃からか
白く輝くもの 炎にきらめくもの
氷のように冷たいくせに
僕の白い骨を焼きつくす
マリン・スノーが降ってくる
プルトニウム239 セシウム137
ビキニ環礁の海の青さが
白く泡だって燃えたときから
いつまでも降りつづいてくる
恐ろしくて冷たくて
ふれるものを焼きつくす
  
僕はもう眠れやあしないんです
轟音と共に沈んでいった僚友たち
見開いている幾百千の眼窩のなかへ
果てしなく降りつづいてくる
白く輝くもの 炎のきらめくもの
ああ もう誰も眠れやあしないんです


御庄博実第二詩集』(99年6月30日発行・思潮社)


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