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vol.17

山本かずこ詩集「不忍池には牡丹だけれど」を読む
散文詩「欲望」を中心に


桐田真輔

   ある種の性的な情意にかられている時の女性の内面を、説得力のあるスリリングな情景のなかにおいて、詩の言葉で浮きぼりにする試み、そういうことを、この作者は詩作のなかのひとつのテーマとして、なかば意識的に持続してやってこられたという気がする。

   そんな内面に流れているのは、特定の異性と性的に結びつくことに対する、自らの欲望の暗黙の肯定性だ。そこではどんな「理屈」も通用しない。急流に身をまかせているような、あるいは、時間の推移が遅くてもどかしくてたまらないような、心の傾斜の表情がそこにある。

 けれどそのこと自体を書くことは、表現の半分しか構成しない。伝えたいことの半分は、そういう内面にまといつく「意味」とのおりあいを、どんなふうに彼女自身の言葉として融和的に表現できるか、というようなことだ。このときに詩作者は自分の経験からつかみとってきた価値観や、もってうまれたとかいいようのない資質をためされるのだと思う。

 昼下がりの渋谷の街で、雑踏に身をかくすように歩いていた二人の男女が、ふいにどちらからということもなく横道にそれてホテル街のほうに歩を進める。そんな情景を描いた「欲望」という散文詩が興味をひくのは、そこに、いま書いたような構図が象徴的にみてとれる気がするからだ。

 ホテル街に抜けたとき、「わたし」は、これまで自分たちの欲望の所在を隠していた雑踏という防壁がなくなってしまい、もし神様がみていたら、自分たちの欲望の在処が「丸見え」になってしまったと思う。神様だけでなく現実的に、周囲の他人たちからも「丸見え」だ、と思う。

 「こうなったら、仕様がない。覚悟を決めましょう。」と、「わたし」は、「あなた」と手をつなぎ、自分たちの欲望から逃れられないこと、「まして神様からはとっくに逃れられない」ことを、はっきりと自覚した、という連で、この作品は結ばれている。

 この作品で、はじめから「わたし(たち)」をとらえているのは性的な情動であって、ホテルに向かうのは予定された(なりゆきの)行動であるともいえる。では、なぜ「神様」なのだろう。この「神」の観念は、西欧的なキリスト教の神ではない。あえていえば、詩意識としての神なのだ。

 他人に白昼の路上で自分(たち)の性的欲望をみすかされていると感じることが、衆人環視のもとで全裸になったような羞恥心を呼び起こすなら、神にみられていると感じることは、キリスト教風にいうなら、姦淫の罪を自覚することに他ならず、その意味はまるで異なるはずだ。しかし、ここでは、そういうふうに使われていない。むしろ「神様」は、「わたし(たち)」の行為を肯定するものとして、「わたし(たち)」の欲望が欲望として純粋であることを、認知するもの(恥ずかしさを受け止めてくれるもの)として現れている。

 しかしそれにしてもなぜ「神」なのか。私には、この「神」は、著者の詩意識の深さや広がりを象徴する言葉のように思われる。わたしの欲望を肯定する「神」は、「神」であることにおいて、人々(他者)の欲望もまた肯定せずにいられないはずだ。そこに、自らの分身を自在に溶かしこみながら、多様なシチュエーションで、「ある種の性的な情意にかられている時の女性の内面」を描き続ける、作者の資質とこだわりの秘密がかくされているような気がする。

 たとえば、水商売の店でアルバイトをしている「わたし」が、常連客に誘われてタクシーに乗り、手を握られるままに、「山」(業界の隠語?)に向かう様子を描いた作品「赤いタクシー」も、八百屋に不倫相手の男を亭主と思われ、否定することもなく男のもとに向かう主婦を描いた作品「じゆう」も、ふくらませれば短編小説になりそうな感じの、「欲望丸見え」じょうたいを差し出している。そこには「神」はかくれているが、そうした情景そのものを作品として創出することに「神」の視座がとかしこまれているといっていい。

 以前、書かれた詩そのものでなく、それ以前にはじまり、それ以後に終わるような全体のプロセスをくぐり抜けたことの意味こそが、この作者の伝えたいことなのだ、という意味のことを、舌足らずの言葉で書いたことがある(tubu「山本かずこ詩集『思い出さないこと 忘れないこと』を読む」参照)。今でも舌足らずにしかいえないが、おそらくそこに遍在しているのが、そういう言い方が適当かどうかは別にして、作者の詩意識としての「神」なのだと思う。このことは詩人として希有なことだろうか。とても希有なこと(本格的なこと)だと私はいいたいのだが、それもうまく言えそうにない。

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 詩集後半の「秋と一日」や、「もう苦しまない」、「真鶴」といった作品には、一種、「過去化の視線」と呼びたいような行句が含まれている。「ひとをはげしくあいするじかんにもかぎりはあるのでしょうか。」(「秋と一日」)や、「わたしは、後ろ姿や横顔に欲情する能力をどこかへ捨ててきてしまったのだろうか」(真鶴)と言った詩行を読むと、この作者にして、と思わないではないが(^^;、これはもちろん作品としての視点の移動というべきなのだろう。

不忍池には牡丹だけれど なかでも、思いつめたようなまなざしの若い女性とすれ違い、そこに20数年前の自分の姿を重ねる「わたし」と、その「わたし」の視線をのぞきかえして、そこに自分の未来と救いをみる、若い女性に仮託された「わたし」。この複雑な陰影をこめた心の交感を描いた「もう苦しまない」という作品には、作者の詩意識のいっそうの深まりや、新しい詩法の試みみたいなものの暗示が感じられた。この先のお仕事も、一読者として大いに楽しみにしたいところだ。

山本かずこ詩集『不忍池には牡丹だけれど』(2000年7月25日発行・tubuミッドナイトプレス

桐田真輔
mailtubukiri@air.linkclub.or.jp  HP:tubuKIKIHOUSE



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