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vol.18
<詩を読む>

福間健二詩集『秋の理由』を読む


桐田 真輔

 日々に遭遇するいろいろな事象。それらに触れ、あるいは見過ごすように通過するときに、いろんな思いが心のなかにわき起こる。ひどいことが起こっている。ああはなりなくないものだ。さぞ大変だろう。そういう思いをきれぎれに心に思い浮かべ、場所がきりかわってやってくる別の事象にむかいあううちに、忘れてしまうが、忘れたはずのことは、忘れきれずにどこかにとどまっている。それらのことは、日々の破れ目のような場所でふいに見聞きしたりすることがあっても、事象においまくられて、流れてゆく時間のなかでは、まるで存在しないかのように姿を隠してしまう。しかしそうした日々の時間全体に前意識のように浸透していて、特定の色合いの影をおとす(ように思われる)。

 そのことを書き留められたら、それは時代を語ったことになるだろうか。あるいは私たちはまだ、そのように、おなじ色合いの影のおちかかる世界で生きているといえるのだろうか。どこまでも自分の時間をくぐっていくと、どこかに抜けでている?

 きれぎれの思いを書き留めること、それはいつでも端緒なのだから、とても大切なことだ。けれどそれは危うい破れ目のような場所にたつことでもある。触れてしまったことで、事象との距離や関係が変わってしまった。そこからは、もう次の場所にスムースに移行できない(動きがとてもきつくなっている)。そんな自分にだけ知られ自分にだけまといつくような不自由さの苦しみを、もうひとつ別の場所に解放すること。

 もうひとつ別の場所?それはどんなふうに可能なのか。。事象に不可知さを呼び込むことによって。というのが、ひとつの答案だ。そこで喩はむしろ意味を言い当てないためにつかわれる。というより他者がいつまでも他者であることを言葉として定着するためにつかわれる。もうひとつの答案は確証に対する否認だ。端緒に自分に訪れた思いに結びつく一番安易な思念や類型的な観念の線を切断すること。ここで反転するのは世界でなく、世界を捉えている自分の像だから、これは一見して自作自演の劇のように見える。けれどそのことで、自意識の提起と否認というプロセスを演じること自体が、大切な別の場所に抜けるための表現なのだ。

 かって港に繋がれた舟のホテルである男は目覚めたが、90年代にひとりの男が目覚めるのはブルーハイウェイのモーテルの一室の回転ベッドのうえだ。彼のよこには禿鷹風に化粧をした女でなく、足に鈴をつけた謎めいた若い女性がいる。詩集のなかで変貌をくりかえすこの女性(山をこわしてしまう女性)が、90年代の「男」の側からの、やや古風で魅力的な喩の源泉になっている。

誘惑

世界はまだ終わらずにトラブルの破片を
ぼくが何と何のあいだに体をおいても打ち込んでくる
その複雑な音
それが地球のこわれてゆく音にきこえるとしても
まだパーティの途中で
眠る権利と目ざめる義務があり
発見されたばかりの生物のようにセクシーな
きみが鈴のついた足で近づいてくる夢もみる
きみはぼくとおなじことを心配しているが
けっしてそれを口にしないだろう


福間健二詩集『秋の理由』(2000年6月30日・思潮社)
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mail桐田真輔 HP:KIKIHOUSE(個人) HP:あざみ書房(管理)

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長尾高弘詩集『頭の名前』を読む


桐田 真輔


 前詩集『縁起でもない』(98年刊・書肆山田)同様、ご子息ナオキ君の手になると思われる表紙イラスト(線がしっかりしてきたなあ)が目をひくこの詩集には、16編の詩が収録されている。

 日々の生活のなかで、ふと感じて過ぎてしまうような疑問を詩の意識のなかにとりこんで、それを平易できどりのない散文調の行分け詩の形で語りかけていく。疑問の根源は作者のどこか深いところに根ざしていて、そのわだかまりの力が、いろんなふうに姿をかえて日常から言葉を招き寄せてくるようだ。

 冒頭の詩「死なないように。」は、なにかの作業に息をつめて集中している時に、ふと訪れるような「呼吸をしなかったら死んでしまうのかな」、という素朴で空想的な想念をまくらにはじまる。この想念は、作品では「死なないだけでは、生きていることには、ならないじゃないか」、という内なる声(遠くからの別の声)に接続され、さらに「死んだら生きることも、できないじゃないか」、という別なる声に反転されるのだが、この最初の思いを吟味していると繋がってくる内なる声との応答のねじれが、読者をしておもわず身をのりださせる長尾さんの詩の魅力のひとつになっていると思う。

 日常見聞きしたり体験したことを、ふりかえって吟味する場所。それは誰にでもある場所かもしれないが、この作者の場合、「死なないだけでは、生きていることには、ならないんじゃないか」という「遠くからの別の声」が反響するような場所でもある。そして詩を書くとは、そんなふうに思えてしまう気持ちを内向きの他者の声のようにして、問いを「生きている」場所にたたしめることのようだ。

 この詩集で語られる日常のベースになっているのは、家族の生活誌とでもいえそうな世界だ。「同一性」という詩では、子供の視点から見た父親の姿が捉えられているし、「痛み」という詩では子供を叱る時に、つい手をあげてしまった父親の気持ちがテーマになっている。「共生」という詩では子供が拾ってきた犬の観察が、「死後」という詩では妻への愛憎が潜在的なテーマになっているのように思える。また「」という詩は、詩のなかで1.2.3.と数え上げられる数が、巧妙に人の寿命であることが隠されているが、最期の呼びかけは親しく傍らにいる子供に向けられているように思える。

 こういう詩群を読むと作者はただ「死なないだけ」どころじゃなく、愛情深い父親としてよくやっているんだなあ、という感じを受けるのだが、そうでありつつも、おそらく「死なないだけでは、生きていることには、ならないじゃないか」という作者の内心の声はたえないのだと思う。それは、「同一性」や「痛み」という詩で、なにがそのさわりになっているのだろうか、と考えるとわかる気がする。

 「同一性」という詩には、子供の目に、父親が、朝と、仕事に疲れて帰宅した夜では別人のように見える、ということが描かれている。これは、実際に子供が日記や作文に書きつけてもおかしくない発想だ。でも作者がこのエピソードを作品化したかったモチーフは、むしろ、その発見を否定して「顔を真っ赤にして」「まくしたてた」母親の反応の過敏さにあったのではないだろうか。また「痛み」という詩には、思わず手をあげて子供を叱ってしまった父親の後味の悪さが描かれている。けれどこの作品でも本当のモチーフは、そのとき(「抵抗力のない泣き顔」が、かわいいという理由にもならない理由で)「二発余分に殴ってしまった。」という不条理な自分の所作を反芻することにあったのではないだろうか。

 そう考えると、作者の目の向きかたが、とても倫理的なモチーフを呼び込んでいるのがわかる。父が別人のように見えるのは仕事の疲れのせいだということは言われればわかる。自分が殴られたのは理由があってのことだと諭されればはわかる。ただ、父親が別人のようにみえること自体を気のせいだと否認されたり、ことのついでのように(理由もなく)殴られることの意味はまだ子供にはわからない。

 こういう生の場面に、自分(たち)の身をきるようにして丁寧に視線をとどかせようとする詩の作者はあまりいないと思う(この詩集でいえば、臓器移植推進言説のはらむ倒錯性を批判した「コントロール」のような、ある意味痛快な詩を書くひとは多々いても)。

 「死なないだけでは、生きていることには、ならないじゃないか」という内心の声をかかえながら、一方で長尾さんの世界は生活する人としての確かな持続に支えられている。機会があれば前詩集『縁起でもない』と併読すると、いっそうその持続の確かさ、生活感性の豊かさがわかると思う(たとえば「偽装」という詩に登場するKというイニシャルの人が、ずっと長尾さんの中で生き続けてきたのだということなども)。

** 最後に、「雑巾の絞り方」という散文詩について。この詩で「正しい雑巾の絞り方」(雑巾を縦にもって絞る)というのを、はじめて教わった。作者も、「恥ずかしながら38歳になるまで知らなかったのです」と、書いているのだが、私は作者より10年近く年輩なので、なんというべきか、という感じだった。

 なぜ横絞りが習慣になったのだろうか(作者のように、私も子供の頃は縦に絞っていたような気がする)と考えて、ひとつ思いついたのは、縦しぼりでは、今どれくらい絞れつつあるのかが、絞っているときに、よく視認できないからではないだろうかというこことだ。このあまり当てにならない思いつきについて、いつか長尾さんにお考えを聞いてみたいと思っている。

長尾高弘詩集『頭の名前』(2000年10月10日発行・書肆山田)

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