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北村太郎「冬を追う雨」を読む 関 富士子 |
毎年北村太郎の命日(10月26日)の近辺に行われる講演会「北村太郎の会」(2000.11.12)に出かけた。早めに行って、会場の横浜大桟橋国際ターミナルの展望室で港を眺めながら詩集を読んだ。
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北村太郎の「冬を追う雨」に、恋人にあてたメッセージが折りこまれているのを発見したのは宮野一世さん(詩誌「μ」(ミュー)0号1993年10月26日発行に発表)だが、折り句がわからなくても少しもかまわない。冬の終わりの雨上がりの朝の、みずみずしい季節感がたっぷり味わえるだろう。
カワヤナギの穂が土に落ちているのを見て、毛虫かと思う。そういえばシダレヤナギは髪をふり乱した人間みたいだ。こういった連想はだれにでも覚えがある。ぎゃくに、正反対の性質と思いこんでいたものが、案外類似のメタファーで結びつけられることに気づくことだってよくあるものだ。
穂をおおう細かな花も一つ一つはかれんだが、離れて見るとわいせつだ。詩人はそこで、「この変形は自然の悪い冗談みたいだ」とひとりごちる。ちょっと苦笑しているような風情である。一つのものをさまざまな喩で「変形」してしまうのは自分なのだから、その苦さは自分自身に向けられている。親しいものの別な面を見せられて鼻白みながら、手前勝手を思い知らされるような気分なのである。
しかし、この詩の「カワヤナギの穂」の連想には、なにかただならぬものがある。冬には「暖かそうでかわいい」「カワヤナギの穂」が「踏んだら血(青い?)の出る毛虫」へ、さらに「かたまって死んでる闇の精」へ。この「変形」には、北村太郎という詩人が生き物を見るときの、ある種のグロテスクな認識を感じさせるのだ。これはどういうことだろう。
タイトルにあるように、雨が冬を追うのである。 詩人は前夜その「ひどい音」を聴いていた。時間が次の時間に追っぱらわれる響きを。その闇の中で、「悪い冗談みたい」に「変形」していく生き物たち。ここには、生命の誕生から死までの過程につきまとう、不可避の無慈悲さがある。それはカワヤナギの穂にかぎらない。自分のあずかり知らぬところで人生は「変形」されてきたし、これからも「変形」されるだろう。そんな苦い思いが、春近い雨上がりの朝の光景をどこかむごたらしいものにする。
「自然の悪い冗談みたい」は、北村太郎の詩に通底しているもう一つの言葉、「宿命」(「ススキが風上になびくような」)へと繋がっているかもしれない。
紙版no.18に掲載2000.11.25発行
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