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vol.18
<詩を読む>

藤富保男詩集『第二の男』を読む


桐田 真輔



 『第二の男』は13編の散文詩を収録した詩集で、末尾に「覚書」と題された一文 が付されている。収録されている散文詩には、そのほとんどに「ぼく」という語り手 が登場して、この「ぼく」が遭遇する摩訶不思議な事態が、平易な筆致で夢物語のよ うに描かれている。どんな摩訶不思議な事態が描かれているかというと、帯文を引用 すると以下のようだ。

 「藤富保男がアフリカのインコを自転車にのせて疾走する。あるときはセビリアの理 髪師とおしゃべり。時にはランドセルを背負っての小学生に化身する。そしてまた鍾 乳洞のなかで狙撃されてしまう藤富保男。この詩集には奇才、変人の芸術家たちが、 ちらっと顔見せをする仕組みになっている。」
 

 詩集を読んだものには、情景が蘇ってきて、思わずにんまりしてしまう紹介文だが、 このおそらく作者の手になると思える一文には、ちょっとした言い方の面白い工夫が ある。それは、作品に登場する「ぼく」がイコール藤富保男、とみなされていること だ。作品のなかで、小学生になったり、死んでしまう「ぼく」は、本当は作者の分身 「第二の男」で、作者そのものではない。けれど、そうみたてることで、はじめて味 わえる言葉の世界というものがある。こういうみたての感覚を、言葉遊びに過ぎない、 と身構えてしまうと、ついに味わいつくせないような豊かな言葉の世界というものが あることを、この詩集は教えてくれる。

 たとえば、チャップリン、ジャン・コクトー、ピカソの3人が、黒い服、白い足袋 をはいて、阿波踊りを踊りながら道を遠ざかっていく、という情景を描いた冒頭の作 品「夕陽」を見てみよう。これだけかくと、わけがわからないと思うが、読み終わっ て、この作品ののこす不思議な詩情を感じるひとも多々いると思う。これはなぜなん だろう。

 いろんな読み解きができると思うが、この作品で、最初ぐっと引きつけられるのは 作品から喚起される映像的なイメージの鮮やかさだ。奇才、変人芸術家たちが阿波踊 りを踊っている、という。それだけでは、おそらく恣意的で奇怪なとりあわせの謎め いた夢の情景描写みたいなものかもしれない。けれど、この謎は、「20世紀の向こ うから歩いて来た三人が、道の果てに消えていった」という最後の行でさっととける。

 なんと、この詩は今や「夕陽」のように暮れ落ちていかんとする、20世紀(の思 い出)に捧げられ、また追悼する詩だったのだ。三人の芸術家、映画や詩や絵画とい うジャンルで、それぞれ20世紀の代表選手のように言われる彼らは、自らその芸術 の祝祭空間の演出者であり、主役でもあった。彼らこそ、その世紀の幕引き興行にふ さわしいのではないだろうか。彼らは「喪」を示す黒服で、しかも祖霊を慰め、死者 の世界に送り返すための盆踊り「阿波踊り」を踊る(白足袋はピカソの絵の牛のひづ めの線描を鮮やかに想起させる)。このイメージを味わっていると、この芸術家達の 阿波踊りという奇矯な構図が、20世紀をみおくるのに、すごく説得的な光景(そこ には遠くほのかに作者の個人的な感慨も溶かし込まれているように思えて)のように、 見えてこないだろうか。

 印象深いが謎めいた情景描写からひきこまれて、最後にその謎があかされて、最初 わからなかった細部の言葉の意味がよみとけるようになる、という作品は他にも収録 されているが、ここでいってしまってはもったいない。

 映像が立ちあがってくるという意味では、「盛大なもてなし」という作品のすっぽ ん料理の気味の悪さが無類だったし、「占う」という作品は、こんなふうに自在に情 景をつくっちゃっていいのかと思うくらい、言葉の仕掛けの宝庫みたいな作品だと思っ た。

 詩集末尾にある「覚書」の中に、「詩行のなかに絵を描くべし。像を求むべし、像 あらば屹立せる姿あり。姿は形なり。形整えば香り生ず。これ詩の思想と申しても過 言にあらず。論理、理屈にて詩を書くべからず。」という一節がある。

 夢は「見る」という。つまり意味以前に映像の連なりを「見る」ことが先立つ現象 で、「了解(関連づけ)」は遅れてやってくる(脳のたぶん別の場所で)。こういう ことを「痛み」を例にあげて示唆した「ケガから怪我になる正しい順序」という散文 詩も収録されているのが面白いが、たぶん、詩を創作するときの、映像イメージを喚 起する表現の重要性に、とても注意をはらって作られたのが、この詩集なのだと思う (冒頭の「夕陽」は、まさに形整って香りが生じている好例だと思った)。

藤富保男詩集『第二の男』(2000年10月30日発行・思潮社)



 

足立和夫詩集『空気のなかの永遠は』を読む


桐田 真輔



 作者の第一詩集『空気のなかの永遠は』には、作者が初めて書いたという「眠る部屋」という詩も収録されている。作者は「あとがき」で、その詩を書いたときの思いを記しているのだが、とても印象的な文章なので、すこし長くなるが、引用してみる。


「初めてことばが私を掴まえたリアルな詩であった。
ことばが私を絡めるように捕らえて書かれ、救われることがあることを知った詩である。ふしぎな体験だった。まるで、生きて存在することの向こう側が裏返って見えたような気がしたのだ。
しばらく忙しい日々が続いた。
その日常のなかで、あの体験の感覚の跡をいつしか追い始めていた。なんだか不幸になるように思われたが、追う姿勢が自分の姿なのだと思い込んだ。あの感覚こそが、この世の鍵なのだと信じていた。
しばらくのあいだ、空をもがいた。
ときには現実の底に沈む永遠に近づいたと思うことがあった。
永遠ではなく無だったのかもしれないが。
この詩集は、その悪戦の痕跡でもある。」(「あとがき」より)


 この世界には、言葉を、でなく、言葉のほうから自分が掴まえられ(るように思われ)たり、書くことで「救われる」ということがありうる。もちろんそのためには、言葉がいわば沸騰寸前の水のように作者の脳裏の沈黙の相で煮え立っていることが必要だったかもしれない。

 この「眠る部屋」という短い散文詩では、「歪んだ(会社)のなかで、不意に犬のような沈黙を口に押しこめられた男」が、自分の住む部屋に帰りつき、眠り込んだのちに、「(部屋)の呻く声」が、その男の体(詩では「その死体の怠惰を」となっている)を、「病気のようにくぐりぬけていく。」という象徴的な情景が描かれている。そうして朝になり、男は起きあがり、「当てにならぬ彼方を目ざし部屋の夢を後にする。」と、作品は終わっている。

 なにが語られているのだろう。「あとがき」の言葉をからめて深読みを覚悟でいえば、おそらく、あるとき「(部屋)の呻く声」が、実際にまどろんでいる作者の耳に聞きとれたのだ。ここで「(部屋)」とは、屋外や社会に対置されるようなプライベートな居住空間を意味しているのではない。男が「死体」のように眠りこけているときに、その体を「病気」のように潜り抜けていく「呻き声」や「夢」の主体。つまりは、うまい言い方がみつからないが、他者(他在)というのに近い。この他者(他在)性の根源が、男自身のみた夢や幻覚であるとのみいいきれないのは、作者がその体験に、なにか私性をこえた奥深さや実在の手応えを確証したからであるだろう。そのことで、関係としての「会社」や、空間としての「部屋」、ということを越え出た、あるいは世界の約束事、現実と人が呼び慣わしている世界そのものを越えでた超越性に展かれているような何ものかの呻き。。。

 この他者(他在)の想念の源泉は、いくつもの作品の中で、おそらく、「青空」、「神」、「夜」、「永遠」、「空白」、「光の記憶」といった言葉の相で、言い当てられようとしているように思える。しかし、そのイメージに寄り添うこと(憑依すること)は禁じられている、というのは、作者の場合、それは「(部屋)」という他在の夢として、一種の強制体験のように感受されたことからの約束事だからだ。にもかかわらず、ときとして他者(他在)は、他者(他在)の目(世界の実相)から地上(日常世界)を見るように要請する。

 この受肉した棘のような視線の扱いが、作品のピークをつくることになるが、それは作品の中に、世界を相対化するような批評的な視線を組み込む、ということと微妙に違っている。そこには一見絶望的な距離と無関係さが、横たわるばかりだからだ(それは人格化されたときだけ、冷酷で無慈悲で気まぐれな旧教の神に似てくる)。だが、ほんとうにそればかりだろうか。たとえば、「燃える月」や、「冬の殺意」という作品が、なにかそれ以外のことを告げていないだろうか。かなうとすれば、作者の「悪戦の痕跡」(あとがき)の持続が、これから明かしてくれるものに注意していたいと思う。

 このことは付け加えたいのだが、一方で、この詩集に収録されているいくつかの作品では、通勤生活者で単身世帯らしい作者の生活のこまやかな襞の部分が、やわらかな言葉で定着されていて、この緊迫感の高い詩集の中で、ほっと息をつげる魅力的な箇所になっている。「タバコのけむりが/背中をはって/店のなかにひろがる」(「ランチタイム」)や、「若い女神が視線で孤独を確認して/レジを叩き 金をすばやく/長く綺麗な指ですくいとった」(「スーパーの夜」)といった表現の臨場感がすがすがしい。

 たぶんこうした作品も含めたほとんどの作品が、作者がかいまみた固有な超越性と生活感性の対比を潜在的なモチーフにして、書かれているような気がする。そしてその対比のはらむ憧憬や緊張感や不条理感(一元化されない実在世界の不遇感)というところで、私たちはきっと私たちの心に棘のようにささった「超越性」について思い巡らすときの、同時代の詩のことばと心に出会っているのだ。

足立和夫詩集『空気のなかの永遠は』(2000年10月25日発行・編集工房向こう河原)

 

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mail桐田真輔 HP:KIKIHOUSE(個人) HP:あざみ書房(管理)

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