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vol.21
<詩を読む>
 

平田俊子詩集『ターミナル』をはじめとして、

奥野 雅子


あなたの泣き顔を見せてください
わたしも泣くからそばにいてほしい

あなたが生まれた町の
地図を書いてください
いつかいっしょに行けたらいいね

 (ひ・と・び・と/詩集「ターミナル」/平田俊子)

 私のような無名の詩人が他人の詩について、あれこれ意見や感想を言うことは、なんだかおこがましいような気がする。必要にせまられて感想を発表する時があっても、あとから読みかえすと、まるで見当ちがいになっているような気がする。自分でそう思うのだから、他人やその詩の作者が読んだら、なおさらだと思う。
 それでも、ひとの詩を読むのは楽しい。もしかしたら、「まるで見当ちがい」の読み方をしていても、私はそんなふうにして自由に鑑賞できる詩というものが好きなのだ。黙って読者に気ままな読み方を許している、詩というモノの控えめさを愛している。

 こんなに長々と前置きしてまで書きたいのは、平田俊子さんの詩のことだ。
 平田さんの詩を読むと、読者に対して礼儀ただしい距離を守りつづけているのを感じる。読んでいる人に対しては何も突きつけてこないが、詩のなかの生き物には、たびたび(刃モノなど)突きつけて、あっさりと死にいたらしめてしまう。その意味はなんなのだろう。たとえば、詩集「ターミナル」の数多くの死の場面に、そう考えたくもなるが、何も突きつけてこない作者に対して、こちらも何も「答え」を押しつけないのが礼儀、という気もする。
 平田さんの詩は、ユーモアに溢れていて、どんどん面白く読みすすめてしまう。が、ときどき立ち止まらざるを得なくなる、どきりとする意味深な言葉も織りこまれている。たとえば無数の死の場面。
 たとえば、冒頭に引用したような言葉。

 あなたの泣き顔を見せてください
 わたしも泣くからそばにいてほしい


 ふつうだったら赤面モノの表現だが、平田さんの詩のなかでは、ウィットの一部として、ごく自然に読まされてしまう。ロマンティックな表現として読んでしまえば、読んだ人が浅はかだ。そう思わされてしまうところがある。
 でも、そこが作者のトリックで、この言葉はやっぱり、作者のなかに甘酸っぱい感情をともなって存在していて、それをウィットでごまかしているのではないか、と勝手な読者は想像する。

 「自分の感情を素直に親にぶつけることが、どういうわけかできなかった」と、あるエッセイのなかで平田さんは語っている。そのように、詩のなかでもストレートな自分の感情をはぐらかしているのではないか。そんなふうに平田さんの詩のなかの「照れ」を邪推しながら、かえって、私は平田さんに対して自分勝手な好感を抱いている。

 私が最初に読んだ平田さんの詩集は「(お)もろい夫婦」だった。この詩集はひたすら楽しみながら読み、これを読み終えたとき、私は平田さんのことを「おもろい詩人」だと思い、イイなあ、と思った。
 じつは、この詩集には平田さんのサインまでいただいている。
 私は以前、憧れの詩人である平田さんに私の詩集をお送りした。でも、サインをしてもらったとき、平田さんはまるで私の名前を記憶していなかった。そこがまた平田さんらしいところだ。たぶん、平田さんは、読みたいものだけを読み、読み終わったら捨てるのだろう。そんな方であるような気がする。

 もともと詩集は、作者とお近づきになるために読むのではない。好き勝手に読んで、その作者についても、自由に想像できるのが読書というものだ。私はこれからも、平田俊子さんという未知の詩人について、自由に想像をめぐらせたい。

平田俊子詩集『ターミナル』思潮社、1997年10月発行、2,200円
 
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